人を重いと感じること。
年末の朝に、父方の祖父母の家へ行った。東京から夜行バスで帰ってきた朝、じいちゃんばあちゃんちへ続く道の角を曲がったところで、ふたりと鉢合わせした。
「いまからロイヤルホストで朝飯を食べに行くねん」
なんと貴族的な朝だろうか。ぼくなんて、家でも朝飯を食べないのに。一晩中、せまい車内で座りつづけたぼくの胃袋は、すっからかんだった。だから、何も言わずふたりのおともになった。桃太郎の犬・猿・きじのような関係性だ。
祖父母と道中で出会うことはよくあった。学校帰りに、たまたま買い物に行っていた祖母に会って、家でおやつをもらったりしていた。だから、ひさしぶりに地元でふたりに会ってなんだか懐かしかった。
ひとつだけ懐かしくなかったのは、祖母が車イスに乗って、祖父がそれを押していたということだ。
ロイヤルホストまでの道は、徒歩で10分ほど。休日は、よくふたりで運動がてら朝ご飯を食べに行っていたことは聞いていた。その習慣は、祖母が車イスになっても続いているようだった。
車イスを押すのは、6年ぶりぐらいだ。
母方の祖父を、病院でさんぽに連れて行ってあげたのが最後で、すごく久しぶりだった。両輪のブレーキをはずし、左右の持ち手の力加減をうまくつかってまっすぐに進む。下り坂は、後ろを向いてバックで降りないと乗っている側があぶない。
過去の経験を思い出すように、車イスを押した。
あぁ、この感じいいな。
ぼくが嬉しかったのは、祖母と車イスがとても重たかったことだ。ずっしりと、人の重みがする。車イスが思うように、うまく前へ進まない。ちょっとした上り坂には、ある程度の力がひつようになる。
「ばあちゃん、重いなぁ」
こんなことを言えるうれしさがあった。
身長でいえば、ぼくと祖母は30㎝以上ちがう。歩くこともしんどそうになっている姿から、年々、その背中がちいさくなっていってることにちょっとした寂しさがあった。セーターを編んでくれたり、服を直してくれていたばあちゃんが、デイサービスで折り紙をつくって楽しんでいる姿を、喜んでいるようで本当はあまり見たくなかった。
勝手に小さくなっていて、軽くなっていると思っていた祖母がずっしりと重い。
車イスを押している腕を通じて、「ここからやで」と語られているような気がして、生きる力がどんどん伝わってきた。
「重い、重いなぁ」
からかうように、妙にそれが嬉しくてぼくは何回も言った。祖父はその横で、「ええなぁ、わしも押してほしいわ」と悪い顔で笑っている。祖母もまた、笑っていた。
誰かに比べて太っている、痩せているで人の重さを判断することだけが、いままでのぼくの「重い・軽い」だった。でも、ほかの人に比べて軽いかもしれないけど、祖母はずっしりと重かった。それは、生きているってことを感じられたということだと思う。まだまだここからだと、実感できたことなんだと思う。
人を、重いと感じられることは、すごく嬉しいことなんだ。
この感覚は何だろうか。いろいろ考えていたら、いとこの女の子を思い出した。
久しぶりに会って、成長した彼女を抱きかかえたときに、ぼくはおなじような嬉しさを感じた気がする。ふたりに共通して感じられたのは、きっと未来という向かう先だ。人を重いと感じることは、きっと未来を感じさせてくれるんだ。
ロイヤルホストで、朝の和朝食をたべた。
せっかく貴族的な朝をむかえられるのに、ホットケーキセットや、フレンチトーストセットを頼むつもりが、おいしそうな鮭の塩焼きを選んでしまった。祖母が食べきれないご飯を、祖父が茶碗にうつしてバクバク食べている。どうやらこの人は、まだまだ元気そうだ。
「ばぁちゃん、やっぱり重いなぁ」
帰り道で、ぼくはまた言ってしまった。
「朝ご飯たべたぶん、重くなってるやろ」
笑いながら言った祖母は、たしかに重く、ゆっくり家へ帰った。