得も損もない言葉たち。

日常をひとます、休まず。

あなたのクスッとをください。

西村さんに教えてもらった夏。

 

昨年の夏、月に一度、東京へ行った。

 

コピーライター養成講座60周年を記念して、特別に開講された授業に出席するためだった。

講師を務めていらっしゃったのは、西村佳也さん。

西村さんは、ウールマークの「触ってごらん、ウールだよ。」や、サントリー山崎の「なにも足さない。なにも引かない。」を書かれた人でした。

 

特に、ぼくが西村さんのコピーで大好きなのは、日本生命の「不器用ですから」という言葉です。高倉健さんと言えばの、このフレーズは、実は生命保険のCMで使われた言葉だったのです。

 

保険の販売をしていたこともあり、この「不器用ですから」という人間の愛らしさが深く刺さりました。世の中には不器用な人たちがたくさんいる。お金の話をするのは、なんだか嫌らしいけど、でもしなくちゃいけない。

 

たくさんの不器用な人たちの、家族への想いを聞いて保険を販売できた。自分の仕事をすこしだけ肯定できたのは、西村さんのコピーのおかげでした。

 

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毎度のことになるのですが、周りの人たちはみんな、広告業界や言葉を扱う仕事をしている人たちばかりでした。まして、関西から夜行バスに乗って、それも銀行で働きながら通ってる人なんて、ぼくだけでした。

 

最初の自己紹介、名前を言った瞬間に西村さんは「あぁ…君が…」とボソッとつぶやきました。「はい…」と言いながら、いつものように仕事の話をすこし。

 

半年にかけて、月に一度行われたその講義。ぼくは朝に東京に着くので、いつも一番乗りで教室に座っていました。西村さんは、静かに入って来られ授業の準備をします。

 

「あの…不器用ですからは、どうやって生まれたんですか?」

 

緊張しながらも、先ほどの想いを伝えて聞きました。

 

「あれはね…高倉健さんは決まっていて、健さんの人柄から生まれた言葉なんだよ」

 

西村さんは、微笑みながら返してくれました。そこから、すこしだけ銀行の話をしたり、ぼくの営業エリアが、サントリーのトリスの絵を手がけた柳原良平さんの所縁ある場所だったという話をしたり。

 

 

講義は、課題が出ます。

 

西村さんからは、クライアントと一緒にブランドを作り上げていく人になってほしいと、教えを受けました。

ボディコピーもしっかりと隅々まで読んでもらい、点数とコメントが書かれた用紙が返却されます。時に、厳しいことも書かれていました。

 

最後の課題は、とある製薬会社の企業広告。

 

「これは、とても面白いので読みますね」

 

西村さんがいつもの静かな声で読み上げたのは、ぼくが書いたものでした。『なにも足さない。なにも引かない。』そんな風に、たんたんと。

 

返された用紙には、85点と「面白い!」そう書かれていました。100点には程遠い。だけど、それでも、嬉しかった。

 

 

講義が終わると、何人もの生徒が西村さんのもとへ行きました。中には、サインをもらってる人も。ぼくの悪いとこなのですが、輪に入れず、そーっと教室を出る。

 

挨拶しとけばよかった、なにか話したかった。そんなことを思っていると、お腹が痛くなってくる。便意までやってきて、宣伝会議のトイレでうなっていました。

 

 

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すっきりして、ビルを出る。東京も、もう来ることもないなぁと思いながら、駅まで歩く。

 

すると、目の前に西村さんがいました。便意のおかげで、帰りのタイミングが同じになったのです。これほどまでに、うんちに感謝したことはありません。

 

「ありがとうございました!もう…ほんと大切な時間になりました、でも、コピーライターに

なりたいけどなれなくて…」

 

「そうだよね、銀行で働いてるんだもんね。…だけど、書くことを続けてくださいね。きっと、君の今の経験が活きてくるから」

 

駅までの数分間、西村さんと話をした時間は、講義の時間よりも濃密でした。

 

 

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あれから一年ぐらい経つ。ぼくは、コピーライターになったわけじゃない。言葉を専門に扱う仕事についてもいません。

 

でも、あの時に教えてもらったこと、夜行バスに乗り込んで東京へ行った日々が、今のぼくの話すことや、考え方に影響を与えているのは確かです。

 

「いつかまた会いましょう」

 

西村さんはそう言ってくれました。

 

 

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最初の課題は自己紹介のキャッチコピー。いくつか提出したコピーの中で、二重丸がついていたものがありました。

 

「片手の感覚で、物の重さがほぼ分かります」というもので、お肉屋さんのバイト経験についてボディコピーを書いたものでした。

 

 

どうしても働きたい会社の書類選考、ぼくは履歴書の特技の欄にこのコピーを書きました。

 

面接をしてくれた方は、開始早々にこのことについて触れてくださいました。書類選考を通過した理由のひとつに、この特技が引っかかったようです。

 

「では、今日はここにお肉を用意してるので実演をしてもらって…」なんて冗談を言われて焦ったりしまして。

 

「あぁ、西村さんのおかげだ」なんて、心の中で思いながら受けたその会社で、来月からぼくは働きます。

 

 

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西村さん、ありがとうございました。覚えているか分かりませんが、またいつか、お会いしたいです。これからも、書き続けたいと思います。

 

 

ありがとう、家。

 

玄関を写真に撮りたい日があった。

 

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あふれかえった靴を、うれしく思った。整理整頓ができてないわけじゃない、この靴たちの持ち主は、みんながみんな違う人だ。

ぼくが一人暮らしをしている家に、10人以上の友人がやってきた夜があった。部活の何かがあった後だろう。騒がしい部屋の写真よりも、この玄関の状態がしあわせの全てだと思って、こっそりとスマホをかまえた。

 

祖父が亡くなってから、家の管理はぼくがしている。相続云々が終わるまでと言いながら、はや4年以上も一人でいる。

 

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実家は、この家から電車で30分ぐらいの距離にある。帰ろうと思えばいつでも帰れる。それでも、どうしてぼくはこの家にいたのか。大学生でお金も無く、バイトでもらったお肉で生き延びながら、光熱費を払って、通帳残高を50円にしながら、それでも生活をつづけ、今でもそうしているのには理由がある。

 

 

ここには、思い出がありすぎる。悩んだ時間が、多すぎる。

 

水泳の練習から帰ってきた夏休み、お昼の『大好き!五つ子』を楽しみにしていたこと。高校に通うのがしんどくてたまらない時、二階のベッドで、ずーっと漫画を読んだこと。花札を祖父から習って、母に呆れられながら遊んだこと。野球中継を眺めながら、一度好きと言って以来、毎週のように出てきたナスの田楽を食べたこと。それから、一人暮らしになって、たくさんの友人が家に来たこと。節分の日には豆をまき、実家サイズの鍋でパーティー、誰かの恋愛話を聞いたりなんかもした。

 

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就活がうまくいかなくて、一人で泣いたこと。

仕事で悩みが絶えなくて、家がぐちゃぐちゃになり、ゴキブリがいたこと。

大量の原稿用紙に、何度もキャッチコピーを書いて、そのまま寝落ちしたこと。

朝が来て、絶望を感じながら仕事へまた行ったこと。

自己PRとは何か、自分のことについて一人で考えるしんどさと向き合ったこと。

 

 

どうしても働きたい会社が見つかり、その応募用紙をニヤニヤしながら、いつもの席にすわって書いたこと。書いては消してを繰り返し、郵便局に行く前に仏壇に手をあわせたこと。

 

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奇跡が起きて、夢にまで見ていた仕事ができるようになり、ガッツポーズを枕にたたきつけたこと。

 

 

 

この家には、あまりにも色んなぼくの感情が入っている。喜びも、葛藤も詰まっている。

 

 

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この夏、ぼくは東京へ行く。

新しい職場は、残念だけど、この家からは通えない。

新幹線で毎朝始発に乗れば、可能かもしれないが、それは無茶だ。

 

 

この家を出ないといけない。

 

 

家は、人が住まなくなると荒れる。営業で個人宅をまわっていたから、その言葉がよく分かる。人が住んでいない家は、インターホンを押さなくても何となくわかる。温かみというか、生活の気配がしてこないのだ。ポストや、扉、窓のさん。じーっとしているものは、色褪せたり、ヒビが入ったりする。ぼろいというより、眠っている。

 

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友人もみな、「あの家はどうなるん?」と聞く。おめでとうよりも先に、そのことを聞く人もいた。

 

どうなるのか、それはぼくが決められることじゃない。相続は順番だ。銀行員生活で学んだ。固定資産税を払って、いつかぼくが定年退職をして戻ってくるまでのこしておけるならそうしたいが、40年以上先の話は、あまりにも未知でどうしようもない。人に貸すのか、それとも潰して現金化するのか。選択肢はいくつもある。

 

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できれば、ずっとこの家にいたい。でも、夢がある。やりたいことがある。

新しい葛藤が、この家の中に浮いている。いつもと同じパターンだ。

 

ただ・・・・、どうするべきか、いつも答えは決まっている。祖父がいたらこう言うに決まっている。

 

「お前の好きなようにやったらいい」

 

 

もう一度。

 

この夏、ぼくは東京へ行く。

ひとまず、ありがとう、家。

 

また帰ってくるさ。

拝啓、酸素カプセルより

 

こんにちは。いま、酸素カプセルの中から、この文章を書き始めています。人生初の酸素カプセル。閉所恐怖症の気が若干あるぼくですが、大丈夫みたいです。

 

どうして、こんなところにいるのか。

 

それは、この酸素カプセルが銀行員生活で、お金を融資した、最初で最後の設備だったからです。

 

気圧の変化を、耳が感じとる。鼻をつまみ、耳抜きをしないといけない。つづきは出てからにしなければ、このままでは耳がきびしい。

 

 

 

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突然の訪問

 

インターホンを鳴らすことには慣れている。

 

なんの躊躇いもなく、ボタンを押す。そして、明るい声で挨拶をする。すると、ドアは開き、家へ招き入れてもらえる。これを繰り返して、営業をやってきた。

 

でも、今日ぼくはインターホンを鳴らすのが怖かった。はじめて営業に出た頃のような感覚で、馴染みのお客さまの家を数ヶ月ぶりに尋ねた。

 

転勤になって以降の訪問だ。有給消化の身で、やってはいけないこととは知りながら、前の店のお客さんに退職することを報告しに行った。

 

ドアは開けてもらえるのか。どんな顔をされるのか。ビクビクしながらも、でも、ちゃんと報告がしたくて懐かしい町の駅に降りる。マンションをまわる。一軒家の門をあける。

 

 

 

 

「お久しぶりです、……その、前の担当の…」

 

歯切れの悪いあいさつ。なんと言えばいいのか分からない。ぼくにはいま、申し出る身分がない。

カメラ越しにうつる顔を見てか、「あぁ〜どうしたん?」とみんながドアが開く。

 

突然現れて、退職の話を報告に来たぼくを、お客さんは迎え入れてくれた。そして、変わらず、リビングの席に座る。

 

 

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痩せると思っていた

 

 

営業で担当エリアを与えられたとき、ぼくは痩せると思った。自転車で一件ずつ家をまわる。ご飯なんて食べる時間もなく、汗水垂らして仕事をする。だから、痩せるはずだと思った。

 

2年経ったいま、ぼくはすこし太った。理由は分かっている。仕事の時間に、お菓子やらご飯を食べてまわっていたからだ。お客さんの家をまわるごとに、食べ物が出てくる。お土産がある。

 

遠慮せずにごちそうさまをしていたぼくは、いくらか重くなった。

 

 

今日、ぼくの体はすこし重い。

 

胃袋の中には、夕張メロンモナ王、そして何杯ものコーヒーが入っている。お客さんの家をまわるたびに、体が重くなった。

 

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そして、腕には時計がある。

 

会社に行かなくなって、時間に追われなくなった結果、時計をつけていなかった。それを見たお父さんが、家の奥から箱を持ってくる。

 

コレクションの腕時計から、好きなものをくれると言われた。ぼくは、物の価値がわからない。ただ、秒針として円盤をまわる飛行機がかわいくて、プレゼントにもらった。ブランドなのかどうか、それは知らない。安物でもかまわない。

 

 

 

鞄のなかには、広島カープの選手のサイン色紙がある。お客さんの店によく来ている選手のものだ。大好きなチームだとよく話をしていたので、ぼくが来たときのためにもらってくれていたそうだ。

 

そして、生ビール。顔が真っ赤になる。営業をしていた頃には、ウーロン茶をもらっていた。本日はアルコールだ。顔が真っ赤になり、心配される。お酒に弱いことは、言ってなかったみたいだ。

 

 

「あんたに相談したいことがあるねんけど」

 

もう銀行員じゃないぼくに、運用の相談をされる。酔いながら、後任の子に連絡を送る。とんでもない先輩だと思いながらも、ネタを譲る。

 

もういっか。ぼくには身分がないんだから。

 

 

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身体中に酸素が行き渡る。足取りがすこし軽い。ぼくのお金で買えたわけじゃない。頼まれたことを懸命に聞いて、なんとか融資につなげた酸素カプセルだ。

 

地域のスポーツ少年たちを支えたいと言っていた先生の話を聞いて、取り組んだものだ。

 

先生は退職について「それで良かったんじゃないかな?」と、笑いながら言った。ニヤリとしながら、お金を払おうとしたら、財布はポケットにしまわされた。

 

 

尿意がやってくる。酸素カプセルを終えた後は、トイレに行きたくなるそうだ。そんなに飲んでないのに不思議でしかたない。理由は、まだ調べていない。

 

 

ただ一つ言えるのは、次の職場で誰かが酸素カプセルの話をしたとき、「あれって、終わったらおしっこに行きたくなるらしいですね!」と笑いながら話すことだろう。

 

そうやって人と人を、話題と話題を繋いでやってきた。いろんな人の人生や、話すことをたくさん吸収して、今のぼくがある、

 

 

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「食べてかえりなさい」「持ってかえりなさい」そんなことを、たくさん言われた1日だった。そして、どこに行っても言われたことは、「がんばりなさい」だった。

 

がんばりますと言う。がんばれると思う。胃袋にたくさんのコーヒー、腕には時計、部屋にはサインがある。そして、思い出もある。

 

 

ノルマを達成したことはほとんどない。営業成績も良いわけでもなかった。

 

 

間違った銀行員だったと思う、でも、間違ってなかったとも思う。それが、大げさだけど、いまのぼくの誇りだ。

 

 

坂田三吉をやめよう。

 

「普段、関西弁はどのような感じで話をしてるんですか?」

 

面接の場で質問をされた。どうやら、敬語の中に、関西弁がちょっとだけ見え隠れしているらしい。どういう時に、「〜やなぁ」が出現しているのか自分なりに考えてみた。

 

たぶん、じぶんの感じたことを振り返る瞬間に、ぼくは関西弁が出る。

 

「となりのおじさんの発言が、〇〇だったので、あぁええなぁと思いました」

みたいな感じで、じぶんをさらけ出して、分かってもらいたいとき、ほんの少し関西が顔を出す。

 

 

だけど、ぼくの関西弁は、そこまで関西弁ではないらしい。じぶんのことを「わて」なんて言わないし、相手のことを「われ」なんて言えない。「なんでやねん」は言うけど、「でんがな」も「まんがな」も使わない。

 

大阪の知人にも言われたが、ぼくの関西弁はコテコテの関西人とはすこし違うらしい。兵庫県で生きてきたからなのだろうか。最近、そのことを指摘されて、なぜかすごく嬉しかった。

 

 

そうか、ぼくは関西人じゃなくて、ええんや。

 

 

 

スポーツ漫画を読むのが大好きだ。地区予選を闘う主人公たちは、ライバルを倒し全国大会へ進む。すると、各地域の代表がぞくぞくと登場する。

 

各県の人柄のイメージを、そのまま体現したかのようなキャラクター達が現れる。

 

ドカベンに、坂田三吉という選手が出てくる。

 

大阪の通天閣高校のピッチャーである彼は、とにかく関西弁をこれでもかと使う。甲子園の優勝旗をマニアに売ろうと、商売人の根性をみせたりする。

 

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金にがめつい関西人。情にもあつい関西人。そんなイメージを体現したかのような存在だ。

 

 

 

昨年は、頻繁に東京へ行った。周りの人たちは、当然、ほとんどが関東の人だ。

 

言葉のイントネーションがちがうだろう。マクドナルドをマックと言うだろう。きっとジャイアンツのファンだろう。たくさんの憶測をもとに、なんとか自己形成を図ろうとしていた。

 

そういう場所の中で、何かひとつ爪あとをのこして帰ろうと、そう思って夜行バスに乗る。そんなもんだから、会話の中に、すこしだけ意図的に関西を匂わすことを混ぜたりした。

 

どことなく、自分は坂田三吉であることを意識していた。

 

じぶんだけが違う環境、全国大会に出てきた気分になっていた。そうなると、肩に力が入りまくる。じぶんで決めた制約に、なんとなくしんどさを感じたりした。

 

 

 

知人に、「コテコテの関西弁じゃない」と言われた時、うれしかった理由は分かっている。いっぱしの関西人という属性の外で、じぶんは形成されてるということに、気づかせてくれたからだろう。

 

職業や生まれた場所や、そんなところにすがりたくなるけれど、でもなんとなく違う。

 

 

ぼくの関西弁と、となりの人の関西弁は違う。おなじ人なんていないし、属性なんてない。

 

 

坂田三吉は大好きだ。人情にあつく、そして、通天閣打法なんていう奇想天外な技を披露する。ひょろっとした容姿で、すばらしいストレートを投げるし、大谷翔平よりずっと前から二刀流だ。だけど、じぶんじゃない。おなじ関西人だが、ちがう。ぼくじゃない。

 

 

そろそろ、東京へ行くらしい。

 

どうやら、坂田三吉をやめていいようだ。自然に出てくる関西弁や、ふとした瞬間に活きる銀行での経験を胸に、何ものでもない人として行こうと思う。

 

 

 

 

 

 

銀行員じゃなかったら。

 

「誰かに背中を押されないと進めない夢なら、諦めたほうがいいです」

 

これは、去年の春ごろに、とある人にぼくがかけられた言葉です。やさしい文面の中に紛れ込んだ、この言葉を読んで、その日から、「誰かのおかげで」とか「あの日のあれがあったから」とか、強く意識しすぎないようにやってきました。

 

 

それでも、いま思うと、有難い経験をくれた人や場所に感謝しかありません。

 

 

なぜ、いまこんな気持ちになっているかというと、この度、転職することになったからです。銀行員でいる時間はあと半月ほど。ようやく、スタートラインに立つことができました。

 

 

 

もし、銀行員じゃなかったら、いま自分はどこにいるのだろうか。そんなことを、最近よく考えています。なぜなら、この3年間、ぼくはこの肩書きに随分と救われてきたからです。

 

 

「どうして、銀行で勤めてるような人がここに?」

 

 

コピーライター養成講座や、ほぼ日の塾、そして転職活動の場においても、まず最初に聞かれるのはそれでした。

 

そしてぼくは、すこし得意そうに「いや…実は…」と、この道を選んだ話をする。目にとまるという意味で、ぼくはいいように銀行員を使いました。

 

 

今年の正月に、かなり凹んだことがあります。

 

「仕事変えたい…って嘆くことが趣味みたいになってきてる」

 

このままじゃ、ずっと、なにか一時的な物に喜んで、銀行員という肩書きの意外性で、みんなの反応を伺って、気づけば30歳になってるに違いない。休日にしてることが、ぜんぶ趣味なのだとしたら、ぼくの3年間は、ほとんどが「仕事を変えたい」だったのです。

 

 

なんて、情けないのだろうか。

 

毎年、初詣で祈ることが思いつかない自分が、なんだかすごく嫌になって、自分で自分の背中を無理やり押していこうと決めました。「ちょっとまってよ、いま仕事が忙しくてさ」とか言う自分を、無視して押しました。

 

 

アコヤガイって知ってますか?

真珠がとれる貝です。

 

真珠の作り方は、アコヤガイの中に石ころなんかを入れておくんです。そして、じっくりと時間をかけて、それはピカピカにかわる。何か、決定的な魔法がかかって、光りだすわけじゃないんです。

 

誰かにピンポイントで感謝を伝えるというよりも、この3年間そのものに、もっと感謝しなきゃいけないと、今はそう思っています。

 

なぜなら、すべての経験が、少しづつだけど繋がって、人生経験になっていると感じているからです。アコヤガイが真珠を作ってくれるように、ぼくの中に転がっていた石ころが、時間をかけて変わっていった。例えるなら、そういう話です。

 

 

どんな石ころだったのか。それはきっと、「悔しさ」とか「もどかしさ」とか、そういったドロドロの尖った石ころだったと思う。だからこそ、楽しそうにしてる人を見ると、お腹の中の石が弾けてチクチクと痛かった。「銀行員から、コピーライターを目指してるんだ!」と発言する瞬間は、その痛さを忘れたけど、じきにまた元どおり。

 

更新するように、なにかのセミナーに行ったり、講座に通うようになった。

 

 

 

でも、ある日以降、石ころの角が取れたんじゃないかと、そう思えるようになってきました。

 

 

それは、ほぼ日の塾に通った日です。

 

すべてを洗いざらいに書いて、「銀行員だから」ではなく、「銀行員だけど」という思いでエントリーシートを書きました。お金の話をするより、やっぱり、旅行・食べ物・趣味、いろんな話をぼくはしたい。

そんな感じのことを書いたと思います。

 

 

たくさんの同期の人たちと、並んで同じようにコンテンツを作る。周りの人たちは、みんなぼくが憧れていた業界で働いている。「やったるぞ」と意気込んで、書くこと、考えることに挑みました。

 

結果は、御察しの通り、悔しいものです。

 

 

でも、今回の「悔しい」は、自分を痛めつけるようなものではありませんでした。銀行員という肩書きを捨てて、塾生という同じ場所で学ばせてもらった。厳しい言葉をもらえた。

 

「銀行員だから」と強く言うのはやめようと、その時に思いました。

 

 

転職の面接では、やはり現職の話をたくさん聞かれました。以前のぼくなら、ここぞとばかりに「銀行員ならではっ」みたいな話を持ち出していたと思います。

 

 

でも、あの日のぼくは、肩の力がやけに抜けていて。出てきたのは、3年間でのお客様への感謝。たくさんの人生と関わりあってきたことの、すこしだけの誇り。あとは、しんどいところで、頑張ってやってきたという事実ぐらいでした。

 

 

名前の由来を面接官の人に聞かれたとき、ぼくはすんなりと答えることができました。それは、仕事でよく、お子様の名前について語り合ってたことがきっかけです。自分の名前について、よく「いい名前やな」と言ってもらったことを思い出しながら話をしました。

 

銀行員じゃなかったら、どうなってたか分からないけど、でも、銀行員でよかったと、今ならそう思えます。(退職願を書いた後だからこそ言えるけど)

 

 

 

自分の背中を自分で押したと、さっき書きましたが、結局ぼくは、たくさんのものに背中を押してもらってたのだと思います。

 

それは、このブログもそう。読んでくれる人がいる。何かコメントをしてくれる人がいる。そういった、毎日の時間の経過が、じんわりとぼくのお腹の中で石ころを光らせた。

 

 

次は、出来上がった真珠で、何かを作っていこうと思います。大切にしてきたこと、たどりつけた想い、繋がったたくさんの人たち。特定の誰かに「背中を押してもらった」と責任をなすりつけるわけじゃなく、時間の流れに感謝します。

 

取り急ぎ、ブログにこのことを書こうと思っていたのですが、うまく言葉にできず、時間がかかりました。

 

 

新しい仕事については、ちょうどいい言葉がありません。ふわふわしてるけど、たくさんの人たちをワクワクさせるものを考えていける場所だと思います。

 

 

これからも、ここで、色んなことを書いていこうと思います。なぜなら、また新しい石ころが生まれたとき、光らせてくれる時間の中に、ブログを書くことが含まれているからです。

 

長々と、ありがとうございました。

 

 

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『NHKのど自慢』を観てほしい。

 

カンカンカーン

カ カカカカ カーン

 

日曜の12時14分、テレビの前に座る。そして、時計の針が15分になった瞬間、いつもの鐘の音が響く。

 

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NHKのど自慢』がはじまるのだ。

 

あっと、この番組への愛語る前に、先に言っておきます。ちゃんと受信料は払ってます。というか、これを観るために払っているわけです。

 

みなさん、のど自慢は観ていますか?観ている人も、観ていない人も、たぶん知っている番組内容をすこしだけ。

 

 

オーディションを通過した素人が、歌を披露する。うまい人には、たくさん鐘が鳴り響く。いまいちな人には、ちょっとだけ鐘が鳴る。

 

 

シンプルなこのルールのもと、45分の放送時間で、何人もの素人さんたちが自慢の歌を披露するのだ。

 

ぼくはこの番組が、大好きでたまらない。いつ観ても面白く、いつ観ても笑えて、いつ観ても心温まる。なもんで、今日はぼくがちょっとした、『NHKのど自慢』の楽しみ方を書き留めておきます。

 

 

 

1. 鳴る人は、第一声で分かる。

 

世の中には、ほんとうに歌がうまい人が沢山いる。のど自慢に出てくるぐらいだから、当然みんな、自分の歌声に自信があるわけだが。その中でも、特別にうまい人がいて、歌い出しの時点で「あぁ、こりゃ鳴るな!」と思うような人が出てくるのだ。

 

 

2. 鳴るべく人が、鳴らない時がある。

 

たまに、鳴るはずの人が、鐘ふたつで終わることがある。どんなにアマチュアの耳でも、さっきの人よりもずっと上手くて魅力的なのに、評価されない時がある。そんな時は、メジャーリーグのファンのように、「おい!なんでだよ!」なんて言いながらブーイングをする。評価の基準は、鐘を鳴らす秋山さんすら知らないのだ。

 

のど自慢のルールで、鐘が鳴り響いた人にのみ、どこから来たのかと、名前を語ることができます。自分がうまいなぁと思った人でも、名前を知ることなく終わってしまう寂しさが、時に生まれるのです。

 

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3. 役場枠に耳を傾けよう。

 

のど自慢は、全国各地を毎週まわっている。先週は、山口県下関市。今週は、香川県高松市といったように、キャラバン隊のように巡っていく。いわゆる、町おこし的な役割も担っているのだ。そんな中、かなりの確率で、町役場の若手が登場する。若さをいかしたパワフルな歌を披露するが、たいていの場合、鐘はふたつ。でも、彼らの本当の仕事はここからなのである。

 

「この町の魅力はなんですか?」

司会の人の質問に、若手の職員は地域の魅力を汗を流しながら語る。その姿を見ていると、なんだか『町』っていいなぁと思えてくる。

 

 

 

4. だれが誘ったのか見極めよ。

 

出場者は、なにもソロで歌うだけではない。夫婦で手を取りあい、練習してきた歌を披露するふたり。近所のママ友が集まって、往年のアイドルの曲を歌って踊る。たいてい、鐘はふたつなのだけど。

そんな時、最初に注目する点があります。それは「いったい、だれが誘ったのか」です。

 

キャンディーズモー娘。になりきれていない人を探す。奥さんのノリに、ついていけてない旦那さんの目を見る。そこに「照れ」を垣間見た瞬間、本番までの誘われた側の苦悩に、とてつもない愛らしさを感じるのです。

 

 

 

5.  約40秒の攻防

 

のど自慢の出場者に与えられる時間は、限られています。たいてい、1人40秒。ほとんどの人が、サビに入る前に鐘の音を聞くことになります。AメロBメロがあって、サビに入っていく曲が多いので、盛り上がって盛り上がって、さぁ!というタイミングで「カンーコーン」と音楽は終わる。

 

先日、『トイレの神様』を歌っていた女性なんて「おばぁちゃんがこう言った」で時間が来ていました。「トイレには、それはそれは綺麗な女神さまがいるんやで」は、聞かせてもらうこなく終了です。歌い出しから、サビまで間に合うか、妙なハラハラ感がのど自慢にはあります。

 

 

 

6. ゲストの歌をうたう度胸

 

スタジオには、毎週ゲストの歌手がふたり出演します。ご本人の目の前で、その人の歌を披露する。そんな度胸のある素人さん枠が、必ず登場するのです。上手い、下手。そのへんは無視してもらって、カメラで抜かれるゲストの表情を見てください。

やっぱり、自分の曲を歌ってもらえる嬉しさがあるのでしょうか。にこやかな顔で、手拍子をしている姿は、いいもんです。上手い、下手は抜きにして。

 

…たいてい、結果は良かないんですが。

 

 

 

7. 家族に届けたい。

 

会場には、たくさんの観客が来ています。出場者は、それぞれ家族を呼ぶことができるのですが、応援団のように垂れ幕なんかを用意してる人たちもいます。中・高生の出場者が出たときは、両親の顔を見て、「あ、お父さん似やなぁ」とか思ったりできます。

 

ご家族の頬に、時に涙が流れているのは、歌をうたう理由が「育ててくれた家族への感謝」だったりするからです。出場者の数だけ、ドラマがある。ひとりひとりに、歌う理由があるのがのど自慢です。

 

 

 

8.  プロはプロ。

 

すべての出場者が終わると、のど自慢は一気にクライマックスへ向かいます。本日の優勝者と、特別賞を決めるまでの時間は、ゲストの特別ライブが始まります。

パフォーマンスがはじまった瞬間に、ぼくたちは、「あぁ、歌でご飯を食べてる人はちゃうなぁ」と感心してしまいます。それは、やっぱり、素人とプロの違いを如実に感じることができるこの番組ならではの魅力です。

 

ただね、毎週観てると思うんです。

上手すぎて物足りない。…完成されてるって物足りないんです。すべてが完璧で、音も外れなくって。

 

「そこはちょっと下手なステップを踏んでほしい…」なんてことを、求めてしまう自分になってしまいますよ。

 

 

 

 

…のど自慢とは

 

 

わが町に、のど自慢がやってくる。

 

 

それを知った、どこかの町のおばあちゃんは、昔着ていたドレスを探す。おじいちゃんは、娘に仕立ててもらったタキシードに蝶ネクタイをつける。友だちと一緒に、ダンスを練習する。応援団はアイドルのファンのように、自分の家族を応援するグッズを作る。町役場の若手は、周囲の期待を一身に背負う。

 

そして、

 

家族への想いを、歌にのせようとする。

長年愛した歌で、人生を、披露しようとする。

 

鐘の数ではない。何を想い、何を伝えるか。ぼくたち視聴者は、それをじーっと見守ることができる番組。それが『NHKのど自慢』です。

 

 

もし、自分に勇気があって、運が良くて、のど自慢に出場できたら。

考えてみてください。あなたは、何を歌声に乗せるか。誰のために歌うのか。なんだか、いいですよなぁ。ワクワクしたり、ドキドキしたり勝手にできる。

 

 

 

そろそろ、あなたの町に、のど自慢がやってくるかもしれません。 

 

 

いつも、ななめ上を向いて。

 

どんな理由で、仲良くなれたか。きっかけを辿ると、たいてい理由はしょうもない。

 

少年漫画のように、1年を超える大長編を終えた後に、仲間に加わるような、そんな人間関係をやっていたら人生で仲の良い人は数人しかいなくなる。

 

それでも、今日もどこかで誰かが、誰かと出会い、仲良くなっている。人と人の関係が生まれることは、終わりではなくスタートラインなのです。

 

だとしたら、そのきっかけに、そこまで大きな理由は必要ない。しょうもなければ、しょうもないほど、その膨らみようにワクワクできる気がしてきます。

 

 

前の店で、いちばん良くしてもらったお客さんがいた。団地の散らかった部屋に、独り暮らしをしているおじいさんだった。

そこに行った日の帰りは、スーツによくわからない汚れがたくさん付いたり、通帳を探すために2時間かかるような、そんな環境でその人は暮らしていた。

 

 

 

きっかけは、ピーナッツの4コマ漫画だ。

 

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初めてその人の家に行き、座る場所を作るために部屋を整理した時、一枚の新聞の切り抜きを見つけた。

 

それは、スヌーピーと仲間たちが、淡々と何かを話をしている短い漫画だった。英語で書かれたセリフを、読む間もなく、その人はぼくが拾った切り抜きを棚にしまった。

 

ぼくは、この切り抜きを見た瞬間に、「あぁ、仲良くなれそうやなぁ」と嬉しくなったのを今でも思い出す。

 

それは、スヌーピーに顔が似ていると昔言われていたからとか、そういう理由ではない。言われていたが、違う。目が細いだけやと思うが、そういうことじゃない。醸し出してる雰囲気がって言われると、それはそれでうれし…

 

はい、理由です。

 

 

なんだか、こうやって好きなものをひっそりと切り抜きしようと思う心の動きに、賛同してしまったのです。小さなことかもしれないけど、好きな4コマをみつけて、ひとりでハサミを持った。おじいさんとぼくは、波長がすごく近いところで動いている気がしました。

 

 

ぺらぺらのたった一枚の切り抜きから始まった関係性は、2年続く。その間に、おじいさんの住む場所は、2度変わりました。

 

 

彼は、パーキンソン病という病気だったのです。

 

大好きな俳優マイケル・J・フォックスが、その病気に苦しんでいたことから、ぼくがその病名を聞くのは初めてではありませんでした。そして、その病気を治すことは、まだ難しい世の中であることを知っていました。

 

 

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フォックスの著書に「いつも上を向いて」という自叙伝がありますが、そこまで前向きじゃなくとも、とりあえず、ななめ上ぐらいを向いて生きる。そんな力強さを、ぼくは感じていたんだと思います。

 

それは、施設の部屋がどんどんと、好きなもので散らかっていったからなのですが。工具やら、将棋盤やら、はたまた沢山の本やら。あの日、新聞の切り抜きを見つけた時と同じように、また何かが見つかるようなワクワクがありました。(施設なので、適度に整理はされていましたが)

 

 

 

今年の3月。親戚の人から突然連絡が来て、おじいさんは施設を移ることになりました。それは、別の県の山奥にある施設で、親族の人が近い場所にあるそうで。

 

どんどんと、自由な場所から離れていく生活を、彼はどう思っていたのでしょう。それでも、楽しみを見つけて、ななめ上ぐらいを向くのかなぁ。

 

 

「いままで、お世話になりました」

 

 

不思議なことに、最後にお礼の挨拶をした翌日、ぼくに転勤の辞令が出ました。

 

それが、おじいさんの施設の近くなら、ドラマティックなのだが、全然関係ない遠い場所。

 

 

「無理せず頑張ってくださいね」

 

 

彼のかけてくれた言葉に、仕事を辞めようか悩んでいる話は、相談をしたかった。でもできなかった。となりに上司が座っていたからだ。ぼくが仲良くなったおじいさんは、実はすごくお金持ちだったから。

 

 

会社に戻ると、どこからか聞こえてきた。

 

「お金を持ってる人を見つける嗅覚があるよね」

 

 

ふざけるなと。きっかけはすべてしょうもないんだ。一枚の切り抜きなんだ。しょうもないものにしてくれ。汚いものにしないでくれ。

 

そんなことを思いながら、無性に腹が立った日がありました。

 

 

今もどこかで、部屋を散らかしているのだろうか。ひとつだけ言いそびれていたのは、おじいさんの部屋よりも、ぼくの部屋の方が散らかっているんだよってことなのです。

 

ぼくはフォックスや、おじいさんのようにパーキンソン病の辛さを身をもって知らない。でも、おなじように、上を向いて。いや、ななめ上を向いてぐらいで、進んでいこうとそう思いながら、明日からの仕事に怯えつつ、今日を生きています。

 

 

通勤電車と似ていること。

 

通勤時間は1時間と30分。

 

乗り込むとき、一瞬の駆け引きがある。空いている席をどこまで追うか。

すこし遠いその席を求める。隣の扉から入ってきた誰かが座る。そうなると、もう最悪です。

 

行きどころを失ったお尻は、悲しくもそのまま。立ち位置も、なんだか不安定な、人と人の間になるのです。もしこれが、ある程度遠い時点で、座ることに見切りをつけていたら。

みなさんの体は、開かない扉にもたれることができるでしょう。

 

通勤電車の駆け引きは、まだ続く。つぎは、一駅ごとの話です。誰が降りるのかを、敏感に察知する。

 

スマホの画面を消した。本を閉じた。新聞を折りたたんだ。チラッと窓の外を見た。イヤホンの片耳を外し、アナウンスを聞いた。

 

上級コースになると、「ため息が漏れた」というのがあるのですが、これはけっこう難しい。常時漏れている、ぼくみたいな人もいるのです。

 

そんな人を見つけたら、何食わぬ顔でその付近に行けるかどうかルートを確認。無理そうなら、降りるかどうかのくだらない賭けを1人で楽しむのです。

 

 

微妙な観察眼、判断力だけがどんどん成長する通勤の時間は、果たしてぼくの役に立っているのか。そんな虚しさを感じながら、ひとりでプロ仕様の通勤を楽しんで生きてきたのですが、先日、「あっ、これ通勤やん!」と思うことがありました。

 

 

車の運転です。

 

 

新しい職場で車に乗ることになりました。さすがに、デビュー戦を上司の入院日にするわけにもいかないので、隣に父を乗せて練習です。

 

免許をとって四年ぶりに運転席に座りました。

 

 

「周りの情報を、常に観察しときや」

 

父のアドバイスを聞く。

たとえば、2台前にバスが走っていたら、バス停で止まるから、前の車はブレーキを踏む可能性がある。ブレーキを踏んでいないけど、速度がゆっくり落ちている車は、もしかした曲がりたいのかもしれない。歩行者信号が点滅しているので、あの信号はもう遠いし諦める。

 

こんな具合に、見えている情報から起こりうる可能性を想定すると、事故は減るそうです。

 

 

すごく、ぼくの朝と似ている。

 

スマホを閉じたから、席が空くかもしれない。

新聞を折りたたんだから、席が空くかもしれない。

ため息を漏らしたから、疲れているだけかもしれない。

 

 

こういう、情報から可能性をあぶり出し、即座に判断する。何気ない観察が、事故を減らしたり、お尻の安住の地を見つけ出したりするだと思いました。

 

 

ちなみに、ため息で、当たった時の快感はすごいです。人は、すこし遠いヒントで当てたほうが、嬉しいみたいです。うちの父も言ってたことが当たると、信号待ち、ドヤ顔で助手席から話しかけてきます。

 

何かを想定することは、すべて「楽しい」に繋がるのかもしれません。いまは、ギリギリの精神力で、慣れない公道を走っていますが、日が経つにつれ、周りの情報から探るのが楽しくなってくる予感がしました。

 

となると、すべては通勤電車に似ているのかもしれません。

 

 

 

「慣れてきたころに、事故は起こるからな」

 

 

だんだんと愉快になってきて、Bluetoothを繋ぎ、大好きな星野源の『日常』を流し、口ずさみはじめたぼくに、カーナビの音声のようなタイミングのいいアドバイスが、助手席から飛んできました。

 

 

 

 

 

実家から、事件の香りがしたので。

 

実家を拠点にGWを過ごしている。ふだん、こんなに長く実家にいることはない。家族は皆、予定があったりなかったりで、人の気配がしたりしなかったり。ぼくは、リビングでぼーっとしていることが多い。

 

家族の中では、いちばん、友だちが少ないということだろう。

 

しかし、そんな劣等感よりも、気になって仕方ないことがある。GWの数日間、ぼくはそのことについて、ドキドキが止まらないのだ。

 

 

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冷蔵庫を開けると、麦茶があった。

 

その時点で、あぁ、実家やなぁという感じなのだが、そこには、謎の『夏』という一文字が書かれている。

「夏といえば、麦茶!」なんてことなのかと思ったが、そんなことで書く理由になるものだろうか。

 

 

次の日、冷蔵庫を開けた。麦茶があった。

 

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そこには、『秀』と書かれていた。謎に、謎は深まるかと思いきや、ここでぼくは「あぁ、なるほど」と納得がいく。

 

つまり、これは名前の頭文字なのだ。

 

妹の名前、一文字目が『夏』。

父の名前、一文字目が『秀』。

 

 

なんだぁ、そんな簡単なことなのか。

ひらめきを喜んでいたのですが、これって家族以外には難しすぎる問題ですね。

 

だけどですね、話は終わらず、ぼくがドキドキしたのはここからなのである。

 

 

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大好きな古畑任三郎に、『偽善の報酬』という話があります。どんな事件かといいますと。

 

 

著名な脚本家の姉と、マネジメントをする妹が同居をしている。ふたりの仲は極端に悪く、ある日、姉は妹を殺害する。

 

そこへやってきた古畑任三郎。彼はすぐに犯人の目処を姉につけるが、悩ましいことは、凶器がどこにも見つからないことだった。

 

 

 

みたいなお話なのですが、切れ味自体は、そこまで高いものではないです。ただ、この回の古畑はうまく犯人にすり寄っていき、遊んでいるように見えて面白いです。

 

 

さて、なぜ古畑がこのふたりの姉妹仲が悪いと見抜いたのか。

 

 

それは、冷蔵庫を開けたときでした、

 

マヨネーズ、醤油、牛乳、お茶。何から何まで、ふたつずつ置かれていたのです。そして、それぞれに謎のアルファベットが1文字ずつ書かれている。

 

それは、姉妹のイニシャルだったのです。

家中のものを、すべて別々に使う。そこに、違和感を感じたわけです。

 

 

 

 

さて…。

 

 

我が家の麦茶にも、これと同じ現象が起きている。

 

 

 

どうしたものでしょう。「ドラマの見過ぎやで」とよく人に言うのですが、これは洒落にならない。見過ぎだとしても、いい。これは、やばい。

 

ひとりで勝手に、悩みだします。

 

そんなことはあり得ないと思いながらも、でも、ちょっと気になる。本気で悩んでるようにみえて、頭の中には古畑任三郎のテーマが流れている。

 

フィクションとノンフィクションを行ったり来たりしながら、ぼくは何度もおでこに手をやりました。

 

 

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誰もいない実家で、捜査をはじめます。

 

 

まずベランダ。

 

娘が「お父さんと一緒に洗濯をしないで!」なんて言うと聞くので、干されている洗濯物をみる。

うーむ。父のよれよれのTシャツと妹のパーカーが一緒に干されている。

 

 

次にお風呂場。

 

シャンプーはひとつ。それも中身がほとんどなくなりかけている。実家ならではの光景だ。「次に使う誰かが、補充してくれるやろ」の精神で、空っぽでも気にしないのだ。

つまり、これもまた一緒に使っている。

 

 

今度はお部屋。

 

父の部屋と、妹の部屋は向かい合わせにある。それぞれの部屋に入るような、そんな野暮なことはしないが、どちらも鍵は付いていない。なんだったら、ドアが半開きだ。

本当に見られたくなかったら、厳重にするだろう。

 

 

歯ブラシは、雑多におなじ場所にしまわれている。コップなんかも自由。

 

 

あと、倒れるだけで腹筋ワンダーコア。

 

妹が通販で買ってきたこのトレーニング器具は、先日、家の中心にどーんっと置かれたわけです。それを、父も妹も、おなじように使っている。筋トレを共有しているのだ。

 

 

 

うーーん。事件は難航します。

 

 

こうなったら、自白をしてもらうしかない。

 

古畑任三郎は時に、事件が起きる前に事件を解決します。「わたしにはお見通しです」なんて言わんばかりに、犯人に諦めを促すのです。

 

妹に聞くしかない。

 

 

「あの…ですね、なぜ、お茶に名前を書いているのでしょうか、父とは仲が悪い…?」

 

「部活やってた頃に、水筒に入れるために冷やしてたお茶を、お父さんがぜんぶ飲むから書いただけやで」

 

「うーーん、なるほど、今は?」

 

「関係なしで飲んでる」

 

 

ここで暗転。

 

 

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えぇー、今回の事件は、完全にわたしの思い違いでした。

お茶に書かれたイニシャル、父と娘の折り合いの悪さに関する通説。

 

 

 

そして何より、ぼくの「ドラマの見過ぎ」が引き起こしたありもしない事件だったのでしょう。

 

 

 

ちなみに、『偽善の報酬』で見つからない凶器は、妹さんがコツコツと貯めていた大量の小銭でした。犯人は袋にそれを詰めて、振り子の原理で頭をなぐった。

 

犯人が古畑の助手、今泉くんに銀行へ持って行かせる直前に、事件は解決されるのです。

 

 

 

「給料少ないから、ごはんおごって」

 

そういう妹に、小銭を貯める余裕もなさそうなので、凶器にするものも、どうやらないみたいでしたね。

 

 

エンディングの曲が流れてきました。

 

そろそろ一人暮らしの家へ、帰ることにします。

 

『偽善の報酬』というより、『架空の応酬』でございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金メッキなのか。

 

ゴールデンウイークって、純金なのかな。

金メッキのような気がするなぁ。

 

 

そんなことを毎年思う。

 

連休が続いているあいだを、「しあわせ」と思い、それが終わった後にすぐ「ふしあわせ」と思うのなら、ゴールデンというより、もはや金メッキに近い数日間だ。

 

それでも、それでもいいんですよね。たのしいことがあるのなら、いいんですよね。

 

わかっておるのですが、出勤日がチラつくのです。そして、今悩んでいる自分のことなんか、微塵も考えていないだろう上司の顔を思い出したとき、ゴールデンウイークは完全に錆びていくのです。

 

 

と、まぁみなさんのウキウキに水を差してみたかったのです。

 

 

かといって、じゃあ、今日ぼくが「最高の人生や!」と思えるスタートを切ったとして、それもいつか終わりがくることを、なんとなく分かってはいます。その、チラチラと見え隠れしている「終わり」を、どれだけ無視して過ごすかが人生の楽しみ方なのかもしれません。

もしくは、その「終わり」を認識したうえで、過ごすべきなのでしょうか。

 

 

 

実家で見つけた写真や、誰かが愛した犬との写真を眺めて、ふと思う。その瞬間、シャッターをきるとき、「終わり」をどれだけ想像しているのだろうか。

 

 

いつか、いまの「しあわせ」は消えてなくなる。それが死なのか、別れなのか、そこは分からないけど、時間は進み続けるから終わりがくる。

 

なのに、人はカメラを構える。笑顔を向ける。それってすごく力強い。かっこいいことだと思う。一生懸命に生きてるってことなんじゃないのか。もしや、こんなくだらない「終わり」について考えてるのは、自分だけじゃないのか。

 

 

そういうことでも、ないか。

 

 

父母と話をしていると、最近よく、そんな「終わり」がチラついた話をされる。思い出を作りたいと言われる。あと、インターネットを見ていても、糸井重里さんが頻繁に「死」について、考えていた。愛犬との別れを、スマートフォンごしに眺めさせていただいた。

 

みんな、それなりに「終わり」のことを認識はしている。でも、とりあえずそれは、一度、棚にしまってるんだ。

で、大切な時に思い出すんだ。それは、仕事が嫌とか、そんな安い瞬間には持ち出さない話なんだ。

 

 

ぼくが、「ゴールデンウイークは金メッキだ!」と嘆き、家で引きこもっている間も、今日、いろんな場所で人々が写真を撮ったことだろう。笑いあってたことだろう。

 

 

いまの幸せは、いつか、思い出に変わる。

そして、思い出には「終わり」がない。

 

 

そう思うと、ゴールデンウイークが金メッキだとか、「終わり」を認識しても楽しめるのが大人とか、そんなのどうでもいい気がしてきた。

 

思い出を作るために、生きていく。それでいい。そしたら、「終わり」を嘆く時間は、ちょっとでいい気がする。少なくとも、まだ明日が休みなのに、仕事を思って引きずる夜はなくなる気がする。

 

ただ、こんなことを口にしている限り、ぼくはまだ「終わり」を気にしている。