得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

北極星は明るくて、遠い。

 

 やりたいことを見つける瞬間は、みんな違うと思う。

 小学校の時にオリンピックに出たいと言っていた少年が、

 中学校では、小説家になりたいと言って、

 高校ではテレビ制作をやってみたいと言い出して、

 大学生では広告を作りたいと強く思って、

 卒業したら銀行で働いている。

 

 これは、一例(ぼくの話)だけど、

 みんなはどんな「なりたい人生」を送っているのだろうか。

 

 

 いろんな数年間を経て、現在どこにいるのか。

 コンパスがどこかに消えてしまって、

 気づいたら、ぜんぜん違う山を登ってしまっていた。

 そんな人が世の中にはたくさんいるのだろう。

 

 

 途中で、山が違うことに気付いた時に、どうすればいいのか必死に考えた。

 1つは、今の山を一生懸命のぼる。今の場所で輝けるように頑張る。

 諦めることではなく目標の転換。

 

 

 もう1つは、一度降りて、登っていた時についた筋肉、知識を利用して、

 あたらしい山を登り始める。

 ロープウェーなんて無い。向こう側には簡単には渡れない。

 自力で登り始めるしかないのだろうなぁ。

 すごく不安だ。全然違う山だろうから。

 どんな生き物がいて、どんな気候なのかも分からない。

 もしかしたら、山には毒ヘビがいるのかもしれない。

 怖い。

 あらためてコンパスが必要だ。

 

 

 糸井重里さんの、

 「抱きしめられたい」を呼んだ。

 

抱きしめられたい。 - ほぼ日刊イトイ新聞

 

 目指すべき場所どこなのか、分かったようで分からない。

 だけど、この本の中には、自分が毒ヘビと出会った時に、

 どう考えてどう向き合っていくのか、そしてどうやって食べるのか。

 そんなことがたくさん書いてあった。

 そして、今いる山の中でも使えるような話だった。

 

 あぁそうか。

 

 この人は、北極星なんだ。

 ぼくが持っていて、方向を確認するコンパスではなく、

 空を見上げたら光っている星のような存在。

 夜になったら、登るべき場所を照らしてくれる存在。

 どこかのおとぎ話のように、顔があって口があって、

 夜になると歌声が世界中の山に響き渡る星。

 

 

 今いる山を登る人にも、

 今遠くで見えている山を登りたい人にも、

 読んではどうかと思える三四七ページ。

 いつか、ロケットも作れるようになって、

 会いに行ってみたいと強く思いました。

 

 

 もしかしたら、自分も誰かの北極星になれるのかも、

 って思うのは、おこがましいことかもしれないけど。

 たとえば、親になるとか、先輩になるとか、

 こうやって何かを書いて発信するということは、

 ぜんぶぜんぶそうなのかもれない。

 だからこそ、今日も一生懸命歌います。

 

 

 

 聴いてください。

 

 

 「月曜日が憂鬱だぁあ」

 

 

スマホ対応の手袋を買って、気づいちゃったことを。

 

 腹がへって何気なく誘おうかなって思う人や、

 「ごはんでもどう?」と誘ってくれる人を想像してください。

 その人は大切にしたほうがいい人と思います。

 特に深い意味はないし、以後、あまり関係ない話をしますが。

 

 

 

 お正月に手袋を買った。

 百貨店に行ったときに、ちょっといいやつが並んでたので。

 と言っても、3000円ぐらいのSALE品ですが。

 

 買った手袋は、すぐれもので、スマートフォンが操作できる。

 手袋を外さずとも、画面をタッチできるので、

 冬の寒い季節でも、屋外でスマホを触ることができるのです。

 外回りで、突然かかってくる電話にも、素手をさらさずに対応できるのです。

 

 さぁ、手袋をつけてスマホ操作ができるとなると、

 冬の季節に素手で外を歩くことは無いような気がしてきます。

 ちょっとの外出でも、切り裂くような冷たい風が襲いかかってきますので。

 もはや、手袋をはずす理由がない。

 

 だけど、今日の通勤時、ぼくは手袋を外した。

 それも、風がびゅんびゅん吹き荒れている海沿いの道で。

 スマホの操作がスムーズにできる手袋をはずした。

 

 缶コーヒーを買ったのです。

 外が寒すぎて、体を温めるため、あったか~いやつを。

 手袋をはずすと、もちろん、手は痛いぐらい寒い。

 それでも、缶コーヒーの放つ温もりを素手で感じたかった。

 その時に、ふっと思った。


 あぁぼくは温かい飲み物を体に注ぎたいというよりも、

 手をこうやって温めたいから缶コーヒーを買っている。

 手袋を外してまで、この温もりを求めていると。

 

 自分が感覚的に思っていることと、

 本当に思っていることの違いってあると思います。

 ぼくが手袋と缶コーヒーを通じて気づいた今日のように。

 

 いちばん身近なことで言うと、友達とのごはんはそうだなって思います。

 お腹がすいたなぁと思って、友達を誘う。

 ごはんを食べているようで、仕事の愚痴や、悩みを話す。

 お腹を満たすために食事に行ってるようで、

 本当の目的は心許せる友達との会話ではないでしょうか。

 

 

 無意識に手袋をはずして、温もりを求めたように。

 無意識に、何も考えずに誘ってしまう友達。

 表面的に考えていることのうらに、本当に求めているものがある。

 

 

 求めているとか、求められているとか、

 そんなこと考えると重いかもしれないけど。

 週末だぁ。週末です。

 

 遊びに出る人は、寒いので、手袋マフラーは必須ですよ。

 

 

  

予防接種を打つ理由が、ふえた話。

 インフルエンザが流行っている。

 もちろん、手洗いうがいは欠かせない。

 予防接種にも行こうと思っているが、なんだかんだで未だ行けず。

 世間話の中で、お客様とその話題になった際に注意を受ける。

 

 「あなたがインフルエンザになってしまうと、

  あなたを家に入れた人みんなに病気をうつすことになるのよ。

  それは、責任を持って予防に徹する必要があるってことですよ。」

 

 心に、スッとその注意が入ってきた。

 きれいに。

 本と本の隙間に、落としたお札が吸い込まれるように入ってくみたいに。

 ぼくはいま、予防接種をしなかったことに怒られているわけじゃない。

 仕事に対する姿勢に対して、いま一度考える機会をもらってるんだって。

 

 毎日、たくさんの人と接する営業。

 とくに、銀行の営業は、一日にたくさんの年配の方と接する。

 家にあがって、顔を向け合って会話をする。

 そんな日常を過ごしているぼくは、絶対に気をつけないといけないはずだった。

 それは、自分のためでもあるが、何より周りの人のため。

 

 

 インフルエンザになったら身体がしんどいから、予防接種をする。

 試験勉強ができなくなったらダメだから、予防接種をする。

 楽しみにしてた旅行に絶対行きたいから、予防接種をする。

 

 

 

 投資商品の相場を読むことは本当に難しい。

 責任感を持って取り組んでるけど、自身はない。うまくいかない。

 だけど、プロであるために、考えることはもっとたくさんある。

 それをぼくは、インフルエンザの予防接種に学びました。

 

「正解」を出すことについて。

 

 いつも、何が正解なのか分からなくなる。

 本を読んで学び、教育を受けて考えて、ひねり出した答えが、

 「結果がすべてやろ」という一言で終わることがたくさんある。

 

 たくさんの科目を毎日勉強して、

 テストをやって、点数をつけられる。

 赤点になったら、補習があって、正しい答えを教えられる。

 なぜ、あんなに必死に公式や人物名を教え込まれ、

 正解を出すことを求められたのか。

 なんでか、考えてた。

 

 

 正解を出すということは、「いいこと」を差し出すということだと思った。

 

 

 正しい知識を覚える生徒がすこしでも増えることが、

 先生にとって「いいこと」だったから、

 ぼくたちはたくさんのことを教えられたのじゃないだろうか。

 

 

 会社は、出された問題に対して、

 研修でのテストでは100点の答えを出しても褒めてはくれない。

 本を読んで、講師の言っていた方法論でまじめに仕事をしていても、

 結果が出ていないと指導をされて、補習が待っている。

 

 

 会社にとっての「いいこと」は、

 業績をあげて企業価値をあげることだから。

 

 上司にとっての「いいこと」は、今月の部署の成績を上げるだから。

 

 

 だからこそ、習ったことより、もっともっと頭を使わないといけない。

 今回がダメでも、次は「いいこと」を差し出さないといけない。

 社会に出て、正解を出すというのはそういうことなのだろうと思った。

 相手が「いいこと」と判断してようやく、

 自分の答えは正解になる。

 

 とても、生きづらい世の中だと思うかもしれないけど、

 そうじゃないとぼくは思う。

 

 相手にとって、何が「いいこと」か考えて答えを探す。

 それが、人生の楽しみであり、目的の1つなんじゃないかと思う。

 「いいこと」を差し出せば、時々、「いいこと」が舞い込んでくるから。

 

 打算的ともとれる生き方なのかなぁ。

 でも、「いいこと」をたくさん周りからもらうためには、

 自分も努力をする必要があるのじゃないかなぁ。

 

 

 こうやって考えていることすら、

 もしかしたら誰かにとって「わるいこと」なのかもしれないけれど。

 

 

 あぁ。

 体に「わるいこと」と思いながらポテチをつまんで、ボーっとしている。

 今日は、新聞を読んでないし、洗濯もしていない。

 でも、自分のことだから、ええかなぁ。

 

 

 

 

銀行員に潜入。11マス目

  

 

 「海老一染之助・染太郎」の画像検索結果

 

 小学校の時から大好きな、海老一染之助・染太郎師匠です。

 今でも、お正月がくるたび新年を祝う2人の声が、

 頭の中をぐるぐるとめぐって、楽しい気持ちになります。

 冬休みの宿題で、年賀状の絵を書く宿題があって、

 このお二人を書いて提出するぐらい好きでした。

 

 

 というわけで、年が明けて一週間。

 気づくことがありました。

 新年のご挨拶というのは、ありがたい。

 営業にとって、普段から門前払いを受けるお客様にも、

 「あけましておめでとうございます」を言うために、

 インターホンを押す勇気が出るのです。

 お客様も、挨拶のために来た人間を追い払うことができないのである。

 初めから、うまくいかないと思って気楽に話をしていると、

 そこから話がはずんで、仲良くなれる人もいるわけで。

 

 (扉を)あけましておめでとうございます、

 の恩恵をしばらくは受けようかと思ってます。

 

 たくさんの人の家に行って感じたことは、

 「おめでとうございます」と言うのは気持ちがいい。

 年をとることを悲観的に感じる人はいても、

 年が明けることを嫌がる人はあんまりいない。

 1年という人生の時間に、

 日本中の人がおなじように終わりを感じて、はじまりを感じる。

 「あけましておめでとうございます」という言葉は、

 どの家の、どの人にとっても共通の話題だ。

 

 ぼくたち営業は、いつも共通の話題を探すのに必死で。

 すこしでも、お客様に近いところにいれるように、

 趣味をきいたり、家族の話をしたりする。

 知らない作家の話を聞いたら調べるし、

 お客様の地元の話が記事になっていたら切り抜きをつくる。

 そうやって、少しずつ、歩み寄ろうとしている。

 もちろん、そこには営業とお客様という関係が見え隠れするけど、

 お互いに忘れられるように努力をする。

 

 どうやら、

 「新年は祝いたくなる」という感情はぼくたちにチャンスをくれるみたいだ。

 ノルマは嫌だし放棄したいし、仕事は本当に行きたくないけど、

 これからの数日間、どんな新しい人に会って、どんな新しい知識がもらえるか、

 そこだけを目標にインターホンを押そうと思う。

 

 

 営業と、お客様という関係で、「おめでとう」という感情を共有できるので、

 『あなたと友達』や、『あなたと家族』といった関係性には、

 もっともっと何かが生まれるチャンスがあると思います。

 しばらく連絡をとっていなかった友達や、あんまり話していない家族へ。

 あとは、これは使えると思うのですが、

 気になっていたけど連絡をするのをためらっている異性へ。

 

 何かが動きだすきっかの合言葉は、

 「あけましておめでとう!」であると提案させてください。

 ただし、ちゃんと祝うこと。染之助・染太郎師匠のように元気よく、軽やかに。

  

 

 今年も、すこしだけ、銀行員をやって、

 あとは、営業エリアをふらふらと話題を求めて歩きたいのですが、

 また悩ましい日々が続きそうで、胃がキリリとしているわけで。

 

 

 みなさんも、ぼくも、新しい一年を祝って、

 夢へ一歩踏み出せる年にしましょう。

日常をすすむのは、しんどいけれども。

 

 新年が明けると、学校や会社もはじまる。

 ぼくは、たった4日間のお休みを噛みしめて、

 眠たい目をこすって今日から出勤しました。

 朝起きて、米ドルが何円かを気にしてしまった瞬間に、

 「あぁ、もうお正月は遥か彼方へ行ってしまった」と、ため息が、ふぅです。

 

 学生の頃のぼくだったら、

 「今日は休み!」って勝手に休日を制定して、家にこもっていたのですが。

 あいにく、ぼくの出勤を待っている机とパソコンと壊れた自転車が待っているため、

 そういうわけにもいきません。

 

 憂鬱な日々が続くわけだが、ぼくの場合はなんとなく生きている。

 でも、世の中には、本当に学校や会社に行きたくないと悩む人もいるわけで。

 その理由はたくさんあって。

 仕事がきついとか、眠たいとか、家で映画を観ていたいとか。

 あとは、イジメとか。

 

 心無い声をかけられたり、誰もが自分を無視したり、

 暴力だってあるし、金品の強要だってあったり。

 いろんなイジメが学校にはある。

 

 ぼくは、教育を受ける場所には恵まれた。

 学校に行くのが辛い時期もあったけど、周りは気のいい人たちばっかりで、

 今思うとしあわせだったと思う。

 年末年始に、友達や先輩と会ってひとくちだけ日本酒をもらったとき、

 陽気にしあわせを感じた。

 でも、一生会いたくない人も人生には、いる。

 

 水泳をクラブチームでやっていた時に一緒にやっていた、

 同学年の何人かには二度と会いたくない。

 理由はぜんぜん分かんないけど、

 言ってはならん二文字でバサバサと切られたり、

 無視されたり、肩を殴られたり、

 もろもろの嫌がらせをされた。

 いじめてきたグループの中で、仲間割れが起きたら、

 捨て犬のような鳴き声をあげながら近寄ってきた人もいた。

 向こうで仲直りしたら、またサヨナラするんだけど。

 

 憎くてしかたありませんでした。

 こういう話は、同窓会とかで再開して全てを許すというドラマがありそうですが、

 いまも夢で憎んでいるときだってあります。

 ぼくの人生に、二度と関わり合ってほしくない人です。

 たぶん、イジメにあった人は、みんなそうだと思っているのですが。

 すべてを許せた人は、ぼくよりずっと大人です。

 

 

 学校生活で、そんなことが続いていたらどうなっていただろう。

 考えただけで、気分が落ち込みます。

 もうすぐ、また学校がはじまる中で、

 きっと悩んでいる人もいるんじゃないかなぁって思って、

 今日も長々と書いてます。

 

 

 では、何が自分を救ってくれるんでしょうか。

 ぼくは、無宗教だし、よく分からないけど、

 「面白いものとか、好きなもの」なんじゃないかと思います。

 そして、「家族」なんじゃないかとも、思います。

 特に、今日は前者のほうをもうちょっと。

 

 

 「面白いものとか、好きなもの」

 本を読んだり、音楽を聞いたり、好きな芸能人のラジオをつけたり。

 自分の今いる場所からは、すごく遠いところからだけど、

 折れそうな心をすこしだけ繋いでくれるものがあると思います。

 

 心の支えは、他の誰にも壊せないと思います。

 どれだけ、周りが否定しても、

 今日も音楽は鳴り続けるし、ラジオからは笑い声が響く、

 しおりを開けば物語は動きだすし、

 あなたをすこしだけ繋いでくれる。

 

 

 今更な話をしますと、

 もはや紅白出場歌手にまで登りつめた星野源

 ぼく、大好きです。心の支えです。

 ちなみに、星野源も、子どもの頃にいじめにあっていたそうです。

 感情を失いそうになった時もあったとのこと。

 それが、今ではガッキーとキスしてハグをして、

 マイクをにぎれば、観客はメロメロです。

 

 彼を支えたのは、音楽や演劇でした。

 自分の好きなことを好きと言って、暗闇から飛び出した星野源は、

 絶望から這い上がったわけです。

 だからこそ、歌詞には弱い人の救いになるような言葉があって、

 ぼくも、他のたくさんの人の心も支えてくれるのです。

 

 

 ぼくは、別に、星野源になりたいわけじゃない。 

 ガッキーとハグやキスがしたいわけじゃない。

 (できることなら、したいけど)

 だけど、心の支えになれるような物になりたいと思っています。

 つまらない内容かもしれないけど、こうやって何かを書いています。

 明日が辛い人に、明日をすこし忘れる時間や、

 今がすごくしんどい人に、ちょっと楽しみな時間を、

 作りたいなぁと思っているのですが、難しいですね。

 

 

 話がそれましたが、今日何を言いたかったというと、

 もし、いま、とても暗い場所でひとりになっている人がいたら、

 自分の支えを、もっともっと作って、もっともっと好きになって、

 いつまでも大切にしたらいいんじゃないかと。

 辛い記憶は消えないです。たぶん、経験上。悔しいけれど。

 でも、面白いものも、好きになれるものも、

 たくさんある良い世界なので。

 探してみたら、人生の救世主はそこらじゅうにいると思います。

 

 

 最後に、ぼくのいちばん大好きな星野源の曲、

 「日常」の歌詞を置いておきます。

 

 

 

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 みんなが嫌うものが好きでも それでもいいのよ

    みんなが好きなものが好きでも それでもいいのよ

 共感はいらない

    一つだけ大好きなものがあれば それだけで

 日々は動き 君が生まれる

    暗い道でも 進む進む

 誰かそこで必ず聴いているさ

 君の笑い声を

 

 ------

 

 

 

 大好きなものを持ちましょう。

 誰が何を言ったって。

 

 

 

 ------

 

 

 夜を越えて 朝が生まれる

 暗い部屋にも 光る何か

 僕はそこでずっと歌っているさ

 でかい声を上げて

 へたな声を上げて

 

 

 ------

 

 

 ぼくも、どこか歌っています。

 だから、みなさん、日常を進みましょう。

 

 

 

youtu.be

選手宣誓の思い出。

 

 新年が明けて、たくさんの人が今年の目標を宣誓している。

 ぼくもしてみる。

 

 「誠実に物事に向かいあい、書くこと考えることを頑張ってみます」

 

 みます。よろしくおねがいします。

 

 宣誓という言葉を聞くと、思い出すのは、

 高校野球や運動会の開会式で行われる選手宣誓だ。

 ぼくみたいなクラスの端っこで、ボーっとうたた寝している帰宅部には、

 ほど遠い世界の話のようであるが、実は経験があるのである。

 もし、読んでいる人の中で、選手宣誓の大役を任された人がいたら、

 なんでも聞いてくれてかまわない。

 

 

 中学校まで、水泳をやっていた。それなりに、しんどい思いをしながら。

 週に6回は練習があったし。土日は朝練と夕練があった。

 コーチは怖かった。ビート板で頭を何度もたたかれた。

 夏休みには1週間の合宿があったし、新年は2日から練習があった。

 もう今日には泳ぎ初めが終わり、普通の毎日がはじまっていたのです。

 ただ、結果は残せなかった。

 成長期が遅かったという言い訳をしておこうかな。

 高校2年生で10㎝ぐらい伸びたけど、中学校は太っただけだったから。

 そんなぼくだから、県大会に行けるか行けないかで中学校の夏は終わる。

 近畿大会や、全国大会に行く先輩や、妹をスタンドでぼーっと見ていた。

 というか、うたた寝をしていた。

 1年生も、2年生も、うたた寝をしていた。

 泳ぐのはしんどいから嫌いだったし、練習も憂鬱だった。

 オリンピック選手を夢見たのは小学校の1年間だけだった。

 選手宣誓をやったのは、中学校3年生の時。

 市内の水泳大会だった。

 

 

 試合の前日。突然、顧問の先生から電話がかかってきた。

 

 「明日の試合の選手宣誓をやる人がいないから、お願いできるか」

 引退した優秀な先輩方が、部内で唯一の3年生であるぼくに残してくれたのは、

 昨年度優勝校の選手宣誓の機会であったのだ。

 最悪だった。

 たった一人しかいない3年生のぼくが、拒否したら、先生は手詰まり。

 2年生が宣誓するなら、他の中学校がするほうが大会が成立するといった話だった。

 それは、さすがに後輩がかわいそうだ。先輩にも失礼だ。

 電話を切ってから、死にそうな顔をしなが風呂に入ったのを覚えている。

 

 

 「わたしたちは、正々堂々、最後まで泳ぎ切ることを誓います」

 

 要は、言ってほしいのは、これだけだとのこと。

 前後には、なんか言わされる内容があったけど忘れた

 試合当日、開会式。

 それなりの人数の学校、父兄様が見守る中でぼくは選手宣誓をした。

 緊張した。人前で話すことは大嫌いだった。

 足は震えるし、汗はダラダラ。

 噛んだ。宣誓を噛んだ。

 そして、あたまが真っ白になって、何も言えなくなった。

 しばらく無言の時間がつづく。

 言葉が出てこない。どっかに消えてしまった。

 

 「一生懸命がんばります」

 最悪これだけ言えばよかったのに、それさえも出てこなかい。

 あれほど、プールに飛び込みたかった瞬間は選手生活でなかった。

 

 そこから先、ぼくが何を言ったかは全く覚えていない。

 覚えているのは、逃げるように自分の待機場所へもどっていった時に、

 周りの人達からクスクスと、馬鹿にされたような笑いをされたこと。

 後輩達にも、馬鹿にされたことぐらいだった。

 こんなことなら、いっそのこと、電話の時点で拒否すればよかった。

 プールに飛び込んで、大会をめちゃくちゃにしてやればよかった。

 やりたくもないのに、無理やり宣誓をさせられ、笑われ者になった。

 

 

 いまになっては、どうして、

 「ぼく以外の人が、全力でベストを尽くすことを誓います」

 と言ってやらなかったんだろうと思うばかりだ。

 苦い思い出。すごくすごく苦い思い出。

 

 

 宣誓は、本当に思っていることを語るべき。

 きっと、ぼくには「一生懸命」がそこになかったから、

 言うべき内容がどこかに消えて見つからなかったのだろうと思う。

 

 SNSには、いま、たくさんの宣誓があふれている。

 ぼくの宣誓も、そのひとつだ。

 

 冒頭に誓った言葉をもう一度。

 

 「誠実に物事に向かいあい、書くこと考えることを頑張ってみます」

 

 たくさんの宣誓が、すべて素晴らしい一年をつくりますように。

 ぼくも、がんばります。

 

 泳ぐのは苦手で嫌いだったけど、

 好きなことで宣誓した以上、

 逃げずにいこうと思います。

 

 来月には、今年の宣伝会議賞の結果も出ます。

 うまくいかないかもしれない。

 水泳でいうとこの、ベストは出ないし、決勝にものこれないかもしれない。

 それでも、しっかりと向き合うべきだと思ってます。

 

 

 

 去年よりもひどかったらどうしよう。

 あぁ、考えただけでも胃がむかむかする。

 

冷蔵庫のしんどいをどうしようか考える。

 

 しんどがりですが、

 いろいろしんどいことが増えた一年でした。

 嬉しがりですが、

 いろいろ嬉しいことも増えた一年でした。

 どっちもどっちだったので、

 今年も、いつもと変わらない一年でした。

 ただ、ここ数ヶ月はいろいろありすぎて、

 自転車乗りながら歌う鼻歌もバラードになって、

 頭の中で考えることも重くて。すこし、疲れた感じでした。

 

 

 一人暮らしの、あのお客様はどんな年末を過ごしているのだろう。

 いまは、そんなことが気になって仕方ありません。

 ホームヘルパーが来ない4日間をどう過ごすのだろう。

 

 抜け出すには、もっともっと、

 自分の「パワー」がいるなぁって思ったりしてて。

 自転車の充電が切れて、そっちに「パワー」を使ってしまって。

 

 どうしたらいいのだろうと電車でも考えて。

 家に帰ってスマホを充電して、こたつに入る。

 気づけば朝になる毎日でした。

 …いやぁ、しんどいって言ったら、笑われるかもしれないけど、

 しんどかったなぁ。

 しんどい、しんどい。

 ほんとは、嬉しいことより、しんどいことのほうが全然多かった。

 書いてて思った。思ってきた。

 

 しんどいが報われると、すこし嬉しいに変わるけど、今はとりあえず、

 冷蔵庫のなかに、賞味期限切れの牛乳や、いつのか分からないジャムとか、

 使い道の分からない飲み薬とかがいっぱいあるように、

 自分の中にたくさんのしんどいが溜まってる気がします。

 

 何か使い道を考える、年末年始にしようと思います。

 本年もありがとうございました。 

 

 今年は、友達のすすめからブログを始めたのですが、

 まだまだ難しくて、もっと面白いものを書けるようになりたいのですが、

 もっともっと勉強します。

 いつか、沢山の人に楽しんでもらえるようなことを書けたらと思いながら。

 朝から、ほろよいを飲みながら、大晦日でした。

コロンボと、古畑と、お母さんにはかなわない。

刑事コロンボ』が大好きだ。

 

ピーター・フォークの演じる「うちのカミさんがねぇ」が口癖のコロンボ。さえない風貌のおじさん刑事である彼が、完全犯罪を試みる犯人を、ひょうひょうと追い込んでいくドラマです。

 

 

コロンボが行く先々で起こる殺人事件に挑み、姿の見えない犯人をちょっとしたヒントをもとに特定していく姿がかっこよくてたまらないのです。

 

 

古畑任三郎』が大好きだ。

 

 

田村正和の演じる「えぇ~」とおでこに手をあてるポーズが有名なドラマです。すこし、いや、だいぶ変わり者の古畑任三郎が、これまた完全犯罪を試みる犯人を、ひょうひょうと追い込んでいくドラマで、普通の人間からしたら、何でもない現場の状況や容疑者の言葉を古畑は見逃さない。

 

 

ジェンガを崩すほど簡単に、犯人のアリバイを崩します。ちなみに、多少無理のある展開の話もありますが、古畑は視聴者に語りかけます。

 

 

「えぇ~。45分の間に事件を解決しないといけないので、すいません~」

 

 

どちらも、倒叙という手法をとっており、ドラマの冒頭で犯行のシーンが描かれるので視聴者は犯人を知っています。その犯人を、コロンボや古畑がどうやって追い詰めるかを見守る構成です。

 

 

古畑任三郎の脚本は三谷幸喜さんが書いています。

刑事コロンボに影響を受けているので、たくさんのオマージュがあります。それを探すのも、すごく楽しいです。

 

 

 

…と言うわけで、今日は「お母さんには、かなわない」って話を書こうと思います。

 

 

前置きがドラマ2つの説明になってしまってすいません。なにせ、ちょっと必要かなぁと思ったのと、あと、ぜひ観てもらいたい作品だからです。

 

 

お許しください。では、本題に。(前置きをしっかり話すのも古畑流です) 

 

 

 

ぼくは、高校時代にすこし不登校生徒でした。夏休みは、人より1週間長く休みました。始業式の日に、早退して家で「笑っていいとも!」をみてました。

 

 

明日は学校へ行こうと思いながら、月曜日のいいとも選手権をみていても、気づけば火曜日のいいとも選手権をみたり、漫画喫茶にいる生活。水曜日は学校でお昼休みをすごしても、木曜日は家で選手権。

 

 

友達もちゃんといて、昼休みに大富豪をするのも楽しかったし、先生も面白い人がいた。

 

 

強いて言うなら、部活も入ってないくせに勉強もついていけず、進学校だったから周りはよく勉強ができるし、なにかに一生懸命で何も取り柄が無い自分がすこし嫌だったような気がします。

 

両親は共働きだったので、日中は家にいませんでした。

 

 

だから、ひとりで過ごすお昼が大好きでした。ただ、先生は心配します。風邪で休むと言っても、生徒の自己申告だけじゃ信用してくれません。 うまくやり過ごせる日もあったけど、怪しい日には親の携帯に電話がかかるようになっていくのでした。

 

 

仕事から帰宅した親に、説教を食らう日々。理由を聞かれても、ない。なんとなく嫌なだけ。

 

 

毎日、母が帰ってきたらびくびくする夜でした。それでも、お昼にひとりでいたい。作ってもらった弁当を家でたべながら、テレビがみたい。今思うと、そんなに毎日が面白かったのかは疑問なのですが。

 

 

母がいつもぼくに聞くのは、学校になんで行かないかの理由だけだった。イジメなのか、勉強の悩みなのか、それ以外か。理由を教えてほしいと何度も言われた。ビンタもされた、それでも理由は分からないしか言えなかった。

 

 

 

ある日の夜、母にまた怒られました。

 

 

「あんた、今日も学校休んだやろ。正直に言いなさい」

 

 

突然、言われて思わずぼくは自白してしまいました。でも、うーんおかしい。今日は担任の先生もうまく誤魔化せたし、携帯には電話が入ってないはず。いわゆる完全犯罪を遂行したはずだぞ。

 

それでも、母は悟っていた。はてなマークが頭を埋め尽くし、悩んだ挙句、ぼくは母にどうして分かったのかを聞いた。

 

 

<「なんで、ぼくがサボったことがわかったんよ…」

 

 

母は半笑いで言いました。

 

 

「あんた、今日は家で弁当を食べたやろ。箸箱のお箸が一切よごれてないし、家の箸が使われてるやんか」

 

 

 

ただただ悔しかったのを覚えています。完全犯罪をちょっとしたほころびで見抜かれたのです。

 

コロンボや、古畑任三郎が、現場にのこされた小説にしおりが挟まっていたことから、自殺を疑うように。料理下手の容疑者の家に、ごちそうが作られていたことから、犯人と容疑者の関係性を見つけ出すように。

 

 

「お母さんには、かなわない」って、ぼくが心底思った瞬間でした。

 

 

 

ぼくは、それからしばらくして学校に通いはじめます。受験もして、志望校には行けなかったけど就職もしました。べつに、母に負けたから学校に通ったわけではありませんが。

 

 

ひとりでいた時間に、沢山の映画をみました。漫画やドラマも。インターネットで、CMやキャッチコピーをながめていました。かっこいい大人をたくさん見つけて、一方的に憧れました。いまのぼくを構成しているのは、そこで出会った沢山の「面白い」ものです。その世界にすこしでも近づきたいと強く思ったことが、ぼくが学校へ通った、理由かもしれません。

 

 

いまは、ぜんぜん遠いところにいるのですが…。まぁ、人生は、なかなかうまくいかないもので。いつも、夢でうなされています。だって夢の中では、楽しいことをしてるんです。

 

 

コロンボも、古畑も、犯人の手口を見抜きます。

 

 

自白させます。どうやって殺したかを、きれいに当ててしまいます。ただ、どんなに簡単に解決した事件でも、最後に犯人に聞くことがあります。

 

 

それは、犯行理由です。

 

 

どんな刑事も、名探偵も、犯行理由だけは見抜くのに手こずる。人の心の中だけは、やっぱり分かりえない世界なのかもしれません。自分の子どもの、心の中が分からなかった母はどんな気持ちだったのだろう。最近、ふっと考えたりしました。

 

 

そろそろ、しっかり自白しようかなって思っています。あやふやな犯行理由ですが。

 

 

 

 

 

 

うちのじいさんがうらやましい話。

 

 ぼくには祖父がふたりいまして。と言っても特殊な事情でもなんでもなくて。

 母の父である祖父と、父の父である祖父。

 となると、母の母である祖母と、父の母である祖母もいるわけです。

 今日は、そのうちの父の父である祖父の話です。

 

 80代になってから数年経っても、本当に元気なじいさん。

 おじいちゃんと呼ぶべきなのでしょうが、ぼくは父方の祖父を、

 じいさんと呼ぶのです。

 なぜ、じいちゃんと呼ばないのか考えてみました。

 たぶん、きっと、人生を本当に楽しんでいるから、キャラクターとして、

 「じいさん」というものになっているのだと思います。

 

 趣味はダンス。

 社交ダンスが大好き。

 ぼくが孫としてじいさんと関わって以来、

 いまもずっと土日はダンス。同じ年ぐらいの奥様方とダンスを踊ってます。

 バレンタインデーやクリスマスになると、いっぱいプレゼントを持って帰ってきて、

 「モテるんや。どうや!」って、ばあちゃんに自慢するのです。

 部屋にとじこもって、ダンスの自主練をしていたり、

 リビングで吉本新喜劇を観て、でっかい声で笑ったり。

 夜になったら、酒飲んでべろべろ。

 

 お風呂に行くときは、

 「ニューヨーク(入浴)へ行ってきます!」

 なんてことを言うわけです。

 あぁ、駄洒落に説明をつけないといけない恥ずかしさ、たまらない。

 ちなみに、うちのじいさんは無線も趣味でして、

 ばあちゃんのことを『エックスさん』と呼びます。

 無線用語でエックスは、女性を示す言葉だそうで、

 小さいころは混乱したのを覚えています。

 

 ほかにもいろんなことを楽しんでいるうちのじいさん。

 マジックも趣味のひとつ。

 60代でマジックをはじめて、いろんなホールでお披露目をしていて、

 母はアシスタントとして招集されたりしてました。

 鳩を持っとく手伝いをさせられたビデオは家族では鉄板です。

 なんとも言えない顔でステージにたつ母と、自信満々のじいさん。

 旦那の父の趣味に付き合わされる嫁。

 これが嫁ぐということみたいです。

 と、家族を巻き込んで、ちょっと迷惑でだいぶおもしろい趣味であるマジック。

 おもしろいって言っても、かなり馬鹿にした笑いかたをしていたのですが。

 先日、家に泊まりに行った時に一本とられたことがありました。

 

 仕事が終わって家へ行く。鍋があって、一緒にご飯を食べる。

 相変わらず陽気なじいさん。

 いつにもまして、陽気な気もする。

 

 

 「明日はなぁ、エックスさんのデイサービスでマジックを披露するんや」

 

 

 ばあちゃんの通っているデイサービスで、23日にクリスマスパーティがあるようで。

 趣味がマジックだと、ばあちゃんが言ったんでしょう。

 向こう側から、みなさんのために楽しいショーをお願いされたとのこと。

 なにをしようか、どんな衣装を着ようか、ワクワクしてるわけです。

 気になるのはやっぱりネタの内容。

 どんなやつをやるのか聞いたらですね、

 タンバリンをつかったマジックを披露するとのこと。

 昔からやっているやつで、鳩を出したりすることができるそうな。

 しかし、いまは鳩を家で飼っていない。どうするのか、何を出すのか尋ねてみた。

 

 

 「そんなもんなぁ。わしはタンバリンから何でも出せるんや」

 

 

 名言でした。

 ちょっとかっこいいと思ってしまいました。

 何でもは嘘だろうと思いながらも、出しそうな雰囲気を持っていました。

 そして何よりも、素敵やん!って凄く感じたのです。

 趣味でやっていたことで、たくさんの人のクリスマスを楽しいものにする。

 それを自分も本当にワクワクしながらやる。

 じいさん、かっこええやないか。

 

 次の日も、興味がわいたので泊まりに行きました。

 ばあちゃんに、タンバリンから何を出したか聞いたところ、

 「わすれた」と一言。

 認知症で、デイサービスに通う事になったうちのばあちゃんですが、

 この時だけはそれが原因じゃないと僕は思うのです。

 きっと、旦那のそういう姿をあんまり直視できない、

 照れみたいなものがあったのじゃないかと。そんな受け答えだったのです。

 

 

 大盛況だったと、嬉しそうに語りながら、

 じいさんはニューヨーク(入浴)へ旅立ちました。

 人を好きなことでしあわせにできる、しあわせ。

 ぼくも、そんなものが欲しくなっちゃいました。

 すこし、じいさんが羨ましかった話です。

 

 大好きなマギー司郎さんの言葉にこんなものがあります。

 

 

 早咲きの者もいれば、遅咲きの者もいる。

 もしかしたら、ずっと咲かないものだっているだろう。

 でも、それでもいいじゃない。

 皆が綺麗に咲くわけじゃない。

 中には咲かない花があっても、

 それもまた花なんだから。

 

 

 80代になっても、人間はあんなに楽しそうなら、

 ゆっくり生きるのも悪くないなと思うわけでした。