得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

もやし大好き。

 

もやしについて書きたい。

彼にはずいぶんと、長い間めんどうをみてもらっている。

一袋30円ほどで手に入り、味付けをこれでもかと吸収してくれるもやし。

 

何かを食べたいというより、その味をいただきたいという気持ちが強い。

だから、ポテトチップスやカップラーメンには、

たくさんの味付けの商品が出ていると思う。

 

もやしには、ずいぶんいろんな味付けをしてきた。

それは、別にもやしを食べたいからではない。

味付けそのものを食べたいからなのです。

もちろん、シャキシャキとした歯ごたえも好きだけど、

大切なのはいかに、邪魔をせずに味をくれるかなもんで。

 

そういう意味では、もやしはぼくを一度も裏切ってこない。

ぼくの調理の腕は、ぼくの舌を裏切ることはたくさんあるけど。

その失敗を、もやしはそのまま教えてくれる。

ひいき目なしに、うまくできたらおいしいし、

まずくできたら、食えたもんじゃない。

それを、たった30円で教えてくれるなんて、すばらしい。

 

自分の書いたものが、面白いかどうかを判断するものさしが、

ぼくには全くなかった。

ほぼ日の塾に通うまでは、たくさんに人に見てもらうものを

考えるような機会がなかった。

「いいね!」という簡単に押せてしまう反応を、

ただただ素直に喜んでいた時期もあったけど、

結局何にもなれずに凹むような日々を送っていた。

 

書いたものが、おもしろいのかどうか。

食べたものが、おいしいのかどうか。

第三者の目線で、作ったものを判断するのは難しい。

では、どうして、もやしを食べたときにぼくは、

その判断をしっかりできていたんだろう。

 

それはきっと、生きていくために食べているからだ。

おなかが空いてどうしようもない状況で、

じぶんのために作ったごはんがひどかった時、

素直な一般的な感想をじぶんにぶつけることができた。

あと、30円のもやしを使っているということが、

なにかと文句を言いやすい理由でもあるだろう。

 

お金をもらわずに、好きなことを書くということに、

ぼくはきっと甘えていた。

生きていくために書いていないし、

だれも読まなくても困らないから、

別に第三者の目線にならなくても大丈夫だと思っていた。

 

でも、いざ書く人として発信する舞台に上がった時、

ぼくの書いたものは、失敗した味付けを施していたことに気づかされた。

直さないといけないことばっかりで、もっとこうしてれば良かったと、

反省つづきの毎日だった。

 

いま気づいたことがある。

 

書くということは、もやしを調理することに似ている。

じぶんが言葉にしたことだけが、味になる。

それ以上でも、以下でもない。

ぼくのことを知っている人は、

「あぁ~なかむら君らしいね」とか「良い話だね」と言ってくれるけど、

それは神戸牛を食べたら文句が言えないのと似ている。

ぼくは、もちろんそんなに高い食材じゃないです。

調子に乗っているわけではなくて、たとえばの話です。

 

だからこそ、思ったけど、

もっと生きるために書いてみようと思う。

そうすれば、もやしを食べて、

「う~わ、最悪」と思えたように、

自分の書いたものを判断できるんじゃないだろうか。

 

ちなみに、ぼくは食べ物を残すのは嫌いだ。

いままで、どんなにまずいもやしも、

ゴミ箱にはいかずすべて胃袋に入れてきた。

だからこそ、失敗してしまった書いたものも、

それを全部受け入れようと思っている。

そうしないと、反省もできない。

 

もやしを料理して、生活をしていくように、

書くということをしていこうと思う。

 

もやし大好き。

書くのも大好き。

 

でも好きなだけじゃダメだとも、

今思っている。