得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

練り消しづくりは、つづく。

 

今週の水曜日から、2泊3日の研修にいっていた。

 

3年目の節目に、泊まり込みで施設にこもり、同期の子たちとグループワークをする。100人ほどいた同期は、研修で再開するたびに減っていき、いま70人ぐらいと聞く。

 

夜中まで班であつまって、朝に課題を提出する。これが、銀行の仕事じゃなくて、もっと楽しい企画会議とかだったらなぁと思ってしまう、それぐらいみんな良い人たちだ。ちがう場所で会えていたら、ぼくはもっと素直に仲良くできただろうし、たまに呑みに行ってると思う。

 

たぶん、ぼくがみんなの目を見て、まっすぐに自分をさらけだすには、同じ仕事している間は無理な気がしていて、それがすごくつらかったりした。

 

 

 

 

研修2日目。

 

ぼくたちの班は、朝に出した課題をこっぴどく指摘され、寝不足のからだを引きずりながら話し合いをしていた。

 

書いては消して、消しては書いて。生まれた消しカスを練りながら、ぼくたちはホワイトボードに提案内容を、机の上にはでっかい練り消しをつくっていた。

 

うまくいかんなぁ、帰りたいなぁ、眠たいなぁ。なんて言いながら、まっくろの練り消しを定規でのばして、センチ数を計る。30㎝のにょろにょろを完成させようと、講師の目を盗んでは作業をしていた。

 

お昼が明けて、もう一度、ぼくたちには山場がやってきた。ピンチになって、怒涛のように時間がすぎる。気づけば外はオレンジ色。神戸の港町が、夜景に変わろうとしていた。

 

 

 

「・・・・おれ、パパになったみたい」

 

 

 

昼からのプレゼンを担当した結果、講師につめられ、いちばん大変な思いをしていた彼がとつぜんつぶやいた。

 

奥さんから連絡が来ていたそうだが、忙しすぎて確認できていなかったようだった。つまり、汗をながしながら、ピンチに慌てていたとき、彼はすでにパパになっていたのだ。とりあえずみんなで「おめでとう!」と言った。しかし、本日の最終プレゼンは30分後にせまっている。もう時間がない。

 

しかも、話をするのはぼくだ。

 

 

「赤ちゃんに、ささげるプレゼンをするで」

 

 

なんてかっこいいことを言ってみたけど、彼はうわのそらだった。念願の子どもを授かったことに、なんとも言えない嬉しそうな顔を浮かべている。

 

数時間前まで、ふつうのサラリーマンだった彼はパパになった。ひとりがパパになった以上、帰りたいとか、疲れたとか、眠たいとか、ちょっと言いづらいような気がしていた。

それが昨日のことだ。

 

 

 

そして今日、最終日をむかえた。

 

びっくりしたことがある。

 

パパになった彼が、あいかわらずくだらない雑談をしながら、練り消しを作っているということだ。

 

親になるという責任は、練り消しを作れなくすると思っていた。「帰りたい、しんどい」と言えなくなることだと思っていた。だけど、彼はぼくたちと同じように愚痴りながら消しカスをまとめている。30㎝をめざして、ゆびさきを動かしている。

 

父になるということを、重く受け止めすぎることは、あんまりよくないなぁと思った。「あいつ子どもいるくせに、もっと責任を持てよ」とか言われる気がして、何もできなくなるような気がしていたけど、そんなことは全然ない。

 

 

やっぱり仕事はしんどいし、練り消しづくりは楽しいのだ。

 

 

同い年で子供がいるからとか、いないからとか、そんなことは関係ないのだ。そこで線を引くのは、とてもつまらないことで、精神年齢が一緒であるかぎり、ぼくたちはずっと同じことをして遊んでいけるし、文句を言えるんだ。

 

 

雑談はつづく。初日よりもずっと、じぶんの話をそれぞれができた気がする。ちょっとだけど、いまのぼくの向上心がこの仕事に向いていないことを、告白しようか迷った。心をもっと開いてしまおうか迷った。

 

 

そう思った頃に、たいてい時間はきてしまう。

 

 

偉い人がやってきて、ご訓示をいただき、怒涛のように研修は終わりをむかえた。

 

 

 

いま、帰ってきて家にいる。ようやく帰ってきたわが家だ。最高。もう泊まり研修はやりたくないし、月曜日の仕事はつらい。というか、全曜日つらい。

 

 

だけど、練り消しづくりや雑談はすごく楽しかったのです。みんながそう思っていたかは知らないけど。

 

 

でも、また会ったとき、みんなの精神年齢がまだおなじだったら、また消しカスをゆびさきでコロコロして、つぎは45㎝を目指したいと思う。

 

もし、そんな感じじゃなくて、ぼくの精神年齢だけがお子様でも、それは結婚したからとか、子どもができたからとか、そういう強制的なイベントがきっかけとかじゃなく、それぞれがじんわりと色んなことを考えて変わっていったことなんだと、そう思って拍手をしたい。

 

 

それまでは、練り消しづくりは、つづく。

『たまごっち』を求めて

 

「なかむらくんは、たまごっちを知ってるん?」

 

お孫さんにねだられた任天堂のゲーム機が手に入らず、お客さんが困っていたという話をしていたら、そんな質問を上司にされた。

 

もちろんぼくは、『たまごっち』を知っているし、なんだったら持っていた。

 

 

 

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『たまごっち』が大流行した1997年に、ぼくはまだ4歳だった。生き物を育てることに魅力は感じず、むしろ育てられる専門だった。だから、それから数年後にリメイクされて販売された新しいやつだった。

 

 

上司は話をつづける

 

彼は大口のお客様のご機嫌をとるため、おもちゃ屋の前に徹夜で並んだ思い出を語ってくれた。

噂には聞いていたが、当時のたまごっち人気はすさまじく、どこに行っても売り切れ。『家電を買ったらプレゼント』という抱き合わせ販売が行われたり、にせものが出回ったり、社会現象になるぐらいみんな小さなたまごを探し回った。

 

 

ぼくがたまごっちを手にしたのは、12歳の冬。

その頃、中学校受験というものに挑戦していた。

 

 

私立の一貫校に受験したのではない、公立の中学校に受験した。となりの市に新しい学校ができて、『国際学科』というものが設立されたと母が聞きつけてきたのだ。

 

生徒の半分は、海外からの留学生で2年生から英語の授業が半分ぐらいあるとの話で、なんともグローバルな環境だった。

 

受験科目は、小論文と面接のみ。試験当日に、落ち込んだ顔をして帰ってきたぼくに、両親はなにも言わなかった。なにせ、倍率がすごかった。20人に1人ぐらいしか入れないぐらい、『国際学科』は人気だったのだ。

 

 

合格発表は平日に行われる。ぼくは学校があったので、たまたま休みの父が代わりに行くことになった。ダメだろうと思いながらも、内心もしかしたらで受かっているんじゃないかとドキドキしたりして、6時間目の授業を終えて家へ帰る。

 

父は、まだ帰ってこない。しばらくそわそわしていたが、気づいたらぼくはリビングで寝ていた。

 

 

物音がして、目が覚めて、ぼくの前には父が座っていて、その手にはぼくが欲しい言っていた『たまごっち』があった。

 

 

 

「これ、欲しかったやつやろう」

 

 

ぼくはその言葉で受験結果を悟り、両親からの努力賞のようなものだと思って、『たまごっち』を受け取った。リメイクされた『たまごっち』もまた人気で、どこに行っても売っていなかったので、とても嬉しかった。

 

口には出さなかったけど、小学校のともだちと同じ中学にすすめることに、ホッとしたりもしていた。

 

 

次の日、学校へ行って先生がぼくに言った。

 

 

「なかむらくん、まぁ~お父さんをせめてあげたらあかんよ」

 

 

話を聞けば、どうやらぼくは試験に通過していたようだった。でも、最終的に入学できるかを決める抽選があったようで、父がそこでハズレを引いたようだった。そこでようやく、なぜ父が昨日、『たまごっち』を買ってきたかを知った。

 

 

仕事から父が帰ってくる。ぼくは、恐る恐る聞いた。

 

「たまごっち、どこで売ってたん?」

 

目も合わせずに父は答える。

 

「あれなぁ、走り回ったわ、おまえのために」

 

 

 

小さなたまご型のキーホルダー、その中にいる妖精のような生き物を育成するおもちゃ。それが、たまごっち。

 

ある人はその可愛さに魅かれ、ある人はみんなが持っているからと欲し、またある人は女子に好感を持たれるために探し回る。

ぼくの場合は、ペットが欲しかったけど家がマンションだったから、だから『たまごっち』を育てたかった。ほしい理由はそれぞれだ。

 

 

ある上司は、大口定期預金を解約されないために徹夜を。

そしてある父親は、息子の中学校受験をじぶんのくじ運の無さで逃してしまった申し訳なさで必死に走り回ったのである。

 

 

 

お父さん、そんなこともあるよと言いたかったけど、ぼくはとりあえず、その『たまごっち』を一生懸命育てることに小学校の卒業までを費やすことにした。

 

 

あれから、10年以上たつが、いまの人生に満足している。父のくじ運のなさで、いい友達に出会えたし、たのしい毎日を送っている。

 

『たまごっち』は、電池が切れた状態で、たぶん家のどこかで眠っているだろう。いつか見つけて、あの日の走り回った父に、感謝する日も来るはずだ。

メガネのスーパースター

 

ファンが選ぶプロ野球選手1位を決める番組が放送されている。

 

ちょうど先日、お客さんの家でそんな話をしていた。

 

「どこの球団のファンなんですか?」

野球中継が写っているテレビを指さして聞いた。

 

「好きな球団というか、わたしは長嶋茂雄のファンなの」

長嶋選手のプレー、人柄に惚れて、若いころからずーっと彼のファンだと照れながらお客さんは言った。そして、いろいろな長嶋選手のエピソードを聞かせてもらった。

 

「あなたはどうなの?」

聞き返されたときに、ぼくは球団じゃなくて選手の名前を言った。

 

 

「古田です、古田敦也が大好きです!」

 

 

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スポーツ選手が、子どもに夢を与える仕事だとしたら、ぼくがいちばん最初に夢をもらったのは確実に古田だ。

 

 

尼崎の市民球場に、プロ野球選手がテレビ番組のイベントで来る日があった。当時、小学3年生ぐらいだったぼくは、野球はやっていなかったけど観戦するのはすごく好きで、父とグローブ片手に観に行った。球場には、野球少年がたくさんいて、みんなボールとマジックペンをもって「サインください!」と叫びまわっていた。

 

 

普段の試合とは違って、選手もリラックスしていて楽しそう。キャッチャーとしてプロ野球で活躍するメガネのその人は、ピッチング練習をしていた。

古田がいる。なぜかサイドスローで、キャッチャーを座らせて遊んでいる。そのことに気づいているのは、ぼくと父しかいない。

 

 

「ふるたせんしゅ~がんばってくださ~い!」

 

精一杯おおきい声で古田に話しかけたら、彼はちょっとだけこっちを向いて手を振ってくれた。それが嬉しくて、なんどもなんどもおなじことを古田に伝えた。

 

 

「ピッチャー代わりまして、古田、古田」

 

 

アナウンス嬢の声がきこえて古田が練習をやめる。そして、マウンドへ向かう途中で、ぼくを指さしてボールを投げてくれた。かくじつに目が合って、優しいトスをあげた。

 

だけど、ぼくは取れなかった。とつぜん現れた野球少年のグローブが、そのボールを持って行ってしまった。とてもショックだったのを覚えている。

 

 

 

しばらくして試合が終わり、父と球場の裏口へ走った。

選手がバスに乗り込むその通路には、たくさんのファンがサインを求めてかけつけていた。たくさんの興奮した野球少年にまぎれて、一緒になって手を伸ばした。

 

そして、古田が来た。

 

この日、いちばん大きい声で古田の名前を呼んだ。古田、古田さんと叫んだ。すると、ぼくの顔をみて、彼は寄ってきてくれた。力強い握手をして、着ていたTシャツにサインをしてくれた。

 

 

周りのおじさんが言っていたけど、その日、古田がサインをしたのは、ぼく一人だけだったとのこと。ほかのファンには、みんな握手だけをして「ごめんね」と伝えていたと教えてくれた。

 

彼が覚えてくれていたのかは、今思うと分からない。でも、あの頃のぼくは、古田が自分のことを分かって来てくれた気がしていた。かっこいい、かっこよすぎる。じぶんのなかで、メガネのスーパースターが生まれた瞬間だった。

 

 

いま、彼はコメンテーターとしてニュース番組や、元プロ野球選手としてバラエティ番組に出ている。そんな姿をもちろん応援しているし、古田の引退試合はテレビで観て、涙をした。本当に大好きなだ。野球選手としても、人としても。

 

 

ファンとしてひとつだけ申し訳ないことがある。

 

じつは、ぼくは広島カープのファンなのである。古田がいたヤクルトスワローズには、何の思い入れもないのだ。

 

 

「古田敦也 引退」の画像検索結果

 

 

人を重いと感じること。

 

年末の朝に、父方の祖父母の家へ行った。東京から夜行バスで帰ってきた朝、じいちゃんばあちゃんちへ続く道の角を曲がったところで、ふたりと鉢合わせした。

 

 

「いまからロイヤルホストで朝飯を食べに行くねん」

 

 

なんと貴族的な朝だろうか。ぼくなんて、家でも朝飯を食べないのに。一晩中、せまい車内で座りつづけたぼくの胃袋は、すっからかんだった。だから、何も言わずふたりのおともになった。桃太郎の犬・猿・きじのような関係性だ。

 

 

祖父母と道中で出会うことはよくあった。学校帰りに、たまたま買い物に行っていた祖母に会って、家でおやつをもらったりしていた。だから、ひさしぶりに地元でふたりに会ってなんだか懐かしかった。

 

 

ひとつだけ懐かしくなかったのは、祖母が車イスに乗って、祖父がそれを押していたということだ。

 

 

 

ロイヤルホストまでの道は、徒歩で10分ほど。休日は、よくふたりで運動がてら朝ご飯を食べに行っていたことは聞いていた。その習慣は、祖母が車イスになっても続いているようだった。

 

 

 

車イスを押すのは、6年ぶりぐらいだ。

 

母方の祖父を、病院でさんぽに連れて行ってあげたのが最後で、すごく久しぶりだった。両輪のブレーキをはずし、左右の持ち手の力加減をうまくつかってまっすぐに進む。下り坂は、後ろを向いてバックで降りないと乗っている側があぶない。

 

過去の経験を思い出すように、車イスを押した。

 

 

 

あぁ、この感じいいな。

 

 

ぼくが嬉しかったのは、祖母と車イスがとても重たかったことだ。ずっしりと、人の重みがする。車イスが思うように、うまく前へ進まない。ちょっとした上り坂には、ある程度の力がひつようになる。

 

 

「ばあちゃん、重いなぁ」

 

 

こんなことを言えるうれしさがあった。

 

 

身長でいえば、ぼくと祖母は30㎝以上ちがう。歩くこともしんどそうになっている姿から、年々、その背中がちいさくなっていってることにちょっとした寂しさがあった。セーターを編んでくれたり、服を直してくれていたばあちゃんが、デイサービスで折り紙をつくって楽しんでいる姿を、喜んでいるようで本当はあまり見たくなかった。

 

 

勝手に小さくなっていて、軽くなっていると思っていた祖母がずっしりと重い。

 

 

車イスを押している腕を通じて、「ここからやで」と語られているような気がして、生きる力がどんどん伝わってきた。

 

 

「重い、重いなぁ」

 

 

からかうように、妙にそれが嬉しくてぼくは何回も言った。祖父はその横で、「ええなぁ、わしも押してほしいわ」と悪い顔で笑っている。祖母もまた、笑っていた。

 

 

誰かに比べて太っている、痩せているで人の重さを判断することだけが、いままでのぼくの「重い・軽い」だった。でも、ほかの人に比べて軽いかもしれないけど、祖母はずっしりと重かった。それは、生きているってことを感じられたということだと思う。まだまだここからだと、実感できたことなんだと思う。

 

 

人を、重いと感じられることは、すごく嬉しいことなんだ。

 

 

この感覚は何だろうか。いろいろ考えていたら、いとこの女の子を思い出した。

 

久しぶりに会って、成長した彼女を抱きかかえたときに、ぼくはおなじような嬉しさを感じた気がする。ふたりに共通して感じられたのは、きっと未来という向かう先だ。人を重いと感じることは、きっと未来を感じさせてくれるんだ。

 

 

 

ロイヤルホストで、朝の和朝食をたべた。

 

 

 

せっかく貴族的な朝をむかえられるのに、ホットケーキセットや、フレンチトーストセットを頼むつもりが、おいしそうな鮭の塩焼きを選んでしまった。祖母が食べきれないご飯を、祖父が茶碗にうつしてバクバク食べている。どうやらこの人は、まだまだ元気そうだ。

 

 

 

「ばぁちゃん、やっぱり重いなぁ」

帰り道で、ぼくはまた言ってしまった。

 

 

 

「朝ご飯たべたぶん、重くなってるやろ」

笑いながら言った祖母は、たしかに重く、ゆっくり家へ帰った。

 

恋は、うんちに似ている。

 

恋愛について、ぼくはあまり語れない。

 

 

例えば、デートの仕方とか、女性がよろこぶプレゼントの選びかたや、メールのやりとり、この辺はもうぜんぶ語れない。これまでの人生、失敗ばかりをしている。そもそも、誰かに恋愛相談をされることも少ないので、たぶんそういうダメな雰囲気をまとっているのだと思う。

 

 

ただ、恋というものについては、すこしだけ考えていることがあるので、そのことについてちょっとだけ聞いてほしいです。

 

 

 

恋をしている時間が、人に与えてくれる余韻がぼくは好きだ

 

 

意中の相手にメールを送ったあと、なんども内容を確認して、こう思われたらどうしようと考えたり、こう発展してくれたら嬉しいなぁと妄想したりする時間が好きだ。送信ボタンを押す勇気を出した人だけが、その数分、いや下手したら数時間を感じていることができる。

 

余韻が、すべて輝いているとは限らない。返信なしというパターンにおびえたりして、それでも時間はすぎていき、ちょっとだけ忘れて、別の何かに一生懸命になっているときに、スマートフォンが震える。とくに、何をしてもらったでもないのに目の前の人にやさしくしたくなる。

 

 

恋のおかげで、今日、誰かにやさしくしてもらった人がきっといると思う。何だったら、ぼくに関わっているすべての人が、みんな恋をしていてほしい。できるならその相手の人と連絡をとっておき、ぼくと会っているタイミングでいつも返信をしてもらうように伝えたい。

 

 

駅の改札口で、さようならと手をふる男女を見るのが好きだ。悪趣味かもしれない。だけど、電車が来てしまって、手を振りあったあと、背中を向けあった瞬間の表情をどうしても見たいのだ。

 

 

今日一日がどれだけしあわせだったかは、その表情をみればすべてわかる。べつに、とびきりの笑顔ではないが、なんとも言えない満足感に包まれた顔をしている。おそらく、彼や彼女は、余韻を味わっているのだ。

 

 

 

 

恋は、うんちに似ている。

 

 

 

“うんこ”か、“うんち”か悩んだけれど、すこしだけかわいいと思ったほうを選びました。

 

どういうことか。

 

 

たとえば、今日ぼくが腹いっぱいにご飯を食べたとする。食物繊維たっぷりのお野菜がはいったお鍋を食べたとして、翌日の朝にやってくるのは何だと思いますか。

 

 

そう快便です。

 

 

お腹のなかにたまっていた昨日のお鍋が、すべて放出される。じぶんの“うんち”にすこしだけ愛らしさのようなものを感じてしまい、流す前にちょっと目をやってしまう。

 

 

してしまいません?ちょっとした観察をしません?

 

・・・・しなかったらごめんなさい。

 

 

そういえば、幼稚園の頃に、夏休みの宿題で、毎日の健康状態を判断するためにうんちを観察するという宿題がありました。たぶん、しぜんと自分の体調を管理するという意味でも、うんちに目が行くと思うんです。

 

その“うんち”がとても立派なものだったときに、とくに何か素晴らしいことをしたわけでもないのに、とてつもない満足感がやってくるわけです。

 

すっきりしたおなかは、トイレを終えたあとも数分つづく。体のそこから何者かが、「おい!今日はいい仕事しただろ」と語りかけてくる。

 

 

「あぁ~、今日のトイレはよかった、いいパフォーマンスを披露できたなぁ」なんて、しばらく余韻にひたっていると、いろんなことが上手くいく気がしてくる。

 

 

恋の余韻も、この“うんち”をしたあとと似ているとぼくは思っている。

 

 

「あぁ~、今日のデートはよかったなぁ、あの会話が嬉しかったなぁ」なんて思いながら過ごしていると、顔がゆるんだり、世界が輝いて見えてくる。

 

 

“恋”と“うんち”そのどちらにも共通しているのは、全力を放出できたことに対する嬉しさだ。そして、その嬉しさはしばらく続く。好きな人と交わした言葉がつぎつぎと駆け巡るように、うんちを放出した瞬間の快感もウオッシュレットをあてた気持ちよさも、しばらくかみしめられる。

 

 

恋がくれる余韻のすばらしさは、もしかしたら、開放感でもあるのかもしれない。うんちを我慢しているときのような、ちょっとした緊張感のようなものがあるから、恋はいいのかもしれない。

 

我慢して、我慢して、ようやくたどり着いた今日の日が、とてもすばらいいものだったときに、恋はとてつもないしあわせをくれるのだ。

 

 

我慢して、我慢して、快便だ。

 

 

 

そういえば、中国語でトイレットペーパーは“手紙”と書くって中学校の英語の教科書に載っていた。ぼくは、このことを使って、恋とうんちの関係性について、いろいろうまいこと言えないか考えた。

 

 

でも、どれもクサい。

 

クサすぎるので水に流すことにする。(うんちだけに)

椅子のある場所で会おう。

 

 

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実家の近くにある大学に進学した。

 
周りにはたくさんの下宿生がいて、中四国や関東からやってきた彼らは、一人暮らしを堪能していた。出会ったことのないイントネーションの方言や、ちょっと合わない笑いの感性を楽しみながら、僕たちはおなじ場所で数年間を学んだ。
 
 
高校まで公立でずっとやってきたから、どこかに必ず知っている人がいた。小学校の同級生が、高校のクラスメイトだったりもした。その子と仲が良いのかは別として、妙な安心感があった。
 
 
大学も地元だったため、蓋を開けたら幼なじみとおなじ学生団体にいるような生活を送った。そんなわけでぼくは安心し続けている。
 


 
就職して3年目にもうすぐなる。結婚や転職などのワードが、会話の中で出てくる年齢になってきた。子どもが生まれて、しあわせそうだったり、プロポーズをして、毎日を誰かのために頑張っていたり、何にも変わってなかったりしている。
 


 
東京に転勤する友だちがいた。
 
 
彼の出身は関西ではない。大学で神戸へやってきて、4年間をすごし、大阪で2年勤め、東京へ行くことになった。
 
きっと、東京に呼ばれることは素晴らしいことで、会社の中でステップアップをしたのだろう。おめでとうと言いたい。
 
なのに、妙に寂しい。なんで、こんなに寂しいのだろうか。
 

 
「次、僕たちはどこで会うのだろうか」
 
 
そうだ。ぼくが引っかかっていたのはそこだ。彼の地元は、神戸ではない。ここじゃないんだ。そうなると、例えば、お正月やお盆休みに、「おかえり」と言いながらお酒を飲むようなことは無い。
 
 

僕たちがいる兵庫県を通り越して、彼は別の場所へ帰っていく。
 
 
またここで集おう!なんて、背中をポンっと押して送り出すことは、すごく勝手な話になっている。俺はここで待っている、なんてかっこいい一言は、なんだかすごく上から目線だ。
 
 


そういえば、ぼくはずっと会う理由に、甘えてきた気がする。何かの団体に所属して、当たり障りのないことを言い、誘ってもらえるような立ち居振る舞いをする。
 
 
お盆休み、正月休み、大型連休なんかになると、「飲みに行かない?」と大勢の1人として誘ってもらい、「仕方ないなぁ」なんてことを言って内心嬉しそうに家を出ていた。
 
 
 
でも、これからは違う。
 
 
そんな簡単に僕たちは、いつもの場所では会えないのだ。いつもの場所なんて、無くなったのだ。
 
 
何が残っているんやろう。



…。


そうや。


 
そういえば、僕たちの会う場所には、いつも笑いがある。みんなで、グダグダ話しながら、行き着く先も分からない雑談がある。
 
 
東京にもたくさん椅子がある、神戸にもたくさん椅子がある。座れる場所があるならば、いつもの場所なんて大して問題ではない。名古屋とかでもいい。

どうして、立ち飲み屋じゃダメかっていうと、ぼくはとてもいま腰が痛いのだ。
 

 
まったく違う場所で生まれ、偶然に数年間をすごした僕たちが、これからも笑いあうためには、いつもの場所で会うことから、どこでもいいから会うってことに変わっていかなきゃきけなきね。
 


 
また、椅子のある場所で会おう。



行ってらっしゃい。
 
 
 

死にたいぐらい泥臭い

 

小賢しい、小賢しすぎる。

 

人に感謝をするとき、その奥底には必ずといっていいほど、見返りを期待する自分がいる。もし、そんなものを感謝と呼ばないのなら、ぼくは「ありがとう」という言葉をほとんど言えなくなってしまう。

 

 

このことを語ってみるべきかどうか、すごく悩んだけど、みんなそうなのかぼくは知りたい。知りたくてたまらない。

 

 

 

 

銀行に掃除をしにくるおばさんがいる。週に1度、ぼくたちが汚したトイレや、床を磨き、チェック表をもらって帰っていく。

 

ぼくは、新人の頃、そのおばさんのチェック表を受け取る仕事をしていた。特に何があるわけじゃなく、どこを掃除したか確認するだけのもので、雑務のようなものでした。

 

去り際に必ず、おばさんはオフィスに向けて頭を下げ、「ありがとうございます」と言って帰っていく。その声は、キーボードをたたく音や、コピー機の排出音にかき消され、だれの耳にも届かない。

 

チェック表を受け取ったぼくだけが、「いつも、ありがとうございます」と挨拶をして、おばさんを従業員口へ案内していた。

 

ある日、こんな声が聞こえてきた。

 

 

「あのおばさんの仕事、ちょっと雑やんね」

「うん、なんか汚れてるよなぁ」

 

 

耳を塞ぎたくなるような、掃除のおばさんへの愚痴だった。オフィスのちょっとした汚れぐらい自分で掃除したらいいのに、仕事のストレスのようなものが、おばさんへ向いた。

 

ぼくは、すごく聞きたくなかった。

 

 

「でも、おばさんは一生懸命やってますよ」と言ってみた。

「給料払っているわけだからさぁ」と返された。

 

 

大人の意見だと思った。先輩はすごくまっとうなことを言っていると思った。たしかに、頑張っているから許すなんてことは、仕事に存在しないのかもしれない。でもなんか、「ありがとう」も言わないくせに愚痴を言ってるんじゃないよと心の中で苛立ってしまった。

 

 

 

それから数か月して、お客様感謝デーというのが行われた。定期預金をしてもらったら、くじびきに挑戦出来て、生活用品が当たるような企画だ。

ぼくは相変わらずのしたっぱなので、商店街で貸してもらったベルを片手に、お客さんにくじを引いてもらって当たりが出たら当選の音を鳴らす仕事していた。

 

 

「次のお客様どうぞ!」と呼びこんだ先に、掃除のおばさんがいた。支店に貼っていたチラシをみて、仕事のまえに定期預金をしにきてくれたのだ。

 

 

ぼくだけが、そのことに気づいた。職場のどの人にも、そのおばさんはただのお客様だった。

 

 

とても嬉しくなって、その日は、上司や先輩にいろいろ報告してまわった。

「掃除のおばさんが定期をしてくれましたよ!」と言いまわった。

 

 

 

その次の週からだ。

 

 

おばさんの小さい「ありがとうございました」の声が、オフィスに届くようになった。声の音量はそのままなのに、みんなが「いつもありがとうございます!」と言っている。おばさんは、お客様になったのだ。

 

ぼくは、その変わりようが怖くて怖くて、いまも掃除のおばさんが来る日の夕方が嫌だ。

 

 

 

でも、よく考えると、ぼくはどうして「いつもありがとうございます」とおばさんに感謝を伝えていたんだろう。汚れているところが残っていると、職場の人が言っているのに、それを伝えなかったんだろう。

 

 

別に、同情なんてしていない。

銀行の仕事は、すべての関わりあう人がお客様になるということを、ずっと考えていたからだ。つまり、お客様感謝デーにおばさんが来ることは、【感謝】という行為への見返りを求めた、ぼくの成功例のようなものだったのだ。

 

 

 

打算的だ。でも、そんなこと考えていなかったと言われると嘘になる。あわよくばが、頭の中にはずっとあった。

 

 

 

コンビニで店員さんに、「ありがとうございます」と言うときでも、信号を正しく守るときでも、いつでもそこに小賢しい自分がいる。この【感謝】や【正しい行い】が何かに繋がれば良いと頭の中で思いながら、生きてしまっている。

 

 

 

「お給料をもらっているんだから」とおばさんを指摘した先輩も、気にもかけなかったオフィスの人たちも。ぼくが嫌だった人たちの行動が、実はよっぽど素直に生きていることに気づいてしまった。

 

 

 

ぼくは、死にたいぐらい打算的だ。

今日、掃除のおばさんが来ていて、そんなことをボーッと考えてしまった。

 

 

でも、こうやってでも生きていかないとダメだとも思っている。そうしないと、仕事にならない。結果だけを求められる日々の中で、誰かに感謝することが成果につながるのなら、そんな自分にとって気が楽な方法は他にはない。

 

 

そんなぼくでも、「ごちそうさま」だけは心の底から言っている。たくさんの命と、作ってくれた人に、純粋な感謝を述べている。与えてもらったことへ対して、ただただ感謝でしかない。

 

 

 

「あたりで~す、おめでとうございま~す」

 

 

おばさんのくじが当たったとき、ぼくは本当にうれしかった。プレゼントを渡すとき、本心から「ありがとうございます」を言えた。現金なやつだとは思っている。思っているけど、でも素直に言えた。

 

 

ぼくのこの生き方をすこしだけ肯定するなら、泥臭いと表現したい。

 

 

ぼくは、死にたいぐらい泥臭い。

 

 

そうやって人とつながって、いつか「ごちそうさま」を言うように、感謝を伝えられる人になっていきたいと思う。もし、同じようなことを悩んでいる人がいたら、言葉にして語り合いたい。泥臭く生きていこうよと、お酒は弱いけど呑みながら話をしたい。

 

入れ歯さがし

 

お正月が好きだ。特番をボーッと眺めて、気づいたら夕方になって、あぁもう一日が終わるなぁと思いながら中途はんぱな時間に寝て、夜更かしをする。そんな、ぐうたらな数日間は最高だ。

 

 

小学生の時、よく祖父母の家で集まって、親戚一同でボードゲームをしていた。人生ゲームや、キャラクター物のすごろくをリビングに広げて、みんなで遊ぶ。いつもなら、遊んでくれない大人が真剣にゲームに取り組んでいる。子どもとは違って、戦略的にゲームをすすめる戦い方に、妙な大人への憧れを感じたりした。

 

 

「もう一回、もう一回」

 

そういって、親族を席に座らせて、長い人生を辿るゲームを何度もやっていた。父親はとちゅうで、お酒がまわって寝始めて、キッチンで洗い物をしている祖母に選手交代したりしながらお正月はすぎていった。

 

 

 

25歳になって、いまさら人生ゲームを広げることはなくなった。最初に語ったように、家でボーッとテレビを眺めていることが、最高の時間だ。なんだったら、家族のいないところで観たい。ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』を観ている途中に、口元を隠さないといけないのはめんどくさい。にやけてしまうから、隠さざるをえない。

 

 

「う~わ、にやけとる」

 

 

そういった、人の表情の機微を家族はよく見ているのだ。だからといって、あのドラマをにやけずに眺めていることは、不可能なのである。

 

 

 

今年の正月も、父親の祖父母の家へ行った。

 

 

大みそかに買い込んだカニを解凍していた祖父は、野菜の準備をしていなかった。雑炊までを楽しむのがカニ鍋のお楽しみなのに、お米も炊いていなかった。母が、キッチンへ立つ。「寒いわぁ」なんて言いながら、包丁の音が聞こえる。

 

 

 

お正月。数年前まで、このキッチンには祖母が立っていた。

その場所に母が立ち、祖母はリビングに座っていた。

 

 

 

祖母が倒れたのは、二年前のことだった。理由は、血圧の薬を飲んでいなかったから。どうして飲まなかったのかというと、どうでもいいやと感じてしまい、ひとりでいる時間はご飯すら食べていなかったようだ。

 

ぼくたちは、なんでそんなことを感じてしまっているのか分からなかったけど、父が何かを感じ取って病院へ連れて行った結果、あることが判明した。

 

 

 

おばあちゃんは、認知症になっていた。

 

 

症状はすこし進んでいて、無知なぼくでも認知症が完治する病気ではないことは分かっていた。会社の研修で、その病気について学ぶ機会があって、すごくあいまいなことではあるが、やっぱり進行を遅らせるには会話がたいせつだと教わった。

 

 

ぼくはすごくショックを受けたけど、でも、本人の感じているショックを思うと、何一つ変わらないで接することがいちばんだと思った。だから、週に1度は祖父母の家へ行き、そこから出社する生活をするようになった。

 

 

いざ、いつも通りに接しようと思っても、そう簡単にはいかない。なんとなく、会話の内容がとんでいる気がするし、それがただの物忘れなのか、認知症の症状なのか分からない。最初は、なんとなくぎこちない会話をしていた気がする。

 

 

だけど、テレビをボーッと眺めて、なにか小言を祖母と話しているとまるでお正月のお昼に、寝転がって過ごしているかのように軽快な冗談がポロポロ出てくるようになった。映画を観ていても、「ここの矛盾が気にならへん?」と語りかけると「う~んそうかなぁ」と祖母は返した。会話が成り立っているのか分からないけど、でも笑いながらお菓子を食べて一緒に時間を過ごす。

 

 

デイサービスに通うようになって、祖母は病気を感じさせることがないぐらい元気になった。友だちができ、レクリエーションが楽しく、食事もおいしい。最初の頃に比べて、たくさんの話をぼくにしてくれるようになった。

 

 

 

「これねぇ、わたしも出たことあるんよ」

 

 

NHKのど自慢大会を観ていたときに、祖母がいった。祖父も知らない話だった。証拠はひとつもなく、記念品のようなものも1つも無かったけど、ぼくはその話を信じた。

どんな歌をうたったのか、リハーサルの様子はどうだったか、質問をしても答えはぜんぶ「覚えていない」だった。

 

でも、「鐘は鳴った?」という質問には即答で、「鳴った、3つ鳴った」と答えた。

 

「悔しかった?」と聞くと、「いや、出れただけで嬉しかったよ」と笑っていった。

 

 

まだテレビが普及する前、ラジオ放送の時代の話だったが、祖母の思い出に触れることができて、しかも鐘が3つでも出れたことが嬉しいという感情を知ることができて、ぼくはすごく嬉しかった。

 

 

でも、ふと思った。

 

 

祖母が認知症になっていなかったら、ぼくはこの話に巡り合えていたのだろうか。もっと元気な頃に、いろんな話を聞いていたら、鮮明に教えてくれたことだったのじゃないだろうか。

 

時間を巻き戻せない辛さも同時に感じた。認知症という病気に、「時間がなんとかしてくれる」という言葉は通用しない。今も、ゆっくりゆっくりだけど、病気は進行していく。

 

 

だったら、ぼくにできることは何だろう。

 

 

手をつなぐように、肩をそえるように、祖母と時間を過ごしていくことだけなのじゃないだろうか。毎日はいっしょにいられないけど、映画の矛盾がどうかとか、吉本新喜劇に笑ったりしながら、祖母の思い出に触れ、ぼくの思い出を聞いてもらうことが今のぼくにできることだ。

 

 

 

 

母のカニ鍋の準備が整った。

お出しが沸き立ち、カニと野菜が並び、ポン酢を皿に注いだ。

 

 

「ばあちゃん、下の歯をどこやったん?」

 

 

妹が言った。よく見ると、祖母の下入れ歯がない。これじゃあ、カニ鍋が食えない。

 

 

 

「う~ん、どこやったやろ、分からへんなぁ」

 

 

久しぶりに、感じた祖母が認知症だったという事実に、お正月のお昼がすこし暗くなりかけた。それがすごく嫌だった。でも、ぼくたち家族は、みんな、祖母の病気を受け入れて進む決意のようなものがあったと思う。

 

 

「入れ歯さがしゲームしよか」

 

 

ぼくのくだらない冗談に、みんなが賛同した。

 

いい大人がみんな、正月の2日から、入れ歯を探している。ゴミ箱の中、お菓子の箱、トイレ、ふろ場。みんな、歯があるのに、入れ歯を探している。その光景は、とても面白く、なんとなくみんなで笑った。ぼくはというと、言い出しっぺのくせに、そんなに参加せず『逃げるは恥だが役に立つ』を観ていた。でも、口元のにやけは、ガッキーの力だけでは無かったと思う。

 

 

結局、入れ歯は見つからなかった。ばあちゃんは、のこった上の歯で、父がほぐしたカニをうまそうにほおばっていた。ぼくは、それを遠めに必死で自分のカニを確保していた。

 

 

ボードゲームをしていたお正月とは、ずいぶん変わってしまったと、ぼくは何となく思っていたけど、でも何も変わっていなかったと思う。

 

「入れ歯さがし」というゲームを家族みんなで遊び、正月のお昼をすごした時間は、あの頃のまんまだったのだ。

 

 

しいて言うなら、今まで祖母がやっていた皿洗いを、妹がふてくされながらやっていたことぐらいだろう。

 

 

1月2日のひと。

 

今年の1月2日は、家族とすごした。

とても久しぶりのことだ。

 

 

昨年度まで、ぼくにはお決まりのコースがあった。

 

大学で属した部活の先輩と、同期のともだちとみんなで集い、神戸の生田神社へ初詣に行き、そのあと、しゃぶしゃぶの食べ放題に行くという黄金の方程式だった。そのコースに、毎年ちがったアレンジが加わる。クレーンゲームでひとりの女性の先輩に贈り物を全力で獲得したり、船に乗ってたそがれてみたり、ぼくの家へきてテレビを眺めたりしていた。

 

 

ぼくにとって、1月2日は毎年の楽しみで、そして、その会の中心には、いつも、ひとりの先輩がいた。

 

 

 

ぼくが大学生の頃にやっていた精肉店のアルバイトは、その先輩の紹介だった。部活でも、バイトでも、先輩はとてもやさしく、いっしょに遊びながら大学生活をすごしていた。誰かの誕生日になれば、ムービーを作成したり。バイトになると、どっちがニアピンで豚ミンチを量れるかや、ゴミ捨ておさぼりタイムを奪い合ったりした。

 

 

先輩はぼくよりも、ずっと人柄がよくて、みんなに愛されている。いまも、大学生活の話をするときは、その話題になる。

みんなにあだ名で呼ばれて、困ったときは頼りにされて、どんな場にも順応して、後輩からも先輩からも必要とされている人だった。

 

 


 

 

ある冬の夜、バイト終わりに先輩に誘われた。

 

 

ルミナリエ観に行かへん?」

 

 

先に言っておきますが、先輩は男性であり、ぼくも男性で、どっちもそういう感情は存在していません。ただ、神戸の百貨店でバイトをしていたぼくたちにとって、散歩をするのには丁度いい場所だったのです。

 

 

バイトで疲れた体に、冬の風がしみました。でも、ぼくはとても温かい気持ちになっていました。先輩に、散歩に誘われたことがすごく嬉しかったのです。

散歩に誘ってもらえるということは、空腹だからとかではなく、ちょっと一緒に話をしたいということです。ぼくと、一緒に歩きたいと言ってくれたあの日の夜を忘れません。

 

 

ルミナリエは、ぼくたちが行った頃には終わっていました。

 

ついさっきまで、冬の神戸を照らしていた美しい光は消え、その余韻だけが公園にある。カップルや家族連れは、みんな家へ帰るため駅へ向かっており、それを逆行するように先輩と進みました。

 

 

たしか、和牛のホルモン炒めだったと思います。さっきまで肉屋で働いていたのに、ぼくたちは半額になったそのグルメを食べました。お酒なんかも買っていたと思います。二人で、公園のはじっこに座って爪楊枝をにぎっていました。

 

 

先輩は、しばらく固くなったホルモンをかみ砕いたあと話をしてくれました。それは、いま思うとくだらないことだったかもしれないのですが、恋愛相談のようなもの。まだ彼女もいたことがなかったぼくに、恋人の浮気がらみの悩みでした。

 

 

何を答えたかは覚えていません。話を聞いていただけかもしれない。でも、先輩には悪いけど、ぼくはその時間を楽しんでいました。恋愛相談なんて初めてされたし、ぼくを信頼して話をしてくれたことが、ただただ嬉しかったからです。

 

 

その日以降、ぼくは先輩にいろんなことを話せるようになりました。先輩も、いろんなことを話してくれました。二人で行った、真っ暗のルミナリエは忘れられません。

 

 

先輩の真似かもしれませんが、ぼくも、誰かに心をひらくときは、いつも散歩をしているときにしようと決めています。川辺を歩いたり、公園のベンチで語ったり、そこで本音で話すのが大好きです。

 

 

 


 

 

 

2018年1月2日、今年はしゃぶしゃぶを囲めませんでした。

 

いつも中心になって、みんなを集めてくれる先輩が帰ってきていなかったからです。

 

 

一昨年ぐらいから、先輩は、仕事かプライベートか理由は分からないけど精神的に弱ってしまって、人と会えなくなってしまっています。電話では、いつも元気な声を聞かせてくれて、軽快な冗談をまじえてくれるのですが、家族でさえもあまり会いたくない状況だそうです。

 

 

事情も分からず、無理やり会うこともできない。でもぼくたちは繋がっていたい。そんなことを、いつも思いながら、部活のみんなは先輩の話をして電話をしたりしています。

 

 

何かぼくたちにできることはないだろうか。でも、変に焦らせてしまったら、先輩を追い詰めてしまうことになるかもしれない。もしかしたら、こうやって書いてることも先輩を傷つけてしまうかもしれない。でも、何かをしたくて、思いを伝えたくて、思い出をすこしだけ引き出しています。

 

 

どうすれば、また前みたいにみんなでしゃぶしゃぶを囲めたり、真っ暗のルミナリエでくだらない恋愛話をしてた頃に戻れるのか、ぼくは病院の先生じゃないので分からないです。

 

でも、これからも、1月2日はスケジュールを開け続けます。母親から、「1日だけじゃなくて、2日も実家におったらいいやん!」と小言をこぼされても、2日は絶対にしゃぶしゃぶです。しゃぶしゃぶしたり、散歩したりしないと、一年がはじまらないのです。

 

 

 

写真フォルダや、SNSで日付をたどると、いつもそこには1月2日の思い出があります。ほかにもたくさんあるんですけどね。

 

 

人はいつも近くにいる友達や恋人、家族と、「ほんなら、また!」もしくは、標準語で「では、また!」と言って分かれます。

1月2日にお決まりで会えていたぼくは、絶対にまた会えるという関係性をとても嬉しく思い、そうやって分かれてきました。

 

 

でも、人と人のこれからに、絶対なんてない。1分先の未来もわからない私たちに、絶対なんてものは存在しないのです。

先輩とこのような理由で会えなくなるなんて、あの日のぼくは思いもしなかった。

 

 

 

だからこそ、お決まりに頼ることなく、ぼくたちはみんな、いまの時間を大切にして向き合っていかないといけない。

こんなことを言うと、とても重いかもしれないが、ぼくはそう思って、人と全力で楽しんでいこうと思います。

 

 

 

そして、ひっくり返すかもしれないですが、ぼくたちは絶対にまた会える。

理由なんてないけど、会えるに決まっている。

 

 

出会ってもう7年ぐらいになっている。きっと超えられる壁だと信じている。

もし、なにか背中を押せることがあるなら、ぼくは喜んで全力を出したい。

 

 

1月2日のひと、その生還は、もうすぐそこだと思っています。

 

カミングスーンってやつですね。

自転車を大切にすること。

 

今日が仕事納めだったので、さいごに自転車を拭きました。

 

 

ふだんは自転車に乗って営業をしています。お家を一軒ずつ周るので、自転車は適しています。インターホンを押して留守だったら、即座にまたがり動き出せます。ぼくにとっては、おそらく一番大切な仕事道具です。電卓ではありません。

 

 

その自転車なのですが、いまは2代目に乗っています。新入社員のぼくに与えられた、初代の相棒はとんでもないやつでした。

 

 

まず、バッテリーが2分で切れる。前輪と後輪のタイヤが仕様がちがうので、空気入れがとても面倒。謎の海外メーカーの商品ゆえに、修理するにもパーツがない。車体がゆがんでおり、ブレーキは常時かかり続ける。

 

電動アシストは何も支持していないのに、忘れた頃に突然やってくる。表現するならば、『ど根性ガエル』で、ピョン吉に引っ張られる主人公のひろしのような感じです。自分の意思とは反して、願ってもいないのにアシストしてくれるので、なんども事故にあいかけました。

 

 

いいかげん困り果て、職場の近くの自転車屋さんへ行くことに。

 

 

「いい自転車のさせてもらってるやん(笑)」

 

 

この道50年の自転車屋さんのご主人が、苦笑いしながらぼくの相棒に触れました。そして、この自転車のどこを直すべきか、修理する必要がある場所はどこかを言いながらメンテナンスを始めました。

 

 

「こりゃあかんなぁ~」とご主人は嘆いていました。話を聞いていると、ぼくの自転車はいろんなメーカーのパーツを寄せ集めて作られたもので、フランケンシュタインのような怪物。手を施すところがありすぎるみたいでした。

 

 

(やばい、新しい自転車を勧めてきそう・・・・)

 

 

新しい自転車を買う予算がないのは分かっているし、ご主人に勧められたら困るなぁとぼくは思っていました。でも、商売人なら、ここは当然営業してくるよなぁとか考えながら。

 

 

「でもまぁ、ちゃんと走れるようにはしといたよ」

 

 

返された自転車は、常時かけられるブレーキは治り、車体のゆがみも修正されていました。またがってこいでみると、めちゃくちゃ快適でした。

 

 

「あのぉ、お代は?」とぼくが聞くと、「いやぁ、パーツも何も使ってないからいらんよ、でも事故せんようにたまに持っておいでや」とご主人はすこし汚れた手を振りました。

 

 

それからは、もう通いつめです。なにせ、フランケンシュタイン。次から次へと異常が発生するのです。そのたびに、ご主人はぼくの自転車を修理し、「さぁ、がんばってらっしゃい」と送り出してくれました。

 

自転車屋さんがある場所は、ぼくの営業エリアではありません。ほかの人が周っている地域だから、営業もしませんでした。だけど、自転車が悲鳴をあげるたびに行くので、どんどん親しくなっていき、お取引もちょっとだけしてくれるようになりました。

 

 

 

人と、人のつながりは、ジグソーパズルのようなものだと思います。人それぞれにある長所と短所がかみ合うようにして、繋がりあう。

 

 

なにか自分に足りないものがあるから、人は人に魅かれていく。それはおなじ友人という関係性でも、それぞれに違うと思います。似た者同士であつまっているつながりでも、やっぱりそこには、自分にはないものを持っている友人がいる。

 

 

その微妙な凸と凹に気づけたときに、ぼくたちは出会えたことをとても幸福に感じることができるし、運命と言うものをかみしめられる気がします。

 

「俺たちって本当に似てるよなぁ」といって肩を寄せ合うより、「似てるけど、でもお前のそういうところが好きだし、長所だと思えるよ」と言えるほうがきっと長く一緒にいられる。そのきっかけは、相手と自分のちょっとした違いを理解し、そんなぼくたちが出会った理由に感謝することだと思います。

 

おおげさな話になりましたが、今回の出会いを通じて、そんなことを感じていました。

 

 

ぼくは、自転車がフランケンシュタインじゃなかったら、このご主人と仲良くなることはありませんでした。自転車修理のこだわりや、パーツの名称を知ることもなかったし、お取引をすることもなかった。仕事道具という外身の話ではありますが、この出会いを大切にしたいと思いました。

 

 

 

 

それから数か月後、ぼくは新しい自転車に乗っていました。

 

自転車屋さんで買ったものではありません。フランケンシュタインが、走行不可能になってしまった結果、ようやく本部がぼくに新しい自転車を送ってくれたのです。しかも、国産の電動自転車。ぼくがずっと求めていたものでした。

 

 

届いてびっくり。スペックは前評判通り、国産の電動自転車ですが、車体がショッキングなピンク色だったのです。

 

 

「どこの銀行員がピンクのママチャリで仕事すんねん」

 

 

ぼくは、心の中でツッコミぱなしでした。でも、実際に走るとその快適さにびっくり。色なんてもうどうでもいいぐらいに、最高な自転車だったのです。

 

 

営業初日、ぼくはまず、自転車屋さんに行きました。

 

 

すると、ご主人が飛び出してきて、

「おぉ~~~、ええ自転車買うてもろたやん!国産やし、色は派手やけど(笑)」

すぐにぼくの自転車を触ってくれました。

 

 

「でもさ、いい自転車だからってメンテナンスしなくていいわけじゃない、空気入れるだけでも持っておいで、大切に乗りなさいよ~」

 

 

今日の仕事納め、ぼくは年末のあいさつに、ご主人のもとへ行きました。周辺住民のお助け場になっている自転車屋はとうぜんのように営業をしていて、お客さんが並んでメンテナンスをうけていました。

 

 

「今年は本当にお世話になりました!」

 

「また来年も、持っておいでよ~」

 

 

簡単なあいさつをかわして、ぼくは支店にもどり、毎日乗せてくれた自転車を拭きました。大切に乗っていくために、拭きました。

 

フランケンシュタインがいなかったら、なかった出会い。物を大切に、人との出会いを大切に、一年を終わることができたことに感謝して、仕事を終わりました。

 

 

走り回った一年、つかれたなぁ。