恋は、うんちに似ている。
恋愛について、ぼくはあまり語れない。
例えば、デートの仕方とか、女性がよろこぶプレゼントの選びかたや、メールのやりとり、この辺はもうぜんぶ語れない。これまでの人生、失敗ばかりをしている。そもそも、誰かに恋愛相談をされることも少ないので、たぶんそういうダメな雰囲気をまとっているのだと思う。
ただ、恋というものについては、すこしだけ考えていることがあるので、そのことについてちょっとだけ聞いてほしいです。
恋をしている時間が、人に与えてくれる余韻がぼくは好きだ。
意中の相手にメールを送ったあと、なんども内容を確認して、こう思われたらどうしようと考えたり、こう発展してくれたら嬉しいなぁと妄想したりする時間が好きだ。送信ボタンを押す勇気を出した人だけが、その数分、いや下手したら数時間を感じていることができる。
余韻が、すべて輝いているとは限らない。返信なしというパターンにおびえたりして、それでも時間はすぎていき、ちょっとだけ忘れて、別の何かに一生懸命になっているときに、スマートフォンが震える。とくに、何をしてもらったでもないのに目の前の人にやさしくしたくなる。
恋のおかげで、今日、誰かにやさしくしてもらった人がきっといると思う。何だったら、ぼくに関わっているすべての人が、みんな恋をしていてほしい。できるならその相手の人と連絡をとっておき、ぼくと会っているタイミングでいつも返信をしてもらうように伝えたい。
駅の改札口で、さようならと手をふる男女を見るのが好きだ。悪趣味かもしれない。だけど、電車が来てしまって、手を振りあったあと、背中を向けあった瞬間の表情をどうしても見たいのだ。
今日一日がどれだけしあわせだったかは、その表情をみればすべてわかる。べつに、とびきりの笑顔ではないが、なんとも言えない満足感に包まれた顔をしている。おそらく、彼や彼女は、余韻を味わっているのだ。
恋は、うんちに似ている。
“うんこ”か、“うんち”か悩んだけれど、すこしだけかわいいと思ったほうを選びました。
どういうことか。
たとえば、今日ぼくが腹いっぱいにご飯を食べたとする。食物繊維たっぷりのお野菜がはいったお鍋を食べたとして、翌日の朝にやってくるのは何だと思いますか。
そう快便です。
お腹のなかにたまっていた昨日のお鍋が、すべて放出される。じぶんの“うんち”にすこしだけ愛らしさのようなものを感じてしまい、流す前にちょっと目をやってしまう。
してしまいません?ちょっとした観察をしません?
・・・・しなかったらごめんなさい。
そういえば、幼稚園の頃に、夏休みの宿題で、毎日の健康状態を判断するためにうんちを観察するという宿題がありました。たぶん、しぜんと自分の体調を管理するという意味でも、うんちに目が行くと思うんです。
その“うんち”がとても立派なものだったときに、とくに何か素晴らしいことをしたわけでもないのに、とてつもない満足感がやってくるわけです。
すっきりしたおなかは、トイレを終えたあとも数分つづく。体のそこから何者かが、「おい!今日はいい仕事しただろ」と語りかけてくる。
「あぁ~、今日のトイレはよかった、いいパフォーマンスを披露できたなぁ」なんて、しばらく余韻にひたっていると、いろんなことが上手くいく気がしてくる。
恋の余韻も、この“うんち”をしたあとと似ているとぼくは思っている。
「あぁ~、今日のデートはよかったなぁ、あの会話が嬉しかったなぁ」なんて思いながら過ごしていると、顔がゆるんだり、世界が輝いて見えてくる。
“恋”と“うんち”そのどちらにも共通しているのは、全力を放出できたことに対する嬉しさだ。そして、その嬉しさはしばらく続く。好きな人と交わした言葉がつぎつぎと駆け巡るように、うんちを放出した瞬間の快感もウオッシュレットをあてた気持ちよさも、しばらくかみしめられる。
恋がくれる余韻のすばらしさは、もしかしたら、開放感でもあるのかもしれない。うんちを我慢しているときのような、ちょっとした緊張感のようなものがあるから、恋はいいのかもしれない。
我慢して、我慢して、ようやくたどり着いた今日の日が、とてもすばらいいものだったときに、恋はとてつもないしあわせをくれるのだ。
我慢して、我慢して、快便だ。
そういえば、中国語でトイレットペーパーは“手紙”と書くって中学校の英語の教科書に載っていた。ぼくは、このことを使って、恋とうんちの関係性について、いろいろうまいこと言えないか考えた。
でも、どれもクサい。
クサすぎるので水に流すことにする。(うんちだけに)