得も損もない言葉たち。

日常をひとます、休まず。

あなたのクスッとをください。

いつも、ななめ上を向いて。

 

どんな理由で、仲良くなれたか。きっかけを辿ると、たいてい理由はしょうもない。

 

少年漫画のように、1年を超える大長編を終えた後に、仲間に加わるような、そんな人間関係をやっていたら人生で仲の良い人は数人しかいなくなる。

 

それでも、今日もどこかで誰かが、誰かと出会い、仲良くなっている。人と人の関係が生まれることは、終わりではなくスタートラインなのです。

 

だとしたら、そのきっかけに、そこまで大きな理由は必要ない。しょうもなければ、しょうもないほど、その膨らみようにワクワクできる気がしてきます。

 

 

前の店で、いちばん良くしてもらったお客さんがいた。団地の散らかった部屋に、独り暮らしをしているおじいさんだった。

そこに行った日の帰りは、スーツによくわからない汚れがたくさん付いたり、通帳を探すために2時間かかるような、そんな環境でその人は暮らしていた。

 

 

 

きっかけは、ピーナッツの4コマ漫画だ。

 

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初めてその人の家に行き、座る場所を作るために部屋を整理した時、一枚の新聞の切り抜きを見つけた。

 

それは、スヌーピーと仲間たちが、淡々と何かを話をしている短い漫画だった。英語で書かれたセリフを、読む間もなく、その人はぼくが拾った切り抜きを棚にしまった。

 

ぼくは、この切り抜きを見た瞬間に、「あぁ、仲良くなれそうやなぁ」と嬉しくなったのを今でも思い出す。

 

それは、スヌーピーに顔が似ていると昔言われていたからとか、そういう理由ではない。言われていたが、違う。目が細いだけやと思うが、そういうことじゃない。醸し出してる雰囲気がって言われると、それはそれでうれし…

 

はい、理由です。

 

 

なんだか、こうやって好きなものをひっそりと切り抜きしようと思う心の動きに、賛同してしまったのです。小さなことかもしれないけど、好きな4コマをみつけて、ひとりでハサミを持った。おじいさんとぼくは、波長がすごく近いところで動いている気がしました。

 

 

ぺらぺらのたった一枚の切り抜きから始まった関係性は、2年続く。その間に、おじいさんの住む場所は、2度変わりました。

 

 

彼は、パーキンソン病という病気だったのです。

 

大好きな俳優マイケル・J・フォックスが、その病気に苦しんでいたことから、ぼくがその病名を聞くのは初めてではありませんでした。そして、その病気を治すことは、まだ難しい世の中であることを知っていました。

 

 

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フォックスの著書に「いつも上を向いて」という自叙伝がありますが、そこまで前向きじゃなくとも、とりあえず、ななめ上ぐらいを向いて生きる。そんな力強さを、ぼくは感じていたんだと思います。

 

それは、施設の部屋がどんどんと、好きなもので散らかっていったからなのですが。工具やら、将棋盤やら、はたまた沢山の本やら。あの日、新聞の切り抜きを見つけた時と同じように、また何かが見つかるようなワクワクがありました。(施設なので、適度に整理はされていましたが)

 

 

 

今年の3月。親戚の人から突然連絡が来て、おじいさんは施設を移ることになりました。それは、別の県の山奥にある施設で、親族の人が近い場所にあるそうで。

 

どんどんと、自由な場所から離れていく生活を、彼はどう思っていたのでしょう。それでも、楽しみを見つけて、ななめ上ぐらいを向くのかなぁ。

 

 

「いままで、お世話になりました」

 

 

不思議なことに、最後にお礼の挨拶をした翌日、ぼくに転勤の辞令が出ました。

 

それが、おじいさんの施設の近くなら、ドラマティックなのだが、全然関係ない遠い場所。

 

 

「無理せず頑張ってくださいね」

 

 

彼のかけてくれた言葉に、仕事を辞めようか悩んでいる話は、相談をしたかった。でもできなかった。となりに上司が座っていたからだ。ぼくが仲良くなったおじいさんは、実はすごくお金持ちだったから。

 

 

会社に戻ると、どこからか聞こえてきた。

 

「お金を持ってる人を見つける嗅覚があるよね」

 

 

ふざけるなと。きっかけはすべてしょうもないんだ。一枚の切り抜きなんだ。しょうもないものにしてくれ。汚いものにしないでくれ。

 

そんなことを思いながら、無性に腹が立った日がありました。

 

 

今もどこかで、部屋を散らかしているのだろうか。ひとつだけ言いそびれていたのは、おじいさんの部屋よりも、ぼくの部屋の方が散らかっているんだよってことなのです。

 

ぼくはフォックスや、おじいさんのようにパーキンソン病の辛さを身をもって知らない。でも、おなじように、上を向いて。いや、ななめ上を向いてぐらいで、進んでいこうとそう思いながら、明日からの仕事に怯えつつ、今日を生きています。

 

 

通勤電車と似ていること。

 

通勤時間は1時間と30分。

 

乗り込むとき、一瞬の駆け引きがある。空いている席をどこまで追うか。

すこし遠いその席を求める。隣の扉から入ってきた誰かが座る。そうなると、もう最悪です。

 

行きどころを失ったお尻は、悲しくもそのまま。立ち位置も、なんだか不安定な、人と人の間になるのです。もしこれが、ある程度遠い時点で、座ることに見切りをつけていたら。

みなさんの体は、開かない扉にもたれることができるでしょう。

 

通勤電車の駆け引きは、まだ続く。つぎは、一駅ごとの話です。誰が降りるのかを、敏感に察知する。

 

スマホの画面を消した。本を閉じた。新聞を折りたたんだ。チラッと窓の外を見た。イヤホンの片耳を外し、アナウンスを聞いた。

 

上級コースになると、「ため息が漏れた」というのがあるのですが、これはけっこう難しい。常時漏れている、ぼくみたいな人もいるのです。

 

そんな人を見つけたら、何食わぬ顔でその付近に行けるかどうかルートを確認。無理そうなら、降りるかどうかのくだらない賭けを1人で楽しむのです。

 

 

微妙な観察眼、判断力だけがどんどん成長する通勤の時間は、果たしてぼくの役に立っているのか。そんな虚しさを感じながら、ひとりでプロ仕様の通勤を楽しんで生きてきたのですが、先日、「あっ、これ通勤やん!」と思うことがありました。

 

 

車の運転です。

 

 

新しい職場で車に乗ることになりました。さすがに、デビュー戦を上司の入院日にするわけにもいかないので、隣に父を乗せて練習です。

 

免許をとって四年ぶりに運転席に座りました。

 

 

「周りの情報を、常に観察しときや」

 

父のアドバイスを聞く。

たとえば、2台前にバスが走っていたら、バス停で止まるから、前の車はブレーキを踏む可能性がある。ブレーキを踏んでいないけど、速度がゆっくり落ちている車は、もしかした曲がりたいのかもしれない。歩行者信号が点滅しているので、あの信号はもう遠いし諦める。

 

こんな具合に、見えている情報から起こりうる可能性を想定すると、事故は減るそうです。

 

 

すごく、ぼくの朝と似ている。

 

スマホを閉じたから、席が空くかもしれない。

新聞を折りたたんだから、席が空くかもしれない。

ため息を漏らしたから、疲れているだけかもしれない。

 

 

こういう、情報から可能性をあぶり出し、即座に判断する。何気ない観察が、事故を減らしたり、お尻の安住の地を見つけ出したりするだと思いました。

 

 

ちなみに、ため息で、当たった時の快感はすごいです。人は、すこし遠いヒントで当てたほうが、嬉しいみたいです。うちの父も言ってたことが当たると、信号待ち、ドヤ顔で助手席から話しかけてきます。

 

何かを想定することは、すべて「楽しい」に繋がるのかもしれません。いまは、ギリギリの精神力で、慣れない公道を走っていますが、日が経つにつれ、周りの情報から探るのが楽しくなってくる予感がしました。

 

となると、すべては通勤電車に似ているのかもしれません。

 

 

 

「慣れてきたころに、事故は起こるからな」

 

 

だんだんと愉快になってきて、Bluetoothを繋ぎ、大好きな星野源の『日常』を流し、口ずさみはじめたぼくに、カーナビの音声のようなタイミングのいいアドバイスが、助手席から飛んできました。

 

 

 

 

 

実家から、事件の香りがしたので。

 

実家を拠点にGWを過ごしている。ふだん、こんなに長く実家にいることはない。家族は皆、予定があったりなかったりで、人の気配がしたりしなかったり。ぼくは、リビングでぼーっとしていることが多い。

 

家族の中では、いちばん、友だちが少ないということだろう。

 

しかし、そんな劣等感よりも、気になって仕方ないことがある。GWの数日間、ぼくはそのことについて、ドキドキが止まらないのだ。

 

 

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冷蔵庫を開けると、麦茶があった。

 

その時点で、あぁ、実家やなぁという感じなのだが、そこには、謎の『夏』という一文字が書かれている。

「夏といえば、麦茶!」なんてことなのかと思ったが、そんなことで書く理由になるものだろうか。

 

 

次の日、冷蔵庫を開けた。麦茶があった。

 

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そこには、『秀』と書かれていた。謎に、謎は深まるかと思いきや、ここでぼくは「あぁ、なるほど」と納得がいく。

 

つまり、これは名前の頭文字なのだ。

 

妹の名前、一文字目が『夏』。

父の名前、一文字目が『秀』。

 

 

なんだぁ、そんな簡単なことなのか。

ひらめきを喜んでいたのですが、これって家族以外には難しすぎる問題ですね。

 

だけどですね、話は終わらず、ぼくがドキドキしたのはここからなのである。

 

 

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大好きな古畑任三郎に、『偽善の報酬』という話があります。どんな事件かといいますと。

 

 

著名な脚本家の姉と、マネジメントをする妹が同居をしている。ふたりの仲は極端に悪く、ある日、姉は妹を殺害する。

 

そこへやってきた古畑任三郎。彼はすぐに犯人の目処を姉につけるが、悩ましいことは、凶器がどこにも見つからないことだった。

 

 

 

みたいなお話なのですが、切れ味自体は、そこまで高いものではないです。ただ、この回の古畑はうまく犯人にすり寄っていき、遊んでいるように見えて面白いです。

 

 

さて、なぜ古畑がこのふたりの姉妹仲が悪いと見抜いたのか。

 

 

それは、冷蔵庫を開けたときでした、

 

マヨネーズ、醤油、牛乳、お茶。何から何まで、ふたつずつ置かれていたのです。そして、それぞれに謎のアルファベットが1文字ずつ書かれている。

 

それは、姉妹のイニシャルだったのです。

家中のものを、すべて別々に使う。そこに、違和感を感じたわけです。

 

 

 

 

さて…。

 

 

我が家の麦茶にも、これと同じ現象が起きている。

 

 

 

どうしたものでしょう。「ドラマの見過ぎやで」とよく人に言うのですが、これは洒落にならない。見過ぎだとしても、いい。これは、やばい。

 

ひとりで勝手に、悩みだします。

 

そんなことはあり得ないと思いながらも、でも、ちょっと気になる。本気で悩んでるようにみえて、頭の中には古畑任三郎のテーマが流れている。

 

フィクションとノンフィクションを行ったり来たりしながら、ぼくは何度もおでこに手をやりました。

 

 

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誰もいない実家で、捜査をはじめます。

 

 

まずベランダ。

 

娘が「お父さんと一緒に洗濯をしないで!」なんて言うと聞くので、干されている洗濯物をみる。

うーむ。父のよれよれのTシャツと妹のパーカーが一緒に干されている。

 

 

次にお風呂場。

 

シャンプーはひとつ。それも中身がほとんどなくなりかけている。実家ならではの光景だ。「次に使う誰かが、補充してくれるやろ」の精神で、空っぽでも気にしないのだ。

つまり、これもまた一緒に使っている。

 

 

今度はお部屋。

 

父の部屋と、妹の部屋は向かい合わせにある。それぞれの部屋に入るような、そんな野暮なことはしないが、どちらも鍵は付いていない。なんだったら、ドアが半開きだ。

本当に見られたくなかったら、厳重にするだろう。

 

 

歯ブラシは、雑多におなじ場所にしまわれている。コップなんかも自由。

 

 

あと、倒れるだけで腹筋ワンダーコア。

 

妹が通販で買ってきたこのトレーニング器具は、先日、家の中心にどーんっと置かれたわけです。それを、父も妹も、おなじように使っている。筋トレを共有しているのだ。

 

 

 

うーーん。事件は難航します。

 

 

こうなったら、自白をしてもらうしかない。

 

古畑任三郎は時に、事件が起きる前に事件を解決します。「わたしにはお見通しです」なんて言わんばかりに、犯人に諦めを促すのです。

 

妹に聞くしかない。

 

 

「あの…ですね、なぜ、お茶に名前を書いているのでしょうか、父とは仲が悪い…?」

 

「部活やってた頃に、水筒に入れるために冷やしてたお茶を、お父さんがぜんぶ飲むから書いただけやで」

 

「うーーん、なるほど、今は?」

 

「関係なしで飲んでる」

 

 

ここで暗転。

 

 

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えぇー、今回の事件は、完全にわたしの思い違いでした。

お茶に書かれたイニシャル、父と娘の折り合いの悪さに関する通説。

 

 

 

そして何より、ぼくの「ドラマの見過ぎ」が引き起こしたありもしない事件だったのでしょう。

 

 

 

ちなみに、『偽善の報酬』で見つからない凶器は、妹さんがコツコツと貯めていた大量の小銭でした。犯人は袋にそれを詰めて、振り子の原理で頭をなぐった。

 

犯人が古畑の助手、今泉くんに銀行へ持って行かせる直前に、事件は解決されるのです。

 

 

 

「給料少ないから、ごはんおごって」

 

そういう妹に、小銭を貯める余裕もなさそうなので、凶器にするものも、どうやらないみたいでしたね。

 

 

エンディングの曲が流れてきました。

 

そろそろ一人暮らしの家へ、帰ることにします。

 

『偽善の報酬』というより、『架空の応酬』でございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金メッキなのか。

 

ゴールデンウイークって、純金なのかな。

金メッキのような気がするなぁ。

 

 

そんなことを毎年思う。

 

連休が続いているあいだを、「しあわせ」と思い、それが終わった後にすぐ「ふしあわせ」と思うのなら、ゴールデンというより、もはや金メッキに近い数日間だ。

 

それでも、それでもいいんですよね。たのしいことがあるのなら、いいんですよね。

 

わかっておるのですが、出勤日がチラつくのです。そして、今悩んでいる自分のことなんか、微塵も考えていないだろう上司の顔を思い出したとき、ゴールデンウイークは完全に錆びていくのです。

 

 

と、まぁみなさんのウキウキに水を差してみたかったのです。

 

 

かといって、じゃあ、今日ぼくが「最高の人生や!」と思えるスタートを切ったとして、それもいつか終わりがくることを、なんとなく分かってはいます。その、チラチラと見え隠れしている「終わり」を、どれだけ無視して過ごすかが人生の楽しみ方なのかもしれません。

もしくは、その「終わり」を認識したうえで、過ごすべきなのでしょうか。

 

 

 

実家で見つけた写真や、誰かが愛した犬との写真を眺めて、ふと思う。その瞬間、シャッターをきるとき、「終わり」をどれだけ想像しているのだろうか。

 

 

いつか、いまの「しあわせ」は消えてなくなる。それが死なのか、別れなのか、そこは分からないけど、時間は進み続けるから終わりがくる。

 

なのに、人はカメラを構える。笑顔を向ける。それってすごく力強い。かっこいいことだと思う。一生懸命に生きてるってことなんじゃないのか。もしや、こんなくだらない「終わり」について考えてるのは、自分だけじゃないのか。

 

 

そういうことでも、ないか。

 

 

父母と話をしていると、最近よく、そんな「終わり」がチラついた話をされる。思い出を作りたいと言われる。あと、インターネットを見ていても、糸井重里さんが頻繁に「死」について、考えていた。愛犬との別れを、スマートフォンごしに眺めさせていただいた。

 

みんな、それなりに「終わり」のことを認識はしている。でも、とりあえずそれは、一度、棚にしまってるんだ。

で、大切な時に思い出すんだ。それは、仕事が嫌とか、そんな安い瞬間には持ち出さない話なんだ。

 

 

ぼくが、「ゴールデンウイークは金メッキだ!」と嘆き、家で引きこもっている間も、今日、いろんな場所で人々が写真を撮ったことだろう。笑いあってたことだろう。

 

 

いまの幸せは、いつか、思い出に変わる。

そして、思い出には「終わり」がない。

 

 

そう思うと、ゴールデンウイークが金メッキだとか、「終わり」を認識しても楽しめるのが大人とか、そんなのどうでもいい気がしてきた。

 

思い出を作るために、生きていく。それでいい。そしたら、「終わり」を嘆く時間は、ちょっとでいい気がする。少なくとも、まだ明日が休みなのに、仕事を思って引きずる夜はなくなる気がする。

 

ただ、こんなことを口にしている限り、ぼくはまだ「終わり」を気にしている。

 

 

 

 

スーツを買いに行った日のこと。

 

土曜日、日曜日ともに快晴だった。

 

予定もなく、予定を入れる気力もなく。ただただ、実家のリビングに寝転がり、吉本新喜劇を観ていた。父親のTシャツを着て、誰のものか分からないスウェットをはいて、誰もいないのに、誰かの生活感がある場所で生活をしていた。

 

ひとつだけ、どうにか体を外へ連れ出さないといけない用事はあった。野暮用なんだけど、スーツを買いに行かないと、完全に着回しができない状態まで追い込まれていたのだ。

 

汗だくになって、自転車やバイクに座ったり、歩き回ったりするのでスーツの消耗がはげしい。摩耗した生地は、穴をあける。空いた穴からは、パンツが見える。てなもんで、この4年で、けっこうなお金をスーツに費やしている。

 

服を買いに行くのは、好きなほうではない。できれば、時間を短くしたい。おしゃれでありたい気持ちはあるけど、店員さんに一定の距離を保ちながら、声をかけられないようにお気に入りのシャツを探すのは、めっぽう疲れるのだ。

 

Tシャツ一枚を買うのにも、そんな感じなのに、スーツを買いに行くことなんて、めんどうの最上級だ。好きでもない仕事のために、高いお金を払う。Tシャツを選ぶのとは違い、店員さんに話を聞かないとピッタリのサイズも分からない。毎回、清算の時に誓うのは、つぎにここへ来るときは、好きな仕事をしていようってこと。もしくは、スーツのいらない仕事になっておこうってこと。

 

青い看板のお店に入るたびに、ぼくは前回から何も変わらず、お尻に穴をあけた理由でここへ来た自分を情けなく感じる。そして、何万円もするお代金を、クレジットカードで2回払いをお願いするのだ。そうなるのが嫌で、なかなかスーツを買いに行けないのである。

 

 

土曜日の夕方、ふと気づく。

「あっ、もうすぐ面接があるやん」

やばい、着ていくスーツが1着しかない。それも、けっこう消耗してきている。もし、当日、なにかの拍子でお尻に穴が開いたら、ぼくは会社を訪問してからずっと、パンツが見えていないかを気にして、人生をかけた面接に挑まないといけない。

 

スーツの仕立てに1週間かかるとして、面接があるのは再来週の火曜日。今日行っとかないと、どうしても間に合わないじゃないか。

 

というわけで、妹に借りた自転車で近くのスーツ屋さんへ走ることにした。ちなみに服装は、父親のTシャツに誰のものか分からないスウェット。コンビニでギリギリセーフのような格好で、とりあえずスーツを求めて走った。

 

【新生活!】というフレッシュな空気が漂う建物へ、一日中、ごろ寝をしていた服装のまま入店する。即座に、お兄さんが寄ってくる。その格好は、ビシッと決まった鮮やかな青色のスーツ。ネクタイは赤色に光っている。

 

どんなものを探しているか聞かれる。スーツが欲しいと答える。ほかに何か希望はあるかと聞かれる。お尻に穴が開きづらいものと答える。ツーパンツの商品を探してもらう。ウエストを測ってもらい、案内される。

 

見るからに接客がうまそうなお兄さんは、明るくぼくに話しかけてくれる。

 

「お仕事は何をされているんですか?」

「あっ、銀行員をやっています」

「へぇ~、大変って聞きますよねぇ」

 

続けざまに、銀行の話をたくさん聞いてくれる。その間も手は動き、スーツの試着を準備している。無駄な動きはひとつもない。やり手だなぁと思いながら、適当に返事をしていたら、会話の内容もしっかり把握していて、ちょっとしたことに食いついてくる。

 

うかうかしてられないと、こっちまで仕事を思い出す。営業と営業のぶつかり合いのような会話が始まる。あぁ、ぼくは早くスーツを決めて家に帰りたい。できることなら、無言でいたい。そんなことを思いながら、なんとか試着室までたどりつく。ここまで来れば、あとはこっちのもの。ズボンをはいて、カーテンを開けて、採寸をしてもらって、「じゃあこれで!」で終了だ。

 

靴を脱いで、カーテンを閉める。ようやく一息つく。

スウェットを脱いだ瞬間に、お兄さんの声が聞こえてくる。

 

 

「あの・・・ぼく〇〇の株を買ったんですけどね、あれ相場的にどうなんですかねぇ」

 

「・・・う~ん、トランプ氏の貿易摩擦懸念が影響してるんじゃないですかぁ」

 

 

カーテン一枚をはさんで、なぜかぼくは運用相談を受けていた。それも、下はパンツだ。いろんなことを聞かれる。そんなことよりも、ぼくはこのズボンが自分にフィットしているかを知りたい。なのに、続く質問。試着はとっくに済んでいるのに、カーテンを開けるのに結構な時間を使った。

 

試着室での営業を終えて、攻守がかわる。今度はぼくがお客さんになる。ズボンの丈を測ってもらうのだが、一瞬で終了する。そして、2着目の試着へうつり、カーテンを閉める。

 

 

「で、さっきの話なんですけどねぇ」

 

「えぇ」

 

お兄さんの金融知識がどんどん満たされていくなか、ぼくは鏡に映る自分を、ぼーっと眺めながらカーテンの向こうにアドバイスを送った。あぁ、いつもこんな顔して話をしているんだなぁと、ちょっと勉強になったりもした。

 

 

「さすが、銀行の営業さんですねぇ、頑張ってください!」

 

お会計を終えて、出口まで歩く途中に、お兄さんが言った。

 

 

・・・あれ、ぼく銀行の営業を頑張るためにスーツを買いに来たんとちゃうぞ。転職活動のためにスーツ買いに来たんやぞ。何がどうなって、こんな終わり方をしたんやろか。

 

気づけば、自転車にまたがって、お兄さんにすすめられたネクタイとYシャツのセットを持って、実家への道を走っていた。なんともいえない敗北感に浸りながら、かといって、そこまで悪い気もせず、これが上手い営業なのだろうなぁと、お兄さんを称えながら。

 

 

ただ一つだけ宣言したいことは、次にここへスーツを買いに来るとき、ぼくは「銀行員やってます」なんて答えは絶対にしないぞということだ。

 

 

面接が近い。東京へ向かう日が近づいている。それを言いたかっただけなのである。

黒い三角形。

 

数値のマイナスを示す▲。

 

そのうしろに、0がいくつも付いた投資信託の運用成績を持って現れる。そんな冴えない営業を迎え入れてくれる人たちの、笑顔の理由が分からなかった。

 

運用商品を買ってもらって、数ヶ月後にマーケットの大きな下落。見たくもない状態の数字を受け入れてなお、コーヒーやお昼ごはんを出してくれるの何故だろう。

 

 

「金持ちだから」

 

 

最初の頃、ひとつ思いついた理由です。かなり乱暴で、自分勝手な解釈だと、いまは思います。

 

激動のなかで、一生懸命に貯めたお金の価値は、総資産に比例して変わるもんではない。1円は1円。100万円は100万円。

 

「頑張ってきた」「苦しい思いに耐えた」そういうものが1円単位で並んでいるのが、通帳の残高じゃないだろうか。

 

 

 

酒に酔った父が、鳥貴族でぼくに語り出した。

 

「お前と年に一回だけ会うとしたら、お父さんたちが会える回数は、あと多くて25回ぐらいなんや」

 

続けて父が言う。

 

「同じ計算をすると、お父さんがばあちゃん、つまり、おかんと会えるのなんて10回もない」

 

目も合わせられず、ひたすらにチャンジャのお皿にのこった、大葉の葉脈を眺めた。BGMは、「ドドドドドドドド」とドラえもんが聴こえてくる。

 

 

家族とは、永遠だと思っていた節がある。小学校、中学校、高校、大学。いろんなものから卒業してきたが、家族を卒業したことはない。

 

よく考えたら、親と年齢が並ぶことはない。一緒に卒業のタイミングをむかえる同級生は、会おうと思えば、この先、50年以上も付き合える。年に一度あっても、50回会える。

 

親の倍だ。

 

 

毎日会えていた関係性だからこそ、年に一度しか会わないことを、考えたこともなかった。

会えるけど、会わないことは、ただの毎日の選択のように見えて、時間をどんどんと進める行為なのかもしれない。

 

 

 

ぼくは、マーケットを読み解く力がない。為替相場や、いまの政権が目指す先に、どんな国の成長が待ってるか、よく分かってない。

 

給料泥棒と言われたら、返す言葉がない。

お客さんに、どうしてくれんねん!と言われたら、頭を下げるしかない。

 

 

ただ、彼らがどうしてぼくに、暴言を投げず、カツカレーを出してくれるのだろう。

 

 

年に一度しか会えなくなった家族と、同じだけの愛情を、かわりにくれているんじゃないかとそう思えてきた。

 

 

子どもの代わりにはならないけど、でも、会える回数は同級生より、家族より、多かったりする。持ってくるのはチラシや、▲のついた運用報告なのに、会ってくれる。

 

 

そう思いたいなぁと、そう思った。

これもまた、自分勝手なのかもしれないけれど。

 

 

酔っぱらいのおじさんが、鳥貴族でもらした言葉は、おそらく本音だ。

 

自分の母と、あと何回会えるかを考えたら、つぎは自分の子どもと、あと何回会えるかを考えたんだと思うんです。

 

 

遠く離れている場所で、頑張っている友だちも家族も、あと何回会えるのかをもっと考えたい。逆算してどうとかじゃなくて、時間は進んでいること、1日1日の選択を大切にしたいってこと。

 

 

営業を受け入れてくれるお客様は、きっと、ずーっと続く関係性だと思っているから、やさしいんだなぁと。

逆に、その関係性が、一瞬にしてなくなるから、転勤になったときに、涙を流してくれたんだなぁと。

 

 

家族や、人との時間を大切にしないとなぁと思いながら、酔った父にご馳走になりました。

 

基本的に、何も言わずに頷き続けました。

 

思い出って。

 

すこし特殊な一人暮らしをしている。

 

25歳、独身。一軒家に住んでいる。祖父とふたりで暮らしていた家が、ひとりになって、それから何となく、生活が続いている。

 

おしゃれな部屋づくりなんて、していない。DIYで作った家具なんてない。カーテンは、ヘビースモーカーだった祖父の影響で、黄ばんでいる。仏壇のある部屋で寝ているから、見上げると、会ったこともない曽祖父の写真がかざってある。

 

家の中にあるものは、祖父が生きていた頃と何も変わらない。冷蔵庫の整理もしていないから、ぼくが買った覚えのない、冷凍のお肉が出てきたりする。

 

6年ぐらい経つ。

 

祖父との生活がのこるわが家に、彼がいないことが当たり前になっているなぁと、感じることがある。

 

いつも座っていた椅子に、捨てそびれている電子レンジが置いてあったり、育てていた植木が枯れていたり。

 

曽祖父のとなりに飾られた、祖父の写真を、風景として捉えている自分に、なんだか冷たい人間なのかなぁとか思ったりする。

 

 

先月の末は、祖父の七回忌でした。

 

家じゃなくて、お寺の一室を借りて行われたお経をあげてもらう時間に、やってきたのはいつものお坊さんじゃなかった。

息子さんなのだろう、50歳ぐらいの若めの男性がやってきて、ゆっくりと読みはじめる。

 

 

お客さんと接することについて、転勤の辞令が出てから、ひどく落ち込んでいたぼくは、

 

「どうせ、このお坊さんにとっては、収入の一部なんだよね」

 

とか罰当たりなことを思っていた。

 

 

一通り終わり、いわゆるお説教がはじまる。

 

先に言うと、ぼくはそのお説教で、ボロボロに泣きじゃくり、鼻水を流すことになる。

 

内容が感動的だったわけじゃない。

 

 

ただ、ぼくが罰当たりな目線でみていたその若いお坊さんは、祖父との思い出を語り始めたのです。

 

 

家のどこにいつも座っていたとか、病気になってからのことや、短気なところ、家族のことをいつも話していたこと。

 

そのどれもが、ぼくが忘れかけていた祖父を、あまりにもそのまま、あまりにも綺麗に表現してくれていて、目の前に突然に、あの頃が思い出されました。

 

 

お坊さんにとって、何百もいる人の1人なのに、6年も時が経っているのに、それでも、あんなに明確に家族の前で思い出を語れる。その姿を、泣いて泣いて、見つめていました。母から妹へ、妹からぼくへ、ハンカチがバトンパスでまわってきて、受け取る。

 

 

 

 

思い出って何だろう。

 

忘れたら思い出じゃないのだろうか。思い出って、忘れたら思い出せないのだろうか。なにかをきっかけに、思い出せたらそれでいいんだろうか。

 

みんなが少しずつ、覚えていたら、それでいいのかもしれない。それが家族じゃなくて、お坊さんでも。近所の人でもいいのかもしれない。

 

いつかぼくが、捨てられなかった電子レンジをゴミに出して、現れた祖父の椅子に腰かけて、ふと思い出すことも、思い出なんじゃないやろか。

 

 

実家に帰ると、玄関に祖父の写真が置いてある。毎日眺めている、風景になった遺影の写真とはちがい、従兄弟の子を抱いた祖父の写真だ。

 

そっか。祖父は生きていたし、ぼくと生活をしていんだった。そんなことを再認識して、涙ぐんでしまった週末の金曜日です。思い出って何か、すごく考えてしまう日になりました。

 

 

 

どうしよう。また、なりたい人が増えてしまった。

 

あのお坊さんのように、いつかのことを、飾らなく、美しく語れる人になりたいなぁ。

 

 

思い出って、忘れても消えない、思い出せる。

消滅したり、死んだり、決してしないんだろうね。

ふわふわと、まわりで浮いているんだろうなぁ。

 

 

 

 

 

スースーしていた。

 

朝、駅のトイレで便座にかけようとしたら、スーツの股が破れていた。仕事が憂鬱すぎて謎の腹痛と、股やぶけのダブルパンチ。憂鬱すぎる月曜日がはじまったわけです。

 

 

今日、新入生がやってきた。

 

初めて営業店研修へ向かったのが四年前。あの日、ぼくはハンカチを忘れた。

 

たくさんの初対面挨拶をすませて、緊張したぼくは、胸ポケットにしまったメガネ拭きで、汗だくの顔をぬぐったことを覚えている。

そうなると、メガネ拭きで顔を、ティッシュでメガネを拭くという、なんともよく分からない配置換えがポケットの道具たちの中で行われていた。

 

 

あの日のぼくのように、緊張した顔もちで、新入生が支店をうろちょろとしている。話しかけたらいいものの、ぼくも、この店に来てまだ2週間と経たない。

 

 

お昼ご飯を買ってきてない彼を、食事に連れていく使命を与えられた。「営業のことで、分からんことあったら、この人に聞きなぁ」と背中を押される。いやいや、ぼくは、いま転職活動をしている、辞める寸前の人間だぞと思いながら、そんなことは言えず、近所のそば屋で対面に座る。

 

 

いろんなことを聞かれました。上司との付き合い、残業・ノルマについて、最初の1年間について。どれも、ぼくが答えるに適していないことは分かっていながらも、返していく。

 

 

いま、本当に逃げ出したいし、ほかにやりたいことがあるんだけど、でもそんなことは言えない。目の前にいる、一生懸命に社会へ飛び込もうとしてる彼を、否定することだけは絶対にしたくなかった。

 

 

「営業はしんどいですか?」

 

ずばり、聞かれました。当然、ぼくは頷きました。何回も。

 

「でも」

 

接続詞をおいて、気づけば、前の店でたくさんのお客さんにしてもらったことを話しました。

 

お昼ごはんを食べきれないぐらい出してもらったこと、靴下を何足もプレゼントしてもらったこと、いろんな人生経験に触れてきたこと。

 

転職活動の面接をされているようでした。

 

 

新入生の彼が、この話を聞いてどう思ったかは分かりません。ただ、お客さんと触れた経験が、仕事を辞めると決めたぼくに、「でも」を言わせてくれたんだと思います。たった30分の会談で、それを伝えることは、あまりにも難しい使命でした。

 

 

自分が初めて営業店へ見学に行ったとき、名前も知らない先輩から「あいさつが元気でいいね」と肩をポンっと叩かれたことを覚えています。

 

メガネ拭きで汗をぬぐう謎の新入生に、声をかけてくれた先輩のように、ぼくは接することができてるのだろうか。そんなことを思いながら、出てきた蕎麦をすすりました。

 

 

「あの…スーツって何着ぐらい買って、やりくりしてますか?みなさん、ピシッとしているし」

 

最後に、仕事というか、すごく一般的な質問をされた。

 

「うーん、まぁ、スーツも消耗品だからなぁ」

 

そう言ったぼくのズボンの股は、確実に裂けていて、机の下をのぞくと、太ももの肌色が見えていて、スースーしていた。

 

帰りの電車、いま、ぼくの股はスースーしている。

 

 

実家の良さについて。

 

実家へ立ち寄る生活がつづいている。

 

何をしているかって、車の運転だ。新しい職場では、営業エリアが何十倍にも広がり、バイクを使わないと移動ができない。さらに、上司が同行するとなると、車を使わないといけない。

 

さすがに、赤の他人に迷惑をかけるわけにもいかないので、教習所の卒検いらいに、運転席に座った。

 

隣には、父が座る。彼は、ぼくがいま沈んでいることを知っている。仕事を探していることも知っている。

 

「周りをよくみて、危険を察知して」

 

免許合宿の教官より優しく、父は話す。車庫入れの練習もしているが、本当に車が停まっていたら、ガリガリになりそうなぐらい、ぼくはセンスがない。

 

それでも父は、なんどもぼくに感覚を教える。

 

「仕事について何かアドバイスをすることはできない。分からないから。でも、運転なら何度でも付き合うよ」

 

帰り道にボソッと聞こえた。あぁ、こんな仕事に悩みながら教わるよりも、もっと楽しいことのために、父に運転を習いたかったと、そんな後悔じみたものが心をよぎる。

 

つぎに、親になにかを教えてもらうときは、もっと前向きなことで、話せたらいいなぁと、そう思う。

 

 

実家に帰ると、弁当箱が置いてあった。一人になりたい気持ちを察してか、母が晩ごはんを詰めてくれていた。ぼくは、弁当箱と父を乗せて車で一人暮らしの家へ帰る。父はひとりで帰っていく。

 

就職してから3年と数日、いままでで、いちばん実家というものに、ありがたみを感じている。

 

 

実家のお風呂は、たいていシャンプーがきれている。ポンプを何度押しても、液体は出てこない。

 

「なんでやねんっ」といつも、シャワーの後にまぎれてつぶやく。そして、キャップを開け、なかに水を注ぎ、しゃばしゃばで頭を洗う。

 

ぼくが補充するでもない。つぎに使うのは自分じゃない。

そこで気づく。

 

 

誰かと住んでいるからこそ、シャンプーがきれて文句が言えるんだ。家族みんなが、自分以外の誰かが補充してくれるって思ってるから、実家のシャンプーはいつも空っぽなんだ。

 

 

仕事がつらくて、弱っているからかもしれない。

 

 

だけど、なんだか妙にそんな理由が、人間臭くて、家族臭くていいなぁと、うれしくなってしまった。

 

 

シャンプーを補充するのがめんどくさい、靴を並べるのがめんどくさい。妹とよく喧嘩した理由は、そんなくだらない「めんどくさい」だった気がする。親に怒られたのも「めんどくさい」が根源だ。

 

 

実家に学生はもういない。妹も就職して、全員が社会人だ。それでいても、なお、シャンプーを補充することを、「めんどくさい」と思ってる人たちがここにはいる。誰かがしてくれるって思いながら、お風呂をササッと出てしまう家族がいる。

 

 

実家の良さ、それは「めんどくさい」とか「損得」みたいな感情が、許せる範囲でたくさん入り乱れていることだと思う。

 

 

「今日は来ないの?」

 

 

連絡が来る。ぼくはそれを、実家の最寄駅を通り過ぎてるから返信する。

 

 

「もう、通り過ぎたし帰るわ」

 

 

ひとりになりたい時もある、都合のいいときだけ、頼らせてくれるのが、家族だと思ってる。頼ってほしいと思えるのが、家族だと思っている。

どうでもいいものから。

 

こんばんは。

 

最近、パソコンの前に座って、「さぁ!書くぞ!」とニヤニヤしながら、ここに来ることが減りました。いまも、スマホのアプリを使って、数日かけて、帰りの電車でこれを書いています。

 

全員がはじめましてで、道も分からない場所を、乗ったことのないバイクにまたがり、走り回る日々が続いています。営業成績を、はやくも求められ、存在意義についても言われてしまい、どうすりゃええねん…と思いながら、朝がすごく怖いです。

 

ぼくは、このままこうやって人生を消費するのかと思うと、ほんと、吐きそうになるんです。

 

 

最近、好きなものに触れるのが嫌になりました。たとえば、好きな音楽。大好きなアーティストの声を聴いても、なんだか前向きになれず、むしろ腹が立ってくるという現象に陥っています。

 

自分はこんなに苦しんでいるのに、なんでお前たちはこんなにも輝いているんだ。なんて、思ってしまうんです。

 

他にも、ご飯とか、テレビとか、何でもかんでも、好きなものを遠ざけたい衝動にかられます。

 

 

好きなものを遠ざけた結果、どうでもいいものに触れるようになりました。

 

どうでもいいものとは、好きでも嫌いでもないものです。興味がないジャンルの音楽や本、webサイト。腹が立たないからいいです。だって、どうでもいいから。

 

この人たちの言うこと、表現するものに同意していないから、前向きになれないことを気にしなくていいんです。

乱暴に、自分の時間を過ごすようになっているんですね。

 

 

いつも元気づけてもらっていたものを遠ざけてみる。人間というのは情けないもので、次の元気づけてくれる存在を求めます。

 

 

すると、どうでもいいものの中に、大好きになれそうなものが見つかるんです。

いまの自分が好きになれたもの、偶然出会った音楽や人に、すごく支えてもらえる。

 

カンフル剤のような一瞬の元気じゃなくて、前向きな力じゃなくて、生きる力をくれる。

 

ぼくはいま、思います。

 

好きの反対は、好きじゃない。だけではなく、

好きの反対は、知らない。でもあるんだと。

 

 

そう気づいたぼくのイヤホンは、この精神状況で初めて出会った音楽が流れています。

 

マイナスの時に出会う、もっとマイナスになる。そこで出会ったものを持って、いつかこの陥落していく地面から這いでて、明るい太陽をみたいです。

 

地下で出会ったものを、人はずーっと大切にするんだと、そう思います。