得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

あだ名って、ええもんやなぁ。

 

小学校と中学校は、おなじあだ名で呼ばれていて、

高校生になると、あだ名はなくなった。

大学生になると、また別のあだ名で呼ばれて、

会社に入ると、また、あだ名はなくなった。

会社では、呼び捨てをする上司はいない(現在のところ)。

 

 

高校の同級生だけが、ぼくのことを現状呼び捨てにする。

 

大学生の友達だけが、ぼくのことをその頃のあだ名で呼ぶ。

 

会社の人と、すこしだけ遠い友達が、

ぼくのことを〇〇くんと呼ぶ。

 

 

友だちと会って、

ひさしぶりに大学の話とかになると、誰かの名前が出てくる。

 

あだ名って、広辞苑をひいても出てこない言葉の並びだったりするから、

口が久しぶりにその言葉を発するから、頭がすごいまわる。

そういえば、こんなあだ名の人もいたなぁとか、

△△といえばこんな話があったよねぇとか。

 

ほつれたセーターの糸のように、するすると口がうごく、頭がまわる。

 

 

 

そういや、あだ名って言葉も久しぶりに使ってる気がする。

 

小学校の4年生ぐらいで、

たしか5時間目とかだったかなぁ。

給食食べて、昼休み遊んでからの授業。

学級会が開かれた日があった。

 

議題は、「あだ名」について。

 

先生がこの議題を挙げた理由は、

バカ松とか、アホ村とか、

そんな名前で呼ばれていた生徒が他のクラスにいたって話がきっかけだった。

 

 

どうして、あだ名で友達は呼び合うのか。

あだ名があれば、なにが良いのか。

どんなあだ名で呼ばれたら、みんな嬉しいのか。

 

ひとりひとりが手を挙げて、

思ったことを言っていた。

 

 

あだ名で呼ばれる幸せは、

さっきちょっとだけ書いたけど、

広辞苑ではひけない言葉が、自分を指しているということじゃないかと思う。

 

その人にとって、唯一の音の並びがぼくを示している。

好きだった女の子には、あだ名で呼ばれたら嬉しい。

下の名前で呼ばれるよりも、ぼくは嬉しかった。

 

 

授業のおわりに、先生が言った。

 

 

 今日の授業以降、それぞれが呼んでほしいあだ名を言いなさい。

 みんなは、これからそのあだ名で呼び合うこと。

 

 

ひとりひとりが立ち上がって、

ぼくの名前は〇〇〇〇です

呼んでほしいあだ名は、〇っちと、〇~〇~です。

と宣言をしていく。

 

 

なんともいえない昼下がりの時間だった。

 

クラスの人気者は、堂々といまのあだ名を言っていた。

あだ名のない子は、悩んで、下の名前を呼び捨てでと言った。

 

それぞれが、普段どんなことを考えていたのか、

なんとなく分かって、ぼくはすごく勉強になった。

 

 あぁ、こいつはこの呼ばれ方を好んでいたんだなぁ。

 あっ、嫌な呼び方をしてしまってたんやなぁ。

 

名前について、いちばん考えた授業だったと思う。

そのやり方が、正しいのかは別として。

 

 

ぼくの順番がまわってきた。

 

頭の中で、いろんなことを考える。

〇〇がいいな、でも△△とも呼ばれてるし、

う~ん、でもやっぱりたくさん呼ばれているやつにしようかな。

 

 

 〇〇って呼んでください。あと、〇ベエでもいいです。

 

 

 

勝負をかけた提案でした。

当時からぼくは、ズッコケ三人組にハマっていて、

主人公の1人である八谷良平のハチベエというあだ名にすごく憧れていたのです。

なんとなく「ベエ」というのが、

江戸時代の人のような風格があるし親近感もある。

ドラえもんの、「えもん」のところみたいな。

 

一度でいいから、そんなあだ名で呼ばれたい。

だったら今しかない。

 

そんなこんなで、突然現れた、〇ベエだったのです。

 

当然、教室はシーンとしたまま。

そのまま何も先生は言わず、授業は終わりました。

 

 

あれから、10年以上。

ぼくが〇ベエと呼ばれたことは一度もありません。

誰も、何も触れることなく、

もちろん広辞苑にのることもなく。

 

でも、当時から友達に呼ばれていたあだ名は、

いまも生きています。

 

道で、その言葉の並びを聞くと、もれなく振り返る。

それが女性の声なら、もうたまらないのだけど、

野太い男の声なんですよね。

 

 

でもまぁ、それはそれでいいんだけど。

普段は、名字でしか呼ばれないのに、

みんなに会うとあだ名に戻れる自分がいる。

 

それがすごく嬉しいのです。

 

 

あぁ~でもやっぱり~

 

女性にも呼ばれたいなぁ~

 

「社会人前夜だね」  ラジオのような、ひとりごと。

 

こんばんは。ただいま夜の7時30分。

日曜日の憂鬱さに、追い込まれながら今日も、

ラジオのように今思ったことを書いていきます。

 

就職して3年目。こうやって、毎週憂鬱な日曜日をすごしてきたなぁ。

いちばん憂鬱だった日曜日は、いつだったかなぁ。

 

きっと、「社会人前夜」だったろうなぁ。

 

 

ぼくが就職した2015年の4月1日は水曜日だったので、

3月31日の夜はもう絶望のような夜を過ごしていました。

 

 

ぼくは、行きたかった会社に就職できた人の気持ちは分からないけど、

それでも結構、憂鬱なんじゃないかなぁって思う。

やっぱり学生って楽しかったし。眠たい日々もはじまるし。

やっぱり新しいことは怖い。

 

 

 

どうしても、行きたい会社に入れなかった人もいると思う。

大人になりなさいと、両親に言われて、

就職先はたまたま内定が出た会社に行くことに。

憧れていた業界からはるかに遠い銀行という世界。

3月31日に辞表の書き方を検索したのを今でも覚えている。

 

 

どうでしょう。

みなさんは、いまどんな気分なんだろう。

ワクワクもあるし、ドキドキもある。

眠たさとの戦いがはじまるし、

理不尽がおそいかかってくる。

社会人前夜に、みなさんはどんな一日を過ごしたでしょう。

最後の一日の夜に、ぼくのブログを見てくれてありがとうございます。

 

 

ぼくは、いま、日曜日の憂鬱に耐えながらも、

すこしだけワクワクしています。

なんでだと思いますか?

 

目指す世界へ、全力で向かうことを決めたからです。

転職活動をしようと決めたからです。

 

なんで、こんなことを社会人前夜に発表するかっていうと、

なんだかんだで、社会人は何にでもなれると思ったから。

 

 

ちょっと話がそれるけど、

このあいだの仕事の話を。

 

現状が辛いし、はやく辞めたいとか沢山思うんだけど、

仕事は仕事でこれはこれで楽しい瞬間はある。

 

ぼくは、銀行で営業をしているから、

自分よりも60歳ぐらい人生の先輩に、

いろんなお話を教えてもらえる。

 

仕事のお話や、戦前のお話、

時には、恋のお話まで聞かせてくれる。

 

先日、88歳のおばあちゃんに、ぼくの夢を相談した。

定期預金をしてくれる人と、話をするのはよくあるが、

なんとまぁ2時間も話してしまった。

たくさんの人生経験をお聞きして、

ぼくの悩みや、夢を聞いてもらって。

 

「楽しいことを選びなさい。そのために一生懸命やりなさい。」

 

と笑顔で言ってもらいました。

おかしいですよね。お金を預ける銀行員が転職したいって相談する。

それに対して、誠心誠意の話をしてくれる。

 

 

最後にすいませんと、あやまったのですが、

 

「いいのいいの、2時間も話せて今日は本当に楽しかったわ、またおいでね」

 

サラッとご婦人は言いました。

 

 

お客様のことばがすごく心に響いたんですね。

それからの数日、ぼくはすごくワクワクした。

 

そうだ、たのしいことだけ考えて、

一生懸命やればええんや。

そしたら、いいことが起きるんだ。

理由はないけど、人生の大先輩がそう言ってるんなら、

やってみるしかないんやろう。

だって、あのお客さんすんごく人生楽しそうだもん。

大好きなジャズを聴いて、映画をみて、夜更かしをして、

こんなぼくにも色んな話をしてくれて。

 

 

社会人だから、〇〇できない。

社会人だから、〇〇しないといけない。

 

たしかに、一般的なルールは破ってはいけないけど、

 

社会人だから、夢を諦めてはいけない。

社会人だから、大人なフリをしないといけない。

社会人だから、好きなことを楽しめない。

 

そんなこと絶対ないんだろうな。

 

 

 

その日、帰り道の電車で、

ぼくは妙にうれしくて、窓際から必死に月を探して、

社会の脇役から、自分の人生の主役になれた気がした。

 

 

いま、こうやっている間にも、

社会人前夜のみなさんの時間は過ぎていく。

ぼくのブログを読んで時間を無駄にしてしまったらごめんなさい。

だけど、なんとなく、

すこしだけ気を楽にできたらと思って、いまキーボードを叩いています。

書いてます。贈っています。

 

 

広告の仕事がしたかった。

だけど、銀行に就職した。

だからこそ、たくさんの人の人生に触れた。

いろんなことを教わって、すんごく理不尽なことだらけやけど、

でも、心がしんどい日ばっかりだけど、晴れる日もある。

絶望なんてしない。

 

 

社会人だって、楽しめる。

好きなことができる。

何にだってなれる。

 

 

 

「やれるさ君なら」みたいな歌を聴きながら、

ダルい死にたいって思いながら通勤電車に乗ることもあるけど、

 

「辛い日もあるよね」みたいな歌を聴きながら、

でも今日は最高な日だったって思える帰り道がある。

 

 

 

2015年3月31日の自分の携帯のメモを見返した。

 

ダニエルパウター バッドディ

って書いてあった。

たぶんそのとき聴いていた曲を、なんとなく残したんだと思う。

 

youtu.be

 

ようは、

うまくいかない日もあるさ、

でも、ついてなかっただけど、

やっていこうよ、進んでいこう。

 

 

ってことをずっと言っている。

こんなにバッドバッドって言ってるのに元気がわいてくる。

勇気もわいてくる。

 

憂鬱をうすめてくれる。

むしろ楽しみが生まれてくる。

 

 

社会人前夜だね。

 

きっと楽しい日が、めぐってくる。

 

ぼくもこうやって書きながら自分に言い聞かせている。

 

自己満足じゃないよ、本当に思っている。

読んでくれた人が、ちょっとでも何かいい数分をすごしてくれたら本当にうれしい。

 

明日から、がんばるぞ。

ぼくの転職活動も、ちょっとだけ応援してくれたら、

それはすっごく嬉しいです。

 

ぼくも応援します。

なにか悩んだことがあれば言ってくれたら、

ここでぼくが何かを書きます。

 

 

明日がバッドデイかもしれないけれど、

いきなり洗礼をうけるかもしれないけれど、

そんな日もあるだろう。

 

ぼくみたいに、

素敵なご婦人と出会う日かもしれないし、

人生がかわる言葉に出会う日かもしれないよね。

 

 

ご拝読ありがとう。

 

あと数時間、たくさん色んなことを考えて、

今日思ったことは日記に書いておいたら、

それはすごく自分にとってかけがえのない記録になると思います。

 

 

やってみたらどうでしょう。

 

2017年4月2日 おわり

 

 

 

 

あぁ~

 

 

それでもやっぱり

 

明日が嫌だぁ~

 

日曜日おわるな~

 

 

 

おわり

やつの重みに気をつけましょうね。

 

 

金曜日のこと。

朝起きて、あぁようやく金曜だって思って、

そろそろ暖かくなってきて、

ハンカチじゃなくてハンドタオルをポケットに入れて、家を出た。

 

 

駅まで、ボーっとしながら歩く。

道沿いの桜は、なんとなく咲きそうな様子だけど、

「どうする?どうする?」って感じで、

最初に咲くつぼみを待っているような気がした。

 

 

とか、情緒的なことを考えている自分に、

どこか酔いしれていた。

 

気づけば駅について、電車がちょうど到着。

しかも、席があいている。

通勤電車で席があいていることなんて滅多にない。

ウキウキで座らせていただく。

さて、なにをしようかなぁ。

本を読むのもいいし、ダウンロードしたラジオ音源を聞くのもいい。

 

審議の結果、ラジオを選択して、両耳にイヤホンをつける。

スマホをとりだして・・・あれ・・・スマホ・・・。

ポケットから出てきたのは、財布と鍵と、あと

 

・・・・・・ハンドタオル。

 

 

あ、どうしよう。スマホを家に忘れてきた。

なんでだ。あんなに毎日朝の時間にアプリのログインボーナスを回収して、

いつものようにツイッターを開いて、

絶望のひとことをつぶやいているのに。

今日にかぎって、桜のつぼみに情緒的に思いをはせて、

スマホを持っていないことに気づかなかった。

 

 

どうしてこんなことが起きたんだろうなぁ。

もう一度、スーツのポケットにご挨拶まわりをする。

コートのポケットふたつ、

ジャケットのポケットはみっつ、

ズボンのポケットはよっつ。

 

計10個のポケットには、財布と鍵とハンドタオル。

と、なんかよく分からない補強のためのズボンの布きれひとつ。

 

せっかく席に座れたのに、ごそごそごそごそ。

横のおじさんは寝ているからよかった。

 

 

いろいろ考え、

この情報化社会にスマホを家に忘れるという大失態をした理由を決定しておいた。

 

いつも家を出るときは、

コートのポケットに財布。

ズボンのポケット、右に鍵、左にスマホ

ハンカチは内ポケット。

 

 

その日は、ハンカチは内ポケットに。

スマホがいつも収まる、左ポケットにはハンドタオル。

 

ポケットにしまったハンドタオルは、

ちょうどいい重さでスマホのふりして鎮座していた。

 

だから、きっとぼくは、

あぁスマホも持ってるな。

この重さはそうだし、ポケットの膨らんでいる数も一緒だし。

って思ったんだろうね。

 

 

 

・・・桜のつぼみに想いを馳せていたことは、絶対関係ないはず。

・・・自分に酔いしれてたからスマホを触ろうとしなかったからじゃないはず。

 

 

みなさんも、季節の変わり目はスマホを家に忘れないよう、お気を付け下さいね。

 

 

 

ラジオのように、ひとりごと。

 

ラジオが大好きで、何が好きって、

ダラダラと話をしている中で、なんか面白いことが起きたり、

じんわりするようなことが出てきたりするから好き。

 

ブログを書くときは、何か面白いと思ったことがあって、

そんでもってなにか形にしたいと思って、

オチを見つけて完成させるという運びになるんです。

 

だから、なにかオチが思いつかないときは、

まったく書くことがない。

面白いなぁって思うことは、たくさんあるんだけど、

文にできないぐらいザックリしたもので。

イセエビまるかじりぐらい大味なものなのです。

そんなことをしたことないですが。

 

今日は、本当は何のオチも思いついていない。

どんなことを書くかも決めずに、こうやって今キーボードを叩いています。

 

あぁ、何書こうかなぁ。

どうしましょう。

今日は、なにしてたかなぁ。

 

ラジオってこんな感じじゃありません?

なにがあったかなぁ、どんなニュースがあったやろうか、

そんなことを話しながら、フラフラとさまよいながら星に辿りつく感じ。

 

 

今日は、いや、今日も仕事だったなぁ。

いつも通り朝起きて、ひとりでウダウダ言いながらスーツに着替えて、

ネクタイを装着して、ぎりぎりまで粘って家を出る。

そして、駅に向かう途中まで、新聞をひらいて電車で読むために折り目をつける。

 

あ、そうだ。

今日は新聞をひらくことができたんだ。

春がちょっと顔を出したから、

ぼくはポケットから手を出して、

信号待ちで新聞の折り目をつくった。

昨日までは、新聞がビラビラとなびいて、もう途中であきらめてしまってたんだ。

 

新聞がなびかなくなったら、ちょっとだけ春

なのかもしれないなぁ。

 

 

で、仕事をすませて、家に帰る。

新聞をひらいて、仕事をして、家に帰ったわけです。

ちなみにお昼は、ココスでハンバーグを食べました。

 

ドリンクバーがついてたんで、

カルピスソーダを注いで和風ハンバーグをほおばる。

机の向こうに家族連れがいて、

女の子がこっちをじーっとみてきたので、

ものすごく美味しそうにカルピスソーダを飲み干してやりました。。

 

「うまそうやろぉ、おかあさんにおねだりするんやで」

 

と、大人の遊びをしたんだけど、

女の子はじーっと見つめてくるから、

またドリンクバーへ注ぎに行って見せびらかす。

 

「どうや、飲み放題やねんぞ」

 

 

しばらくしたら、

女の子の机にでっかいパフェが運ばれてきたんです。

そしたら、その子はこっちを見ながら、

美味しそうなアイスをほおばったわけですね。

 

めちゃくちゃうらやましかったなぁ。

パフェ食べたかったなぁ。

 

 

たまにやってしまうんですよねぇ。

ソフトクリームを買って、小さい子どもの前で、

これでもかと美味しそうに食べる遊び。

おねだりを誘発する悪い大人です。

 

ぼくが子どもの時に、周りが食べているものがすごく美味しそうに見えたのは、

きっと同じような悪い遊びをしてる大人がいたからだと思うなぁ。

 

一度、妹が母親にかき氷をねだって買ってもらえなくて泣いていたら、

あとで突然かき氷を買ってくれた大人がいたけど、

あれはきっと、申し訳なさからの行動なんじゃないかな。

 

かき氷を美味しそうに食べてごめんねって気持ちで、

買ってくれたんやないかなと。

 

ちがうかな。いやそういうことにしておこう。

 

 

今日気づいたことは、

なんだろうかなぁ。

 

新聞がなびかなくなったら、ちょっとだけ春。

 

ってことと、

 

パフェは、子どもがいちばん美味しそうに食べる気がする。

 

ってことかなぁ。

 

3月28日 おわり

 

雉はどうすれば、撃たれないのよ。【ことわ・ざ】

 

犬、猿、と来たらどうでしょうか。



どうでしょうか。



……雉ですよね。

犬・猿・雉というより、犬・猿・キジなんだよなぁ、

って思うんですけどどうでしょう。



雉って字を書くことって人生においてほとんどないですもんね。

じゃあ、猿って字はいつ書く機会があるんかいねって言われても、

そうだなぁ…ないなぁ…ってなります。



 

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よくありますよね、「雉も鳴かずば撃たれまい」。

ぼくみたいな、お調子者はよくやってしまうんです。

言わなくてもいいことを、話がうまく運んでいるときにこぼしてしまう。

いい流れで肩を揺らしていたのに、たった一言で空気は固まる。


まぁ、調子良く物事が進んでいる時点で、鳴いているのかもしれないのですが、

だいたい僕たちの生活で使われる「雉も鳴かずば」はこれですよね。

 

 

あとは、何だろう。

 

SNSとかで、突然、社会を批判するようなことを言ったりすると、

思いもよらないところで炎上。

「あ~あ、雉も鳴かずば撃たれまい」やのになぁ。

ってのもありますね。

 

 

前者と後者の違いって、

「鳴きたい」かどうかなんだろうなぁ。

ぼくなんかは、無意識にやらかしてしまうのです。

上司と同じ年齢のタレントを、「おじさん」って言ってしまうんです。

生物の授業で「反射」を習ったけど、一瞬で言葉がかえってくるんですよ。

 

 

「同い年やねんけどもね」

そうなったら、もうあれです。

下手なフォローをしても意味が無いので、黙るのです。

 

 

昨日、ヨドバシカメラに立ち寄りました。

友だちを待っている時間に、スマホケース売り場をうろちょろしてました。

1000円ぐらいのものから、10000円もするものまで。

BMWスマホケースや、フェラーリスマホケースもある。

 

高級品になると、ガラスのケースに入って鍵をかけられている。

名前をつけるなら、スマホケースのケース。

 

で、比較的安価な商品は、そのまま、ぶらさがっている。

コンビニの飴ちゃん売り場みたいな感じですよね。

どんな触り心地なのか、自分の手に対して大きくないだろうか。

たくさんの人が、サンプルを触ってお買い物をしている。

 

そこに、『極』という商品があった。

大きなポップが出ていて、

どこか極かというと、「薄さ」と「丈夫さ」なのである。

他の商品よりも、そのネーミングと宣伝の大きさで、

売り場は目立っており、ぼくも引き付けられて思わす触る。

 

 

「どんなけ、薄いんだろうか。

 どんなけ、丈夫なんだろうか。

 極なんて名前を付けるなんて、相当なもんだぞ」

 

こう思うわけです。

 

 

で、期待しながらサンプルに手を伸ばしたわけすが。

なんとまぁ、すべてがバキバキに割れているのです。

様々なバリエーションの極が、もれなくバキバキです。

これは最悪。丈夫だったとしても最悪。

割った人が、握力がゴリラと同じぐらいなのかもしれないけれど。

 

「薄くて、丈夫です!」

 

ぐらいだったら、きっとこんなことになってなかっただろうな。

 

「薄くて、丈夫を極めました!」

 

と、言ってしまったから、こんな悲劇が起きたんじゃなかろうか。

よ~し、それだけ言うなら試してやるよって気持ちを起こしてしまったと思われる。

 

でも難しい。ある程度、攻めないと人は見向きもしてくれない。

買ってもらうためには、ネーミングで勝負しないといけなかったのだろうな。

 

 

あ~あ。

 

 

「雉も鳴かずば撃たれまい」に。

 

 

ぼくの頭に、ことわざがよぎった。

そうか、こんな時に使うんだきっと。

 

熊が鳴いたらみんなが逃げるけど、

雉が鳴いたら弾丸が飛んでくる。

 

動物園で鳴いたら観衆が喜ぶけど、

森で鳴いたら銃口を向けられる。

 

鳴くことはすごく難しい。

 

どこで鳴くか、

どうやって鳴くか、

難しいなぁほんとってヨドバシカメラで思ったわけです。

 

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喋りのプロの人でも、失言することもあるんだろうな。

鳴かないでいいことを、鳴いてしまうんだろうなぁ。

 

 

まさに、「猿も木から落ちる」だな。

 

 

あっ、猿って字も、使うね。


25年目のサプライズ【ショートショート】

 

宇宙人ご一行は、ずっとその男を見てきた。

男が、少年だったころからずっとである。

今までに、たくさんの人間を見てきたが、これほど長く見てきたことはないようだ。

どれぐらい長いというと、男が32歳になるので、

だいたい25年程は見てきた。

 

 

男は、宇宙人を見ていなかった。

というより、見ることができなかった。

ただ、彼らがこの世に存在するということだけは信じていた。

周りの人間が、男の発言をどれだけ馬鹿にしたって、信じることをやめなかった。

たくさんの本を読み、平日の夜に時たま流れる、

一般的に『うさんくさい』と呼ばれる番組を録画し擦り切れるまで見た。

そして、時おり空を見上げては、

空にうかぶ謎の物体を探すことに人生を注いだ。

 

 

彼らは、男のことが興味深かった。

とにかく、自分たちの存在を否定する人間が多いなか、

男だけが、ロマンを感じてくれている。

それも、25年間ずっとである。

 

小学生は、自由研究をU.F.O.の図鑑を作成。

中学生は、天体望遠鏡をのぞき、星を観察。

高校生は、青春を放ったらかし、宇宙の研究に。

大学生は、もう一度、宇宙人の存在を肯定するための調査に全力を投じた。

卒業後は、NASAでの仕事を熱望していたが、願い叶わず、地元の役所で土地の調査を担当した。

やりたいこととは全く違う仕事をしていたが、それでもなお、

家に帰ると、宇宙のこと、そして宇宙人のことについての勉強を続けた。

そして、宇宙人と出会うことを夢見て25年目。

職場で出会った女性と結婚し、子どもを授かった。

 

 

「あの子も、とうとう結婚して、子どもが生まれたぞ」

 

「こんなにめでたいことは、ほかにないよ」

 

「ほんとうだ。しかし25年もあっという間だなぁ」

 

宇宙人たちの間で、いつも自分たちの存在を信じつづけてくれた男に、

何かプレゼントを贈ろうと会議が行われた。

文明の存在を示すような道具を贈ろうという案も出たが、

そういったことは、彼らの星では犯罪に値する行為であった。

 

悩みに悩んだ結果、ひとつの贈り物がきまった。

それは、『ロマン』である。

存在するのかもしれない。出会えるのかもしれない。

そんな希望が、男をつねに前へ前へと進ませてきた。

我々が存在するかもしれないというロマンこそが、

彼のエネルギーとなっていると宇宙人たちは定義した。

 

サプライズの方法も決まった。

彼が撮った写真に、こっそりと写り込むという手法だ。

シャッターを押した時には気づかれず、

男の趣味であるフィルムカメラの現像が仕上がった瞬間、

そこには宇宙人の存在をかすかに示す『ロマン』が現れる。

突然に現れた未確認飛行物体 U.F.O. に男は喜び、

より強いエネルギーになるに違いない。

 

 

そしてとうとう、宇宙人が起こす小さなサプライズは実行された。

男がシャッターをおろした瞬間に、

写真の真ん中を、未確認飛行物体が横切る。

男は気づかない。それぐらい早いスピードで前をよこぎった。

 

 

数日後、フィルムカメラの現像が完成した。

宇宙人たちは、男を今まで一番楽しそうに観察した。

男がどんな反応を示すのだろうか。

発狂して飛び跳ねるんじゃないだろうか。

写真を宝物にしてくれるんじゃないだろうか。

もしかしたら涙を浮かべるかもしれない、だって25年も信じてきたんだから。

 

 

男は、写真を眺めた。

にこにこしながら写真を順番に眺めていった。

フィルムカメラのいちばん楽しみな時間だ。

出来上がりを順番に眺めていく。

 

そして、手が止まった。

 

男の顔がゆがむ。

 

 

「なんだこれ。ワケの分からん影が入っちゃってるよ・・・最悪だ」

 

 

男の手に握られていた写真は、

娘がはじめて自分で立ち上がった瞬間の写真であった。

一度しかない、たった一度しかこない、

はじめてのあんよの写真だ。

そして、その真ん中には、

まぎれもなく宇宙人たちの仕掛けた、

「よく分からない物体」が前を横切っていたのである。

 

 

 

その日、

25年間追い続けた『ロマン』でさえも、

子を想う親の愛にはかなわないことを、

宇宙人たちは人類から学んだのであった。

そして、サプライズは慎重に行うべきことも、

しっかりと自分たちの星へ持って帰ったのである。

にんげんらしさを、使いこなす。

 

お仕事をさぼるとき。

中で仕事をしているときは、トイレに入る。

いつも通り、便座にてしばらくボーっとする。

 

たぶん、一日に相当な量、ぼくはトイレに行く。

ブルーレット置くだけを、いちばん仕事をさせているのは、きっとぼくだ。

 

頭がこんがらがったら、トイレに行って手を洗うし、

ちょっとイラッとしたら、洗面台で顔を洗う。

 

とにかく嫌なことがあったら、

トイレでぜんぶ水に流してあげる。(あっ・・・ちょっとうまい)

 

仕事にもどったら、堂々としている。

 

 

「どうも、お腹の調子がゆるゆるで・・・」

 

 

うんちってすごいですよ。

うんちの話になると、

みんなすこしだけ対応がゆるくなる。(あっ・・・これも)

 

 

にんげんをすこしだけ、

ゆるくする言葉ってあると思う。

ぼくは、それはすこしお下品だけど、

うんちだと思っている。

 

絶対にみんながするもので、

生理的な現象だから仕方ないもの。

汚いようで、

みんながすこしだけ笑えるちょうどいいとこに、

うんちってあると思うんです。

 

うんこ、じゃだめですよ。

うんちと、うんこの違いは、

かわいらしさがあるかどうか。

 

「どうも、下痢が続いていて」

「どうも、お腹の調子がゆるゆるで」

は全然違って。

 

きっと前者は、うんこ。後者は、うんち。

 

トイレをうまく使う術は、

いかに「うんち」でやりくりするか。

 

あ、もう一個、ぼくは人をゆるくする言葉を知っている。

そうそう。たぶん、今日みんなが一度はしているだろうもので。

 

うんちじゃないですよ。

ぷぅってやつです。おならです。

 

「あぁ、こんなに偉そうに言っている人も、家でおならしてるんやろな」

 

そう思えたら、変にかしこまらずに、

相手の言っていることをすんなりと受け入れることができる気がします。

 


びっしりと書き込まれた新聞記事を読んでいてもそう。

すごく難しいことや、偉そうなことを誰かに言われてもそう。

すごく自己嫌悪に陥らなくてもいい。

 


所詮、おならをする人間の言ってることよ。

ぷぅーってしてるのよ。

 

そんな風に思ってしまったら、

つまらない感情は、吹き飛ばしてしまえる気がします。(おならだけに・・・)

 

おならと、うんち。

2つの、人や気持ちをゆるくする言葉を使ってやってくださいね。

 

 

お下品なんじゃなくて、にんげんらしいと思ってください。

 

 

政治家だって、

アイドルだって、

気難しい上司だって、

 

みんなみんな、

おならもするし、

うんちもするさ。



にんげんらしさを、

使いこなすとは、

こういうことじゃないかと思っています。


はなげ も、

もしかしたら、そうなのかもしれない。


鼻毛じゃなくて。はなげ。


死んでも、いい名前でありたいな。

 

 色々わけがあって、じいちゃんが住んでいた家に住んでいる。

 なんだかんだで、ひとりで暮らすことがしあわせ。

 好きなものを食べて、好きなものを飲んで、

 好きな本を読んで、嫌々な出社。

 帰ってきたら、好きな映画を観て、あんまりな野菜ジュースを飲む。

 気づいたら朝がきていて、また、嫌々な出社。

 

 出社さえなければ、もはや楽園ともいえるこの環境を、

 のびのびと生きています。

 おかげで、体重は増えるし、部屋は本だらけ。

 積み上げられた雑誌のタワーが崩壊をはじめます。

 そして、放ったらかしにされたガス代の未払い通知に気付かず、

 至福の時間をもとめて裸になってひねったシャワーからは、

 冬のつめたさでキンキンに冷えたお水が降ってくることになります。

 

 お風呂のぬくもりと、髪のうるおいを求めて、

 コンビニへ走る瞬間はもう慣れたもので。

 今シーズンは2度目のランニングに思考はいたって冷静です。

 お金を払って、サポートセンターに電話をして。

 契約者の名前を言って、供給を再開。

 しばらくしたら、鼻歌まじりに湯船につかっています。

 

 

 で、変えないといけないのだけれど、

 ぼくの住んでいる場所の公共料金の契約者は、

 祖父の名前になっている。

 ひとりで暮らしていると、人の名前を口に出すことはそうない。

 

 「ガッキー可愛いなぁ」とか、

 「糸井さんやっぱり、あぁ~好きだ~」とか、

 そういった類は別としていただきますが。

 コールセンターの人に契約者の名前を聞かれたときに、

 何か月ぶりだろうか祖父の名前を言った。

 

 「そうだ、じいちゃんって、こんな名前だったなぁ」

 20秒10円もかかる、供給再開の電話をかけながら、ボーっと考えていた。

 

 1月に祖父母が眠っているとこに、手をあわせに行った。

 カラスに蹴飛ばされたコップに水をそそいで、

 生命力がはんぱじゃない草をひっこぬいて。

 ヘビースモーカーの祖父に、すこしだけ線香の煙をあびせて、

 すこしのあいだ二人に手をあわせた。

 

 「いったい、いつになったらぼくは報われるんだよ」

 「いいこと全く起きないんだけど、なんでなのよ」

 

 あてつけのように、もやもやしている悩みを訴える。

 

 「いつも、ありがとうございます」

 「これからも、お守りくださいよろしくおねがいします」

  

 敬意を持って、素直なきもちで感謝をのべる。

 

 じいちゃんばあちゃんに愚痴を言う孫と、

 ご先祖に敬意をしめす一人の子孫と。

 2種類の接し方を、ぼくはしていた。

 

 ガスが停まるまで、名前を口にすることは無いし、

 今後、ひとり言でも絶対言わないと思うけど、

 ぼくは祖父母の戒名をしっかり覚えて帰った。

 なんとなくだけど、戒名ってすごくいい風習だと思ったからだ。

 

 手を合わせると、

 そこには確かに、じいちゃんばぁちゃんがいるんだけど、

 もっと尊い存在がいるような気がして。

 いろいろ思い出して馬鹿にしてるような、

 そのくせに感謝してるような。

 2つの感情を、2つの名前が受け止めてくれてるような気がしたんです。

 

 

 関係ないけど、大好きな夢路いとし・喜味こいし師匠の漫才で、

 鶏は死んだら戒名が「かしわ」

 猪は死んだら戒名が「ぼたん」というやりとりがあった。

 牛は死んだら戒名が「牛肉」なわけで、

 「BEEF」になったらそれは宗教が違うから戒名みたいなのがあるのだろうか。

 どうなのでしょうね。

 

 

youtu.be

 

 

 

 戒名をメモして、家に帰って意味を調べてみる。

 なんと、すごくいい名前を祖父母はつけてもらっていた。

 お葬式のとき、いつもお経をあげてくれるお坊さんがつけてくれたそうだ。

 センスがいいと思ったんだけど、ここには書くのはやめておく。

 戒名であれ、プライバシーというものが多分ある。きっと。

 特定されたらたまらないものね。

 

 ぼくも、いい戒名がついたらええなぁとしみじみ思いました。

 

 

 先日、珍しく部屋を掃除したときに、

 引き出しの奥底から1つのCDが出てきた。

 ジャケット写真には、どこかで見たことのある顔。

 あんまり楽しい時に出会う顔じゃなくて、

 なんとなく悲しい時や、眠たい時に会っていた人の顔。

 

 そうだ、これはあのお坊さんだ。

 

 きっとええ声にちがいないのだけど、

 とりあえずそのままぼくは引き出しにCDをもどした。

 ラベルの付いたまんまの新品のCD。

 

 もうちょっと眠れない夜が続いたら聴いてみようと思う。

 たぶん、重量感のある声なのだろうな。

 星野源とかそういったタイプの声とはまた違う、

 漬物石のような重みのある声なんだろうな。

 

 

 また、忘れたころに出てきたら、

 今度は開けて聴いてみよう。

 

 うちのじいちゃんばあちゃんに、

 あんなに良い戒名をくれる人は、

 いったいどんな詩をきかせてくれるのか、

 ちょっとワクワクしているのですが、

 なおした引き出しを忘れてしまって、

 結局いつもの音楽をたれながしている、

 ひとりの夜になりました。

 

 あぁ、あと数時間で嫌々な出社だ。

 

 

 

そこに触れておく。こと

 

そこに触れておく

 

オーシャンズ13のはじめにマットデイモンが、ブラッドピットに対して、

前作に登場した彼女について尋ねるシーンがある。

 

「彼女はどうした?」

 

「関係無いね」

 

たった一言のやりとりなんだけど。

このやりとりがあるからこそ、そのあとのシーンで彼女は今作に関係の無い存在になる。

ということに、最近やっと気付いた。

 

というのも、ドラえもんのコミックを読んでたときに、

おなじようなシーンが登場したんです。

のび太が、その学力からは到底生まれない疑問をドラえもんにぶつける5コマ。

 

雲を固めることについて、読者が抱く違和感。

 

「その説明は長くなるからやめておこう」

 

「なるほど」

 

たった5コマで、その後ずっと付きまとうである疑問を吹き飛ばしてしまう。

本作とは一切関係ないことにしてしまう。

たった数秒のシーンに製作者の意図があって、すごく好き。

 

誰かと何かを話すときに、

引っかかってほしくないことは先に言う。

 

「そこに触れておく」という手法は、

コミュニケーションに欠かせないものだと気づきました。

 

中村 駿作さんの写真

 

無力で悔しくて、泣きながら自転車に乗った金曜。

ぼくがいちばんお世話になったお客さんが施設に入った。


運用商品のお話を熱心に聞いてくれて、いつも助けてくれたお客さんだった。


もとより、いつも訪問したら一緒に部屋の片づけをしたり、アイスを買っていって食べたり、そんなことをしていた。


昨年の12月30日、ぼくは一年の最後、そのお客さんの家へ行った。


体調がとても悪そうだった。風邪なのか持病なのか分からない。

ぼくにできることは、正月が明けて4日からのデイサービスまでの食料品を買ってきてあげることと、いざという時のために病院の電話番号を大きく書いてあげることぐらいだった。


結婚をしていないので、家族はいない。

親族はいるが、普段は連絡がなく、

お金が必要になったらせびりにくると聞いていた。


お正月が明けて、いちばんにそのお客さんの家へ行った。

やっぱり親族は誰も連絡すらなかったようだった。

その日は、家を掃除して帰った。


数日後から、突然、電話が繋がらなくなった。

毎日通ったが、いつも留守。


そして、今週の月曜日、

お客さんの姪から電話が入った。


「おじが施設に入ったので、お金のことを相談したい」


支店長と一緒に施設へ行った。

とても豪華な施設で、毎日おいしい手作りの料理が出るような場所。

よかったなぁってちょっと思った。

ここなら、生活はとても快適だって思った。


「で、遺言のことでお聞きしたいのですが」


姪の口から、そんな言葉が飛び出たことにぼくはビックリした。

本人の口からではなく、相続人の口から出てきた言葉に、

ぼくはとにかくビックリした。


お客さんは、一切顔をあげてくれなかった。

ただただ、病人あつかいされて体をかかえられて、

「おっちゃん、おっちゃん」と声をかけられていた。


そこから、毎日電話がかかってきた。

もちろん、本人からではなく、相続予定人から。


「おじは、施設からもう出れないので貸金庫に通帳を預けたい」

「鍵とかは、貴重品なので私たちが預かる」


何を言ってるんだと思った。

ようやく元気に生活できるようになりそうな人に、

遺言の話を持ちだし、資産は貸金庫に封印する。

すべてを取り上げて、もはや軟禁状態にされてしまうわけで。

本人の口から、運用の話をされたが、ほとんど無視だった。


許せなかった。

だから、上司にたくさん相談した。

なにか、お客さんと繋がっていられる方法は無いか考えた。


ぼくにできることは何もなかった。

自分の身を守るためには、

ここは言うことを聞かないといけないと言われた。

怒涛のように毎日かかってくる電話。

手続きについての問い合わせ。


今日、お客様の貸金庫の手続きが完了した。


なぜか分からないけど、

手続きに全く関係のない姪の旦那や、娘まで来た。

バタバタと押しかけて、金庫に全てをしまって帰って行った。


印鑑を金庫にしまうと、鍵をなくした時に再発行が大変だということを本人に伝えた。

これがぼくができる唯一の、お客さんを守る方法だった。


もちろん、ぼくみたいな下っ端の発言は流されて、金庫に印鑑はしまわれた。

姪の旦那が、こっそり言ったことが忘れられない。


「印鑑だけあっても、銀行員も何にもできんからええんちゃう?」


悔しくて、久しぶりに泣いた。

久しぶりというか、初めてかもしれない。


結局ぼくは、なにもできず、いちばんお世話になったお客様を施設に帰らせてしまった。

机をひっくり返せなかった。

指さして、「おまえらな」って言えなかった。


一生忘れない悔しいになったと思う。


お金の話をすると、

嫌なことばっかりだ。


つらくてつらくて、嫌になって、

それでもノルマがあるから他のお客さんの家を訪問した。


帰り際に、

「これ息子に買ったついでに、

 あなたにって買ってきたわ。営業は靴下が消耗品でしょ?」


三足の靴下をもらった。

救ってもらった気がした。


ほんとうは、ここに書くかすごく悩んだ。

でも、やっぱり、こうやって書かないとどうしても消化できない自分がいて。


明日から、また、つらいけど自転車にまたがります。


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