得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

まぼろしの唐揚げ屋さん。

 

営業に配属され、自転車に乗ることを知ったとき、仕事してるだけでダイエットになるぞと喜んだ。

 

となりにいる、そんなぼくを笑った先輩は、入行してから体重が20キロ増えたと聞く。

 ほかの先輩もおなじことを言う。どうやら、そんなにうまくはいかないらしい。

 

 

 

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あれから2年。ぼくはいま、営業に出る前から5キロほど体重が増えた。

 

毎日おなじ町に行き、延々とノルマに追われる生活のなかで、なによりも変化をつけられるのが食事なのだ。

 

新規顧客を獲得するのはめっきりだが、お昼ごはんの新規開拓はどんどん進む。 

 工事中の看板が建ったら、定点観測のように新しい店ができるのを眺め、楽しみに待つ。

 

 

 

 

ひとつ、紹介したい店がある。

 

名前は言わないけど、その店の話をしたい。

名前をつけるなら、『まぼろしの唐揚げ屋』がちょうどいい。

 

 

唐揚げが5つ、オニオンリングが1つお皿にのっている。ごはんと味噌汁は自分でよそい、食べ放題。

となりにある、テレビに出るぐらい人気のうどん屋さんがグループとして出したお店で、素材にもこだわっているそうだ。

 

 

これがうまい。

 

 

何が特別ってわけじゃないが、満足感がすごい。気づけばご飯をおかわりしてしまう。衣がぼくの好きなサクサクのやつだ。片栗粉を使ってると思われる。

 

 

「どんっどん、食べてくださいねぇ」

 

 

お店を任されているおじさんは、とにかく声が大きくよく喋る。イヤホンを付けるタイミングがちょっと遅れた日には、食べ終わるまで会話をするはめになる。

 

フードファイターみたいな女の人が、ご飯を五合食べていったことを、おじさんは楽しそうに語る。料理の自慢というより、とにかく雑談が好きなのだと思う。

 

気づくと、週に一度は、そこで唐揚げをたべて、おじさんの大きな「いってらっしゃーーい!」を聞いて仕事に戻るようになっていた。

 

 

 

さて、どうしてその店は『まぼろしの唐揚げ屋』なのか。

 

昨年末、とつぜんお店は不定営業になった。不定休ではない、いつ開店してるのか分からないのだ。

 

 

いつ行っても、看板にはclosedの文字。開いていない唐揚げ屋を求めていても仕方ない。となりのうどん屋へ行く。

 

 

 

そこに、おじさんがいた。

 

お店の端っこで、ネギを切っている。その姿には、ひとりで唐揚げを作ってる威勢の良さはない。ただただ静かに、うどんに乗せるネギを刻んでいる。

 

なんだかとても、寂しかった。

したっぱサラリーマンをやっている自分の姿を、おじさんに重ねてしまったのかもしれない。

 

 

話を聞けば、唐揚げ屋はメインであるうどん屋の人員不足により、営業ができない状態にあるらしい。

 

 

 

「また、いつか開けますんで」

 

おじさんの声は、となりの唐揚げ屋の時に比べて弱々しかった。

 

それから、数ヶ月経ったある日。

 

 

OPEN!!

 

 

唐揚げ屋が、開いていた。

 

ドアを開けると、「いらっしゃいませ!」とおじさんの声が響く。数ヶ月ぶりに食べた唐揚げは、やっぱりうまい。ご飯も、味噌汁もうまい。

でも、静かに食べたいからすぐにイヤホンをつける。そんなことも変わらない。

 

これだよこれ!と思って、周りを見渡すと、同じように作業着やスーツの人が、山盛りのご飯を食べていた。

 

食器を返却し、店を出る。

 

 

「いってらっしゃーーい!」

 

 

おじさんの声を背中に店を出る。この声の大きさ、うるさいけれど、悪くない。そんな感じで、またいつもの日常がひとつ戻ってきたと思ったわけです。

 

 

 

そして、今週の月曜日。

 

誘われるように行った唐揚げ屋、そこにはまたclosedが寂しくかけられている。

うどん屋をのぞけば、おじさんが机を拭いている。同一人物とは思えないぐらい、テンションが違う。

 

 

でも、よかった。一度は再開したんだから。

 

たった数日だったかもしれないけど、人員不足が解消された時、あの店はたしかにopenしていた。

 

『閉店した唐揚げ屋』じゃなくて、

『まぼろしの唐揚げ屋』になったんだ。

 

 

ネギを刻んだり、机を拭いている物静かなおじさんは仮の姿で、本当のおじさんをぼくは知っている。このギャップを、楽しめるのは観光客ではなく、毎日ここに来ている人間の特権だ。

 

 

 

結局その日は、うどん屋には行かず、別の中華料理屋さんへ行った。じつは、そこにも独特なおばちゃんがいて、それはそれで話になる。

 

 

 

あぁ、体質改善しないといかんなぁと思いながら、今日も電動自転車のアシストで前へ進むのです。

 

 

 

好きの海を遠泳したい。

 

多趣味とまでは言えないが、好きと言いたいものは多い。

 

漫画、映画、書籍なども、それなりには触れているし、スポーツを観るのも好きだからオリンピックは楽しみで仕方ない。

 

好きの深度について、考えていたことがある。サブカルチャー的な、これなら圧倒的に語れるジャンルのものをひとつは持ちたいと思うのだけど、広くそして浅く、好きなものを増やしている気がする。

 

 

たとえば、就職活動の合同説明会のように、たくさんの島で、とあるジャンルの猛烈なファンが語り合っている場所があったなら、ぼくは行き場をなくして会場をあとにするだろう。

 

 

 

 

好きなものって、すぐに大好きにならないとダメなのだろうか。

 

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特別にみんなよりも『好き』の力が強いことは、必要なのでしょうか。ちょっとでも、「あぁ、ええなぁ」と思うものがあったら、それはその瞬間から、大好きなものに向かって動き出さないといけないものなのだろうか。

 

広く浅く好きなものを増やし続けることは、ともすればミーハーと言われてしまう世の中だ。マニアックであればあるほど、知らない知識が出てくるほど、かっこいい。でも、すぐにそんな背伸びしなくていいんじゃないだろうか。

 

 

ぼくは、好きの海は深さではなく、広さを意識するべきだと思っている。

その先に、深度は自由にあとで考えたらいいんじゃないだろうか。

 

 

 

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これは、ぼくが広告を好きになって、なんかいいなぁと思っていたおじさんの絵です。

柳原良平さんというイラストレーターが手がけた、サントリーのトリスの広告に起用されキャラクターなのですね。

 

 

かと言って、絵を買って飾るわけでもなく、でも町を歩いていて見つけたら、ニヤリと笑う程度に好きだったおじさんでした。

 

 

営業を任されたその町には、どこかそのおじさんに似た看板がありました。

 

毎日、その絵を眺めては「あれって、そうだよなぁ」とか思いながら、通り過ぎる。そんな感じで1年ぐらいが過ぎたとき、とあることが判明します。

その看板は、お客さんの会社のものだったのです。

 

 

「もしかしてあれって、柳原良平さんの絵じゃないですか?」

 

「えっ!あなた、なんでそんなこと分かるの」

 

 

話を聞いていくと、柳原さんのお父様がこの町の発展に貢献され、幼いときに彼はここで船の絵をたくさん描いていたとのことだったのです。そして、縁あって、お客さんと仲良くなり、会社のイラストを手がけてくれた、そんな話でした。

 

 

ある日、定期預金の書き換えで自宅を訪問したとき、お客さんが通帳のほかに、1枚のポストカードを持ってきました。それは、柳原さんが親交の深かったご主人に送ってくださった、何年も前の個展の案内状でした。

 

 

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「なかむらくん、柳原さんのこと好きって聞いたから、せっかくだしあげるね」

 

 

 

広告が好きで、でも、広告業界に就職できなくなった時点で、ぼくの世界は完全に閉ざされたものだと思っていました。

好きなものを、声をあげて好きと言えず、もう遠く離れたものにしてしまっていたぼくにとって、仕事の時間に柳原さんの絵について話ができる日がくるなんて夢のようで、うれしかったです。

 

 

あぁ、この仕事をしてなかったら、出会えなかった嬉しさだし、柳原さんの絵を好きって思ったことを大切にしていて良かったと思えました。

 

 

 

それから、数か月後。

 

ぼくは、コピーライター養成講座という広告の学校に通いました。サントリーの広告を手がけていた、西村佳也さんという素晴らしいコピーライターの先生とお話をしていたときに、柳原さんのことを聞いてみました。

 

船が好きだということや、営業エリアが縁のある場所だということなど。西村さんはそこからたくさんの当時の話をしてくれました。

 

 

 

ぼくが、好きということを大切にしていなかったら、浅くても、好きの海をひろげていなかったら、きっと西村さんに話を聞けなかったと思います。

 

 

 

心の中で「これが好きだなぁ」と思っていたことが、ある日とつぜん、自分の生活に繋がってくることがある。その嬉しさは、もう格別で、運命の人と出会ったときのように、一気に自分の心を満たしてくれます。

 

 

柳原さんの絵が好きだったことが、時を経て、この町が好きになるきっかけをくれ、お客さんとの交友を深めてくれ、西村さんのお話をもたらしてくれたわけです。

 

 

 

ほかにもですね、ぼくは広島カープの大ファンなのですが、実は毎日前を通っている中学校がある選手の母校で。お客さんの息子が同級生だったり、お父さんがお店の常連だったり、そんな偶然があったりします。

 

 

相撲を観るのも好きなのですが、実は横綱のいる部屋が、ぼくの営業エリアで大阪場所は泊まり込みで稽古をしていて、テレビの取材がいっぱい来ていたりもします。

 

 

 

 

当たり前のことかもしれませんが、言います。

 

 

好きなものが、うれしいことを運んでくる。

 

 

柳原良平さんも、広島カープも、相撲観戦も、ぜんぶ好きじゃなかったら、なにもうれしくないことだったし、気づきもしなかった話です。0か1か、その境界線は、じぶんがそれを好きかどうか。

 

調べてみたら、じぶんの興味のあることに関係していることは山ほどあるのです。そして、それはすごく偶然的なしあわせを運んでくれる。

 

 

 

目の前にある、コンビニで貰いすぎた割りばしも、捨てずにたまっている不動産のチラシも、日経新聞の中身も、ぜんぶ好きなものだったとしたら、ぼくの周りにはしあわせしかない。

 

 

そこまで極端に、すべてのことを好きになる必要はないけど、でも、みんなよりも知っているとか、みんなよりも知識が浅いとかで、興味のあるものを捨てないほうがきっといい。

 

ほそ~い糸も、いつかどこかで、がっちりとあなたの人生と結びつくときがくる。その嬉しさを、みんなで待ってみませんか。

 

 

ぼくは、好きの海を遠泳していたいです。

 

 

そして、本当に大好きになりたいものがあったら、ザブンと潜ってみるのもいい。息は続きます、大丈夫。それもまた、自分のたいせつな心の支えになると思います。

 

 

今日、好きなものが増えたら、

明日、いつもの景色でしあわせに気づくかもしれない。

話もあわなかった人と、仲良くなれるかもしれない。

 

 

そんなふうに思うわけです。

 

 

 

 

 

・・・・

 

 

 

あぁ、柴咲コウさん、麻生久美子さんが好きだ。

人生に関係してくれ。

『ジュブナイル』を感じて。

 

 

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ぼくが知っている言葉のなかで、いちばん洒落ている英語を使いたい。

 

juvenile(ジュブナイル)

 

少年期という意味の英語です。

日本では、小学校から中学校ぐらいの少年少女たちが、冒険をしたり、恋をしたりして成長していく文学作品を、ジュブナイル作品とジャンル分けされていた時期があったそうです。最近はあまり耳にしません。ぼくも、今回、この言葉を思い出したときに調べて初めて知ったことです。

 

そもそも、どうしてジュブナイルという英語を思い出したか。

 

 

 

レンタルDVD屋さんで、ひょんなことから手に取った映画が『ジュブナイル』だったのです。

 

 

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その映画を、ぼくは小学校のときに一度観たことがありました。ストーリーは覚えていなかったけど、作品に出てくるロボットのセリフ「テトラ、ユースケニ、アッタ」という音だけはずーっと頭に残っていて、気づけばレジに並んでいました。

 

 

 

物語は、テトラというロボットと、少年少女たちの出会いから始まる。

 

主人公の部屋には、4人のともだちが入りびたる場所になっている。床にはミニ四駆や、コロコロコミックが転がっていて。少年たちは並んで線路の上を歩いたり、自転車にまたがって坂を駆け上ったりする。

 

夏休み、タイムトラベル、ロボット、恋、線路、自転車。

 

そこにやってきた謎の宇宙人。主人公とテトラは、地球を守るために戦うことになります。唯一の、大人として彼らの味方である研究者を演じるのは、香取慎吾さん。あの頃、この映画を観ていたぼくにとって、香取さんはものすごく大人に見えました。

 

いまでも、彼はずっと大人だ。

 

とにかく、少年期がどどどっと詰まったこの映画に、ぼくは15年ぶりぐらいに出会いました。

 

 

 

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話はとつぜんに変わるが、ぼくはドラえもんが大好きだ。

 

この絵は、ぼくが社会人になって、いちばん満足のいくお金の使い方をしたと思っている、劇場版『ドラえもん のび太と銀河超特急』の複製原画。

 

のび太ドラえもんたちが、ヤドリという敵に立ち向かうワンシーンが描かれています。

 

毎朝、ぼくは、この絵を見てから会社へ向かう。勇敢に立ち向かう彼らの姿、銀河超特急の色の鮮やかさ、そしてドラえもんという存在。すべてが、ぼくに勇気や活力をくれている気がしていて、もしかしたら、見るというより眺めるといったほうがいいかもしれません。

 

 

 

ジュブナイル』という言葉をひさしぶりに目にして、その意味を再確認したとき、ぼくは「あぁ、そういえば、ぼくが生きていたいと思える場所はここだった」とスキップしたいぐらい嬉しくなっていた。

 

何気なく、ドラえもんの絵を眺めてしまっていた行動の意味を、ようやく理解することができたからなのです。

 

 

 

 

ぼくは、『ジュブナイル』を感じていたい。

 

 

 

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社会人になって、言うことじゃないかもしれない。

 

でも、少年たちのひと夏の冒険や、恋の香りがする場所に、自分はいるのだと思いたい。できない自分への葛藤や、成長していく自分をもっと、劇場型としてみていたい。

 

 

『仕事をして、お風呂に入って、疲れて眠ってまた明日。土日は、いろいろやろうと思うけど、月曜日のことを考えるとちょっとしんどい。でも何とか明るく生きなきゃと思って、どこかに出かける。』

 

 

 

そんな生活こそが、これからの人生なのかもしれないと、うっすらと感じている自分にちょっと嫌気がさしてきていた。

 

 

 

なにも、田舎の港町でくらして、25歳にもなって半袖短パンで野球帽をかぶり、自転車にまたがって、宇宙人を探したり、花火大会に女の子を誘ったりしたいわけじゃないです。

映画の世界にずっといたいとか、ドラえもんが近くにいて冒険がしたいとか、そんな気持ちは無いわけじゃないけど、実現しないのはちゃんと分かってます。それなりに、社会的な大人だし・・・・。

 

 

でも・・・・。

 

 

例えば仕事をしていて、お客さんの話にすごく心が動かされた自分がいたら、その機微をもっと大切にしたい。とっても小さなことだったかもしれないけど、成長できたことを、喜んでいたい。それが、何に繋がるかは分からないけど。

 

帰り道に、とても綺麗な月があったら、もっと純粋に喜びたい。そのときには、会社のことなんか、ぜんぶ忘れていたい。

 

半額のシールが貼ってあるお寿司を持ってレジに並んでいて、前の奥さんのカゴに3割引きのシールのお寿司があったことを、もっとモヤモヤさせたい。そこに何かあるんじゃないかと、じーっと立ち止まりたい。何も、なかったとしても、いい悩み方をしたなぁと余韻に浸りたい。

 

 

 

いつの間にか、大人になって、成長の先に具体的な報酬を求めるようになってきている。それは、お金だったり、地位のようなものが多い。

 

昨日、会社の組合の集まりがあって、そこで出てきたのはボーナスの要求額や、役職手当の話題だった。もちろん大切だ。ぼくもいつか、そのことをもっと意識しないといけない立場になるかもしれない。

 

 

でも、でも、やっぱりそんなことだけを悩んで、生きていきたくはない。

 

もっと、無意味にワクワクしたり、モヤモヤすることを楽しみたいんだ。

当たり前のように、なにかを捨てていくことだけは絶対に嫌だ。

しんどいことも、うれしいことも、ぜんぶ一度は部屋に転がしたい。あの頃、自分の部屋にあったミニ四駆や、コロコロコミックのように。

 

 

会社の上司を、ノルマを求めてくる敵じゃなくて、宇宙からやってきた謎の生命体として立ち向かいたい。当たり前の存在として、受け入れたくはない。どうして、こんなにしんどいことをしないといけないんだと悩みながらも、あの手この手を考えたい。

 

 

好きな本を読んで、好きな映画を観て、そこで感じたことをパワーにして、どうせなら敵をやっつけたい。

 

一般的な大人はこうやって乗り越えるとか書かれたマニュアルはいらない。

 

 

 

成長の先に何があるか分からないけど、でも、もっと冒険する気持ちで24時間を過ごしたいし、1年を生きたいと本気で思っている。

 

 

ぼくがドラえもんの絵を眺める理由は、そこにある。

玄関の外に続く、不確定な世界を、一般化させて終わらせないためだ。

 

 

 

 

ここ数ヶ月、そんなことを考えつつ、下書きにためていたことが、1つの言葉で集約されました。この言葉に、出会えてよかったなぁ。

 

 

じつは、映画の『ジュブナイル』は、ドラえもんと深い関係があるのですが、そこはまた別の機会にでも。話がながーーくなりますので。

 

秘密のパン屋の、秘密。

 

営業に出ることになって、初めて引き継がれた場所はパン屋さんだった。

 

エリアをちょっと外れた場所にあるそのパン屋で、前任のベテラン行員さんは、モーニングセットを注文しぼくに言った。

 

 

「ここはねぇ、ずっと担当者が引き継いできた秘密の場所だから」

 

 

歴代の担当者がみんな、このパン屋でサボっていることを教えてもらった。引継ぎは、ぜんぶで3日間だったが、そのすべてのモーニングをそこで食べることになる。

 

 

当たり前のように、エリアを外れて、その人は自転車でパン屋へ向かう。

確かに、パンが美味しい。しかも、朝9時~10時はドリンクが100円。朝ご飯が200円で食べられる。すばらしい。

 

 

これからは、こうやって適度に仕事をして、適度にサボってサラリーマンをやっていこうと、そう思ったものです。

 

 

しかし、現実はそうはいかない。

 

 

 

もし、いまのぼくが転勤になったら、サボり場所の引継ぎだけで3日を要するほどに、仕事と休憩のバランスは崩壊している。一日の大半を、ベンチからベンチへとおしりを移すことに使う。よくサボり、ちょっと働くことで、なんとか精神を保って毎日をすごしている。

 

四季に応じて、快適な場所を提供できる自信がある。

 

では、そんなぼくが、1年を通してオススメする場所はどこか。

 

 

 

そう、あのパン屋さんです。

 

 

特にダメダメな一日だったときに、気づいたらそこでパンとミルクティーをいただいている。たしかにパンは美味しい。だけど、エリアを外れて、ちょっと遠いそのパン屋にどうして行ってしまうのだろうか。不思議な引力があるのだ。

 

 

どうして、このことを書いているかというと、今日は、その理由が何となくわかったからだ。

 

 

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金曜日で、寒くて、ヘロヘロになって向かったのはいつものパン屋。

イートインのコーナーには誰も座っておらず、いつもとは違う男性の店員さんが一人でいた。

 

 

トレーにパンを置いて、レジへ向かうと、『すぐに戻りますので、しばらくお待ちください』のメモ書きがある。男性の店員さんは振り向いてくれず、黙々と皿を洗っている。

 

 

しばらくして、いつもの女性の店員さんが走ってきた。

 

そして、こう言った。

 

 

「ごめんなさいね、うちの仲間は耳が聴こえないんです」

 

 

振り向てくれなかった理由は、ある程度分かっていた。そのパン屋さんは、体や脳をすこし悪くされた方々が働く施設の中にあるのだ。

 

 

だから、なぜ男性の店員さんが黙々とお皿を洗っているのか、レジにそんなメモが残されているのか、ぼくは大体理解できていた。

 

 

ただ、驚いたのは、いつもレジにいる女性の店員さんが『仲間』という言葉を、一切の戸惑いもなく使ったことだった。

 

一緒に働いている人を、仲間と呼んでいることをぼくは知らない。ほかにお客さんもいないし、別に世間体を気にする必要もない。

 

だけど、その女性は『仲間』という言葉をごく自然に使った。

乗組員と、社員のことを呼ぶ会社をぼくは知っているが、それと同じような温かみを感じた。

 

 

普段から思っていることじゃないと、あんなに自然に言葉は出ない。べつに、ここが特別な施設だから、感傷的になったわけじゃない。このパン屋さんは、本当に仲間だと思って、助けあって仕事をしているのだ。

 

 

なんだかとても満たされてしまった。

 

出されたパンが、いつもよりも、ずっとずっと美味しく感じてしまった。

 

仲間と呼び合う、たくさんの人が関わったパンを、のんびりじっくりぼくは食べた。

 

 

 

ミルクティーを飲み終える。最近は糖分をきにして、ガムシロップは入れないようにしている。

 

 

「すいません、これ使ってないので、もったいないから」

 

 

そういって、店員さんに未開封のシロップをかえす。ちょっと驚いた顔をしながら、ぼくの糖分返しを受け取ってもらう。

 

店を出ようとすると、「ありがとうございます、また来てください!」と背中越しに声が聞こえる。

 

 

言われなくても、来週もこのパン屋に来るだろう。

 

理由は、いろいろある。パンが美味しい、ドリンクが安い。トイレは広いし、ビートルズが流れている。お客さんに見つからないし、暖房が効いてる。

 

でめ、いろいろあるけど、一番はやっぱり、ここが「あったかい場所」だからなのだろう。そんなことを思いながら自転車にまたがった。

 

 

あぁ、今日の営業成績はゼロ。また上司に言い訳をしなきゃいけない。

そんなことを思い出し、自転車にまたがった夕方のことでした。

 

 

 

K先生、ヤクザやん。

 

「われ、あんまなめとったら痛い目みるぞ」

 

土曜のお昼に、再放送で『ミナミの帝王』をよく観た。裏の世界の人間が、ポケットに手を入れ、ゆっくりと相手に近寄りポツリとつぶやく。吉本新喜劇のチンピラ役が、借金をした兄弟を探しにやってきたときに叫ぶ。

 

確かに迫力があるのだけど、でも、まぁドラマや舞台の上でのお話なので、小学生でもせんべいをかじりながらボーッと眺めることができた。

 

 

ぼくは一度も、「われ」という呼称で言い寄られたことは、幸運なことにまだない。でも、いつかあるような気がする。

 

悪意なくルール違反を行なっていたり、誰かを傷つけたりしたら、「われ、ええ根性しとるな」なんて言われて胸ぐらを掴まれるかもしれない。

 

どうして、その「われ」と呼ばれる可能性に怯えているか。それは、リアルに言われてる人を見たことがあるからだ。

 

 

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小学5年生の担任のK先生は、とても明るい人だった。身長は190センチ、アントニオ猪木の名言が大好きで、鉄拳の漫画をみんなに貸してくれたり、嘉門達夫のCDを流したり、とにかく生徒から好かれる先生だった。

 

たぶん今のぼくと同じぐらいの年齢(25歳)だと思います。

 

周りのクラスに比べ、おなじ6時間目まですごしていても、とにかく笑いの耐えない教室で、ぼくはK先生の作り出す空気が好きでした。

 

 

 

その先生が、齢10才の少年に、190センチの体で、見たこともないような目つきをして言いよったことがありました。「われ」という言葉を、現実で見たのはそれが最初で最後です。

 

 

 

「われ、あんまり調子のっとったら許さんからな」

 

 

K先生、ヤクザやん。

 

もう、無条件にビビりました。

 

教室は凍りつき、言われてる当人は目に涙を浮かべてうなずきました。今なら、PTAとかにボロボロに言われるような出来事だったと思います。

 

どうしてこんなことになったのか。

 

 

進学塾に通っていて、中学受験をする予定だった男の子が、勉強ができない子をあざ笑ったのです。

 

 

「こんなのも分かんねぇの?」

 

 

班のみんなで考える授業をしていた時、彼の発言にK先生はブチ切れました。

 

怒られてないのにこっちまで震えるぐらいで、大人として子どもに叱るというか、人間として人間に怒っているような気がしました。

 

 

その男の子にどこまで悪気があったか分かりませんが、何気なく溢れた言葉がどれだけ人を傷つけるかを、先生は教えたかったのだと思います。やりすぎなのかもしれないけど、でも、ぼくは今でもその「われ」を思い出すのです。

 

 

 

あれから15年ぐらい経つ。

 

「われ」と呼ばれないためにも、人を傷つけないためにも、あの時のK先生の人間としてのブチ切れを忘れることなく毎日を生きている気がする。

 

 

 

数年前に、小学生の何十周年かの記念で、卒業生が集まるイベントがあったそうだ。

 

Facebookで友達経由でまわってきた写真には、当時の先生たちから今のぼくたちへのメッセージが書いてあった。

 

 

 

 この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ。

 

 

 

アントニオ猪木だ。

 

40才のK先生もかわってないなと、うれしくなってしまった。同時に、いまでも「われ」と言えているのか気になった。

 

教師が生徒を叱れない世の中になっている。ぼくはギリギリ、そうじゃない頃に教育を受けれたことに感謝したい。

  

 

これからも、ぼくは「われ」に怯えていたい。

適当になにかを言おうとしたら、あの日の教室がチラついて背筋がピシッと伸びている気がします。

 

 

 

 

 

そのドラマが面白ければ。

 

整骨院の先生に、興味深い話をきいた。

 

13時~14時にかけて、予約がうまるシーズンと、うまらないシーズンがあるという。

 野菜の収穫や、お魚の漁獲量とちがって、にんげんの健康に波がそんなにあるとは思えない。まして、整骨院だ。からだの痛さは、年がら年中だ。

 

ぼくのお客さんにも、健康のために、毎日整骨院に通っている人がいる。病院の常連とは、なんだか微妙な表現だけど、でも通院友達との会話をたのしみにしている人がたくさんいるらしい。

 

 

さて、予約がうまるシーズンと、うまらないシーズンがどうして発生するのか。

 先生が言うところのシーズンとは、季節のことではない。

 

韓国ドラマの1クールのことなのだ。

 

 

毎日、13時~14時にかけて放送される韓国ドラマ。その出来・不出来が予約に直結するというのです。ガラガラの時は、みなさんが家でドラマを見ている。逆に、予約が埋まってくると、今回のドラマは外れなのだなと判断する。先生本人にとっても、録画をするかどうかの良い判断材料なるとのこと。

 

これが、となり町の整骨院にお客様を取られていたなら大問題だけど、そういうわけでもない。ライバルは、韓国のメロドラマなのだ。

 

この現象を『録画をするかどうかの判断材料』にした先生の考え方がすごく面白いと思ったわけです。

 

 

 

「あぁ、その指標はすごく参考になりますね

 ちなみに、今シーズンは先生は録画しているんですか」

 

 

ぼくの質問に先生はうなずきました。

それを聞いて、13時~14時にかけて、ぼくはふだん会えないお客さんの家を周り始めた

わけです。

 

 

これが面白いぐらいに、みんな家でドラマを観ているから、会えるわけです。歓迎してくれるかは別として、チラシだけは受け取ってくれるのです。

 

 

 

韓国ドラマの面白さが、整骨院の予約に直結する。

整骨院の予約が、先生の録画するかの判断に繋がる。

先生の録画判断が、ぼくの営業の周り方に関係してくる。

 

 

 

ヒントにするものが、遠ければ遠いほど、仕事はちょっと楽しくなるのだなぁと思いながら、死にそうな顔で今日も自転車にまたがるのです。

 

つかれたなぁ。はやく立ち止まりたいなぁ。

 

 

 

「今月はけっこう調子がいいね」

 

「ええ、整骨院の先生が韓国ドラマを予約してるんで」

 

そんな会話をしてみたくって、ちょっと頑張ったわけなのでした。

酒とたばこと女のための資産運用

 

ともだちと会うと、よく仕事の話になる。

 

「最近、どんなことしてるん?」

 

 

近況報告をしていると、みんなの口からは、どんな国へ出張へ行ったとか、製品開発に携わったとか、いろんな話が出てくる。ぼくができる話といったら、なんとも言えない日常の話ばかりだ。お金の話や、人生、命の話になるから、周りが反応に困っているのがビンビンと伝わってくる。

 

だから、友達と仕事の話はあまりしない。

 

同期の子と話をしていても、周りはぼくに気を遣う。おなじ銀行で、おなじ営業をしているのに、周りはぼくの話に困っている。

 

だから、同期と仕事の話はあまりしない。

 

 

仕方ないことだと思っている。

 

ぼくは銀行員として営業をしている限り、お客さんの人生と向き合うことを決めたから、だからどうしても、生々しい話になってしまう。お金の話も、人生の話も、ぜんぶ全力で受け止めようと決めたからこそ、重い気持ちになることも多い。

 

 

 

 

「もう半分あかんねん・・・・」

 

 

電話ごしの声は、とてもよわよわしかった。

昨年の夏ごろ、肺がんが見つかったと笑ってぼくに言いに来たおじさんだ。

 

いつ会っても、

「あのなぁ、なかむらさん、男は酒とたばこと女やで!」

と口癖のようにぼくに言い、街で出会うと、どんなに遠いところからも手を振ってくれる人だ。

 

 

そんな豪快なおじさんの声がほとんど出ていない。

 

 

 

実は、このおじさんは、ぼくが初めて自分で投資信託を成約させてもらったお客様だ。たまたま口座があったので電話をしてみたら話を聞いてくれて、お店にやってきてくれて、ぼくのお客様になってくれた。

 

別の銀行のお姉ちゃんにも勧誘を受けてることを、自慢げに言いながらも、さいごにはぼくを選んでくれたおじさん。その理由は、分かりません。もしかしたら、家が近いってだけだったかもしれない。お姉ちゃんがタイプじゃなかったからかもしれない。

 

 

 

「〇〇銀行のなかむらさ~ん!」

 

ある日、いつもの海辺でサボっていたら、イヤホンの音楽を飛び越えて誰かがぼくの名前を呼んでいました。顔を上げると、船着き場に作業着のおじさんがいて、笑いながら歩いてきました。

 

サボっている現場を目撃されて、なんとも気まずいぼくに、「サボらないと仕事なんてやってけないで」と言いながら、おじさんは作業をしている船の説明をしてくれました。

 

 

酒・たばこ・女

 

たぶん、プロフィールだけじゃ、絶対に仲良くなれないと思うおじさんと、ぼくは雑談を楽しんでいました。資産の量だけでいうと、銀行にとっては決して大きいお客様ではないけど、ぼくにとっては大切なお客様。

 

 

だから、いてもたってもいられず、電車に飛び乗ったんです。

 

月末のこの時期に営業をほったらかすことは、結構マズいので、自転車を隠して病院へ行きました。

 

 

 

「なんだぁ、来なくていいのに」

 

 

大きな酸素吸引機を鼻につけたおじさんは、バツが悪そうな顔をしていて、話をするのも苦しいようで、小さな声で笑っていました。

 

ぼくは、おなじ装置から酸素をもらっていた祖父の姿を思い出し、言葉につまってしまって、だから、とりあえずお見舞いに買った『いちご大福』を渡しました。

 

 

病院のお見舞いに、いちご大福を買ってきてしまうナンセンスなぼくに、おじさんは、

 

「酒をとめられてるからなぁ、甘い物ほしいねん」

 

と笑いながら、孫と食べると受け取ってくれました。

 

 

 

それから、ちょっと談笑をしていたのですが、やはり話題は相続のことに。自分が死んだらどうなるのか、今のうちに投資信託は解約すべきか。

 

しばらくの間、銀行員に戻って会話をしました。一般的な事務について、その後の対応について。でも、言いたいことはそんなことじゃない。

 

 

 

「・・・・まぁ、元気になって、また店に遊びに行くわ!」

 

 

ぼくの表情を察してか、電話口では、あんなによわよわしかったのに、小さい声だけど強い言葉をぼくに言ってくれました。

 

 

「はい、ロビーで会いましょう」

 

 

 

そんな会話をして、ぼくはまた、月末の営業に戻りました。

 

 

 

大好きな曲である、浜田雅功と槇原敬之の『チキンライス』には、こんな節がある。

 

『最後は笑いにかえるから』

 

「貧乏時代の話をたくさんするけど、さいごは笑いに変えるからさ」と、そんなメッセージがこめられたフレーズだ。

 

 

確かに、ぼくの仕事の話は重い。誰かと話をしていても、大爆笑にもならないし、興味深い話にもならない。だけど、人と人が向き合ったときにしか生まれない言葉や想いに、この数年でたくさん触れてきたと自分では思っている。

 

 

『最後は笑いに変えるから』

 

このフレーズをぼくも大切にしたい。すぐに、オチがつくとかそういう話ではない。最後はちゃんと笑っていられるように、学ばせてもらったことは大切にしようという姿勢の話だ。

 

 

 

奇跡のようなものが起きるとしたら、いまだ。

 

おじさんがまた、酒・たばこ・女を追えるように、ぼくも資産運用で力になりたい。

ヒッチハイクな人生を。

 

大学を卒業する1か月ぐらい前に、ぼくは初めてのことに挑戦した。

 

それは、ともだちや後輩のあいだで流行っていた旅の仕方で、みんな帰ってきたときに「一度はやったほうがいいです!」と口をそろえて勧めてくれたものだった。

 

旅のはじまりは100均で大きな画用紙と、太いマーカーを買うことからはじまる。まっしろな画用紙に、ふっとい字で目的地を書き込む。あとは、ひたすら高速の入り口付近で、笑顔でグッドの手を上げ続け、乗せてくれる人をずーっと待つ。

 

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最初で最後の『ヒッチハイク』をやってみたのだ。

 

度胸無しなので、後輩につきそってもらってなのですが。

 

 

 

 

運転手さんに目で「乗せてって~」と合図をおくる。たいていの人は、物不思議な顔でぼくを見て通り過ぎていく。

 

これは長期戦になりそうだなぁとか思いながら、ひとまず「淡路島」と書いた紙を掲げていると、意外にはやく車がとまった。

 

 

「垂水までやったらええよ~」

 

 

仕事終わりのおじさんが、笑いながら助手席の窓をあけてくれた。

 

車内はすぐに、何をしに淡路島へ行くのか、どうしてヒッチハイクをしているのかの話になる。ぼくたちの旅に目的はなかったし、ヒッチハイクも興味本位だった。むしろ、こっちのほうが聞きたいことがある。

 

 

「あの・・・・、どうして乗せてくれたんですか?」

 

 

おじさんは、笑いながら答えてくれた。

 

「若いころにぼくもヒッチハイクをしたことがあってね、そのときに親切にしてもらったからさぁ、できるだけ乗せてあげることにしてるねん」

 

 

それからおじさんは、自分が過去に乗せてあげた人の思い出を語ってくれて、気づけばパーキングエリアに着いていて、あっさりと去っていった。

 

 

それから、たくさんの人たちの優しさに触れ、その日の夜にぼくたちは徳島県にいた。

 

 

観光バスのおばちゃん一向が、揃って手を振ってくれたり。キッザニア帰りの家族連れワゴンにのって、ちびっこと一緒にドーナツをご馳走になったり。むちゃくちゃ拒んだけど、晩ごはん代にと5000円を握らせてくれた人までいた。

 

いまでも、乗せてもらった人の顔を思い出すし、会話も出てくる。Facebookには、連絡はとっていないけど、隣でヒッチハイクをしていた年上のお兄さんが友達リストにいたりする。

 

 

旅を終えるとき、ぼくはなんだか感動しちゃって、もう大人になんかなりたくないと駄々をこねたくなっていた。いつまでも、こうやって人のやさしさに触れていたい。ヒッチハイクを続けられる立場で居たいと思っていた。

 

 

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あれから3年ぐらいたつ。

 

 

いまぼくは営業をしている。海沿いの街で、外回りで、雨なんかもちらついて、もう最高に寒い。夏は最高に暑い。かといって、サボってばっかりもいられないし、日誌を書くためにお客さんと話さないといけない。

 

 

鬱陶しいだろうなぁ。ぼくならきっとそうだと思う。寒いし、家でゴロゴロしていた日に、【営業!】という看板を掲げてやってくる銀行員の相手なんて面倒に決まっている。

 

NHKの集金の人がきたとき、すごくめんどくさかったし(払ってますよ)。

 

 

でもね、これが意外にみなさん家に入れてくれるんです。

 

 

アポイントもなく突然やってきたぼくを、「寒かったやろ、入りなさい」とお茶を出してくれるんです。見かけは不愛想なお父さんとかが、薄ら笑いをしたりしながら、奥さんにコーヒーを注文してくれたりするのです。

 

 

ちょっとした疑問をぼくは聞きました。

 

 

「あの・・・・、なんで入れてくれたんですか?」

 

お客さんは笑いながら答えてくれた。

 

 

「ぼくも営業やったからね、外回りの大変さがわかるんよ」

 

 

部屋の暖かさとは関係なく、ポッとしてしまったぼくがいました。それはヒッチハイクで人のやさしさに触れた瞬間とおなじような気持ちで、あの時お世話になった人の顔が帰り道に出てきたりしていて。

 

 

 

ヒッチハイクは、大人になったらできないのか。

あの頃、駄々をこねていた自分に言いたい。

 

人のやさしさは途絶えない。

 

 

誰かにやさしくしてもらった経験が、その人をやさしくさせる。ヒッチハイクをしていた人が、大学生を乗せてあげるように。外回りをしていた人が、営業にやさしくするように。

 

たしかに、25歳になって悲壮感をもって画用紙を掲げることは、ぼくにはもうできないかもしれない。

でも、日常はやさしさで溢れている。やさしさの交換で、世界には救われている人がたくさんいる。そういう意味では、大人になってもヒッチハイクはやっていける。

 

 

 

乗せてもらう側になったり、乗せてあげる側になったりをくり返して、これからも生きていけるんだと思う。いや、生きたい。

 

 

もちろん、ぼくはこれからの人生で、ヒッチハイカーを見つけたら乗せてあげるし、営業が来たら話を聞いてあげたい。お金もないし、ペーパードライバーだけど。

 

みなさんも、ヒッチハイクな人生を。

サボりのプロになろうと思う。

 

「サボる」という言葉を、よく使う。ベンチに座って、ぼーっとして、ただただ時間が過ぎていくのを待つ。

 

その語源は、フランス語の「サボタージュ」という言葉がもとになっている。わざと仕事を停滞させたり、妨害する労働者の行動を指す言葉なのだが、日本で使われる「サボる」はちょっと違う。

 

おそらく、かんたんにするとこんな感じだ。

 

 

働いている人が、無理をしない程度にがんばるため、息をぬく行動。

 

 

その頻度は人それぞれだが、ベンチに座っているスーツの人間は、たいていサボっている。

 

 

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ぼくは、営業になってずいぶんサボっている。毎日、朝早くに支店を出て、最初に向かうのは海辺のベンチだ。浜風をあびながら、ぼーっとする。イヤホンをつけて好きな音楽を聴く。

 

サボるためには、仕事をしなければいけない。アポイントが無ければ、営業成績も上がらない。「仕事してる?」と上司に聞かれないようにするには、それなりに頑張っているように見せないといけない。疲れた顔をしても、しなくても、すべては成績次第なのだ。

 

 

 

サボりには四季がある。

 

 

さきほど言ったように、ぼくは毎日サボっている。春夏秋冬をサボりから感じている。たとえば、春は公園の桜をみながらサボるし、夏は涼しい喫茶店で高校野球を観る。秋には、焼き芋屋をとめる。

 

一年の移ろいを感じるため、サラリーマンのサボりには風情がある。あと、すこしだけ哀愁なんかもある。

 

よくディスカバリーチャンネルのような番組で、動物たちが自然界で生き残る術が紹介されているが、サラリーマンという生き物にもそんな知恵があるのだ。

 

 

 

「おやおや、野生のサラリーマンが寒さに凍えていますよ」

 

 

海辺の冬は、とてつもなく寒い。いつも座っているベンチも、ようしゃなく厳しい。スマホを触ろうにも、手がかじかむし、とにかく顔面が痛いのだ。

 

さて、どうするか。

 

 

暖を求めるのです。

 

 

火を起こすなんて危険な行為はしません、それだと社会で生き残れません。暖かい場所をもとめて、ゾンビのようにのそのそと動き出すのです。

 

 

ぼくは、この暖を求めるサボり方に、生き物としての本能が込められていると思います。じぶんでも、こんな暖まり方があるのかと驚くような方法で、自然とサボろうとしていることがよくあるのです。

 

 

ここで、ぼくが本能でみつけたサボり場所を紹介します。

 

 

『動物ふれあいランド』

子どもたちが、うさぎやカピバラをなでている横で、ぼくはウトウトしながらサボっています。どうしてここが特別に暖かいかというと、動物たちが体調を壊さないようにいつも温度を管理しているからです。

恒温動物の仲間たちに、暖かさを分けてもらって、サラリーマンは生きるのです。

 

顔をあげれば、動物たちの様子を眺めることができて、リラックス効果もあるんですよ。ぜひ、みなさんもお探しください。

 

 

 

『お客さんの家』

悲しいかな、お客さんの家はとても暖かい。仕事をサボりたいのに、仕事をすることで求めているものが手に入るのだ。こたつがある家に、一生懸命に営業をすることが大切です。みかんがもらえて、一石二鳥になりますよ。

 

 

 

今日、また新たなサボり場所を見つけてしまいました。

 

 

 

 

大道芸人さんの近く』

なぜ、そこなのか。理由はとてもシンプルです。

彼のパフォーマンスは、クライマックスにむけて進化していくのです。バトンに火を付けて、3本から4本のジャグリングを披露します。

 

そう火です。火なんです。

 

バトンに火をつけるために、大きな火種がそこにはあるのです。ぼくは今日、すごく自然に大道芸人さんが準備した火種で暖をとっていました。

 

その姿はきっと、とても異質だったと思います。ひょうきんなコスチュームに身をまとった大道芸人のうしろで、スーツの男が暖をとる。

 

 

 

 

ぼくは今日、世界にはまだまだ色んなサボり方があるんだろうなぁと思って、すこしだけワクワクしました。これからも、たくさんの季節感のある「サボり」を開発していこうと思います。

 

 

サボりのプロになろうと思う。

 

 

 

でも本当は、家で寝ていたかったり、サボりたくないぐらい好きな仕事をしたいんですけどね。

オチを一度捨てること。

 

もっと、面白くなりたい。

 

というつぶやきを、これまでの人生で何回もくりかえしてきた。それは、ぼくが関西で生まれ、いつも「面白い」「面白くない」という基準で、人を判断する環境で育ったからという理由があるが、それだけではない。

 

たしかに、土日はかならず新喜劇と漫才番組をみていた。人との会話にオチをいつも意識して、いつも誰かを笑わせたい願望がぼくにもあった気がする。

 

 

しかし、最近、オチというものをあまり意識しなくなってきた。

オチを考えないくせに、ぼくは面白い人になりたいのだ。

 

 

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話の終わりに、どんでん返しや発見のようなものがないと、聞いてくれた人はずっこける。あってもずっこけるのが、新喜劇だけど。

起承転結を勉強するために、四コマ漫画を小学校で書かされたけど、あれはきっとコミュニケーションを考えることにも繋がっていたと思う。

 

人と人が会話をするときに、何かを相手に期待してしまうのは、「あなた、わたしの時間をとって何を気づかせてくれるの?」という精神がどこかにちょっとあったりするのかなぁ。たぶんそう。でもそれは、すごく当然、『時は金なり』だから。

 

 

でも、友だちや、恋愛関係に、そういった会話の対価を気にしはじめたら、もしかしたらそれは偽りの関係かもしれない。すごく、上からの目線で相手の話を聞いているからこそ、そんな感情が生まれてくる。ぼくだけかもしれないけど。

 

 

 

大切なことは、誰にとって面白い人でありたいのか。そもそも面白いと思ってもらって、その先に何がほしいのか。

 


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ぼくは笑顔がほしい。誰でもいいから笑顔になってほしい。

 

そのことに関係して、最近思っていることがある。

 

 

人を笑わせるのは、即時性が必要。

人を笑顔にするには、ながい時間が必要。

 

 

 

笑わせることと、笑顔にすることはちょっと違う気がしている。

 

笑わせるって、じぶんが「いまの会話ウケてたなぁ」と思ったら、たとえばそれが乾いた笑い声だったとしてもそれで完結すること。

笑顔にするって、もっと難しい。不特定多数のひとが、それぞれの顔を眺めあって、「あっ、あの人いい笑顔だなぁ」と思ったときにはじめて、その場に笑顔は生まれる。

 

 

ぼくは、このことに気づくまで随分時間がかかってしまった。

 

 

誰かと会話をしていても、笑い声が聞こえないと不安で。とりあえず誰かの話を持ち出して、無理にオチを作っていた。そのためには、瞬発力が必要だ。鉄板のオトシネタを持っている話につなげるか、もしくは、タイムリー性のある話題にしてしまう。

 

 

例えば、いま、テレビでは横綱の話題がお笑いの場で使われている。彼を擁護するわけではないが、あの話で笑っているタレントを見るたび、自分はあんな顔で人を笑わせようとしていたのかと酷く落ち込む。

 

 

誰かを蹴落とさないと、辿り着けない笑いは、打ち上げ花火のようなものだ。一瞬で上がっていき、一瞬で消える。後味はすごく悪い。じぶんの人生と関係ない横綱の話だから、気軽に言えてしまうのだろうが、その笑い方、笑わせ方に慣れてしまうと、いつしか、じぶんの身内でその技を使うようになってしまう。

 

笑いをもとめて瞬時にオチを作ると、この話をしたら誰かが傷つくかもしれないという、思いやりは生まれないのだ。結果、その場の笑いは、じんわりと誰かの心に傷をつける可能性が高い。

 

 

 

 

笑顔にするには、ながい時間がかかる。

 

 

「あの頃は、楽しかったよなぁ」という会話には、笑顔がある。それは、おなじような身内ネタだけど、長い年月が作ってくれる、人生の香りがする。この臭さがいいねん、みたいな、話で笑いあっているとき、人は本当に笑っている気がする。

 

思い出話は、やっぱりすばらしいと思う。

 

もしかしたら、横綱の話は、もっともっと先に本人も交えてするべきなのかなぁ。そうやって、あの時の話をすると、心がぱっと晴れて笑顔が生まれるのかもしれない。だからやっぱり、笑顔を作るには時間がかかるのかもね。

 

 

 

でも、ぼくは思い出話ができなくても、たくさんの人に笑顔になってもらいたい。それがすごく難しい。

 

 

焦るなと言いたい。焦りたくない。人を笑顔にすることは、そんなに簡単なことじゃない。泣かせたり、怒らせることは簡単だ、「死ね」という言葉ひとつでいい。だけど、笑顔にするのは難しい。おもむろに裸踊りをしても、人は笑顔になってくれない。

 

 

自分の一言を、待ってくれている人がいる。そんな空間がたくさん生まれるようにしていこう。一人で、起承転結を作る必要はない。

 

 

「あなたはどう思うの?」と聞いてもらったときに、みんなが知ってくれている自分の言葉を出すだけで、人は笑顔になってくれるのだ。生まれるのは、きっと安堵だと思う。それでいいのだ。

 

時々、ちょっと裏切って、それが爆笑だったとしてもそれはそれでいい。安堵が生まれる関係性を作り上げたことに、もう充分に、時間を使ってきたから大丈夫だ。

 

 

その場だけのオチを一度捨てること。それは、人との会話をもっと大切にすることでもあると思った。会話を大切にする人は、いつか、「あなたはどう思うの?」と聞いてもらえるとぼくは信じる。

 

今言いたかったオチよりも、もっとみんなを笑顔にできる何かで、話を終える日がくるだろうと思ってグッと「笑い」に逃げないようにしたい。

 

 

それは、初対面の人と会った時でも同じだ。やさしい人が好まれるのは、当然だと思う。となると、やさしい人になりたいものだ。

 

 

「面白い」とは、発見があることだ。みんなが知らないことや、意外な考え方を提案できる人が、面白いとぼくは思う。それは、ゴシップネタとか、誰かを蹴落とすことじゃなくて、神秘的なワクワクだ。だからこそ、もっといろんなことを勉強したいし、読んだり聞いてみたいことがたくさんある。

 

 

・・・・さぁ、どうしたものか。いまぼくの頭のなかには、今日のこの記事をどういうオチで終わらせようかという悩みが消えないのだ。どうしたものか。言ってるそばから、適当なオチをつけるわけにもいかん。

 

 

う~ん、むずかしい。

 

 

ぼくは、笑わせるより、笑顔になってほしいのだ。