炭作り
忘れていた悔しいことがあった。
忘れているぐらいだから、そこまで大したことではないかもしれない。
だけど、この間、母からその話をされて、そうだそんなことがあったと思い出した。ぼくよりも、両親が悔しかったことらしい。
小学三年生の頃、特別授業みたいなものがあった。田植えをしたり、古くからの物作りを学んだりして、文化を勉強することを目的とした授業だったと思う。
その中で、「炭作り」という時間があった。木を持ってきて火にかけ、自分たちで炭を作り、その大変さを学ぶ。
その日の授業、ぼくは担任の先生に、クラスメイトみんなの前で言い詰められた。
「火にかけるなんて、木が可哀想やんか」
こんなことを、先生にぼくが言ったからだ。炭作りをわざわざ学ぶためだけに、木を燃やす必要があるのかと意見してしまったのだ。
当時の担任の先生は、これに対してすごく怒り、「君がそういうなら、もうこのクラスは炭作りはしません」と言う。そして「もし、火にかける以外で炭を作れる方法があるなら、それをみんなでやってもいい」と付け足す。
まるで一休さんとお殿様のようなやり取りをして、ずいぶん落ち込んだ顔で、ぼくは家に帰ってきたそうだ。
自分のせいで授業が止まったこと、そして、先生に言い負けてしまい何もできなかったこと。そのへんの悔しさは、この話を聞いてムクムクと思い出す。
「火にかけず、炭を作る方法を教えてほしい」
その日の夜、今日のことをすべて話し、父母に相談した。
ふたりに怒られた覚えはない。むしろ一緒になって炭の作り方を調べてくれた。まだ、インターネットも完全に普及していない時代、うちの家には調べる手段が少なかった。それでも、どこで調べてきたのか父が答えをくれた。
「木は、何千年も時を経て、炭になるんや」
つまりそれは、石炭の生まれ方だった。
次の日、先生がぼくに聞く。
「何か方法はありましたか?」
ぼくは父から教えてもらった話をした。ここからは、はっきりと覚えている。先生はこう言った。
「そんなねぇ、何千年もかかるような方法をどうやってやるのよ。できないでしょ」
とにかくショックだった。『火を使わずに、炭を作り出せる』という方法は、授業でやれるかどうかというものさしで一蹴されたからだ。
友だちはみんな、ぼくを励ましてくれた。「まちがってないで。先生に言い返したのがすごい!」と肩を叩いてくれた。
みんなの時間を奪ったことには変わりない。肩を落として、ぼくは家に帰った。変なことを言った自分が悪かったと思ったりもした。
でも、父母は違った。先生に手紙を書いてくれたのだ。木に対して感情を抱くことを、否定せず、意見をぶつけてくれた。
クラスで目立つほうではなかった。中心には立たず、静かに毎日を過ごすタイプだった。だけど、どうしても木の気持ちを言いたかった。
あの日、父母が一緒になって闘ってくれたからこそ、そのまま大人になれた。どうでもいいようなことにも感情移入して、考えすぎてしまう。
いい教育をしてもらったなぁと、今でも思う。周りのクラスメイトには迷惑をかけてしまったから、決して良いことだとは思わないけど。
でも、ふたりが未だに、あの炭作りの話を「悔しかった」と言ってくれることが、自分のこれからを肯定してくれているような気がしている。