西村さんに教えてもらった夏。
昨年の夏、月に一度、東京へ行った。
コピーライター養成講座60周年を記念して、特別に開講された授業に出席するためだった。
講師を務めていらっしゃったのは、西村佳也さん。
西村さんは、ウールマークの「触ってごらん、ウールだよ。」や、サントリー山崎の「なにも足さない。なにも引かない。」を書かれた人でした。
特に、ぼくが西村さんのコピーで大好きなのは、日本生命の「不器用ですから」という言葉です。高倉健さんと言えばの、このフレーズは、実は生命保険のCMで使われた言葉だったのです。
保険の販売をしていたこともあり、この「不器用ですから」という人間の愛らしさが深く刺さりました。世の中には不器用な人たちがたくさんいる。お金の話をするのは、なんだか嫌らしいけど、でもしなくちゃいけない。
たくさんの不器用な人たちの、家族への想いを聞いて保険を販売できた。自分の仕事をすこしだけ肯定できたのは、西村さんのコピーのおかげでした。
毎度のことになるのですが、周りの人たちはみんな、広告業界や言葉を扱う仕事をしている人たちばかりでした。まして、関西から夜行バスに乗って、それも銀行で働きながら通ってる人なんて、ぼくだけでした。
最初の自己紹介、名前を言った瞬間に西村さんは「あぁ…君が…」とボソッとつぶやきました。「はい…」と言いながら、いつものように仕事の話をすこし。
半年にかけて、月に一度行われたその講義。ぼくは朝に東京に着くので、いつも一番乗りで教室に座っていました。西村さんは、静かに入って来られ授業の準備をします。
「あの…不器用ですからは、どうやって生まれたんですか?」
緊張しながらも、先ほどの想いを伝えて聞きました。
「あれはね…高倉健さんは決まっていて、健さんの人柄から生まれた言葉なんだよ」
西村さんは、微笑みながら返してくれました。そこから、すこしだけ銀行の話をしたり、ぼくの営業エリアが、サントリーのトリスの絵を手がけた柳原良平さんの所縁ある場所だったという話をしたり。
講義は、課題が出ます。
西村さんからは、クライアントと一緒にブランドを作り上げていく人になってほしいと、教えを受けました。
ボディコピーもしっかりと隅々まで読んでもらい、点数とコメントが書かれた用紙が返却されます。時に、厳しいことも書かれていました。
最後の課題は、とある製薬会社の企業広告。
「これは、とても面白いので読みますね」
西村さんがいつもの静かな声で読み上げたのは、ぼくが書いたものでした。『なにも足さない。なにも引かない。』そんな風に、たんたんと。
返された用紙には、85点と「面白い!」そう書かれていました。100点には程遠い。だけど、それでも、嬉しかった。
講義が終わると、何人もの生徒が西村さんのもとへ行きました。中には、サインをもらってる人も。ぼくの悪いとこなのですが、輪に入れず、そーっと教室を出る。
挨拶しとけばよかった、なにか話したかった。そんなことを思っていると、お腹が痛くなってくる。便意までやってきて、宣伝会議のトイレでうなっていました。
すっきりして、ビルを出る。東京も、もう来ることもないなぁと思いながら、駅まで歩く。
すると、目の前に西村さんがいました。便意のおかげで、帰りのタイミングが同じになったのです。これほどまでに、うんちに感謝したことはありません。
「ありがとうございました!もう…ほんと大切な時間になりました、でも、コピーライターに
なりたいけどなれなくて…」
「そうだよね、銀行で働いてるんだもんね。…だけど、書くことを続けてくださいね。きっと、君の今の経験が活きてくるから」
駅までの数分間、西村さんと話をした時間は、講義の時間よりも濃密でした。
あれから一年ぐらい経つ。ぼくは、コピーライターになったわけじゃない。言葉を専門に扱う仕事についてもいません。
でも、あの時に教えてもらったこと、夜行バスに乗り込んで東京へ行った日々が、今のぼくの話すことや、考え方に影響を与えているのは確かです。
「いつかまた会いましょう」
西村さんはそう言ってくれました。
最初の課題は自己紹介のキャッチコピー。いくつか提出したコピーの中で、二重丸がついていたものがありました。
「片手の感覚で、物の重さがほぼ分かります」というもので、お肉屋さんのバイト経験についてボディコピーを書いたものでした。
どうしても働きたい会社の書類選考、ぼくは履歴書の特技の欄にこのコピーを書きました。
面接をしてくれた方は、開始早々にこのことについて触れてくださいました。書類選考を通過した理由のひとつに、この特技が引っかかったようです。
「では、今日はここにお肉を用意してるので実演をしてもらって…」なんて冗談を言われて焦ったりしまして。
「あぁ、西村さんのおかげだ」なんて、心の中で思いながら受けたその会社で、来月からぼくは働きます。
西村さん、ありがとうございました。覚えているか分かりませんが、またいつか、お会いしたいです。これからも、書き続けたいと思います。