得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

金メッキなのか。

 

ゴールデンウイークって、純金なのかな。

金メッキのような気がするなぁ。

 

 

そんなことを毎年思う。

 

連休が続いているあいだを、「しあわせ」と思い、それが終わった後にすぐ「ふしあわせ」と思うのなら、ゴールデンというより、もはや金メッキに近い数日間だ。

 

それでも、それでもいいんですよね。たのしいことがあるのなら、いいんですよね。

 

わかっておるのですが、出勤日がチラつくのです。そして、今悩んでいる自分のことなんか、微塵も考えていないだろう上司の顔を思い出したとき、ゴールデンウイークは完全に錆びていくのです。

 

 

と、まぁみなさんのウキウキに水を差してみたかったのです。

 

 

かといって、じゃあ、今日ぼくが「最高の人生や!」と思えるスタートを切ったとして、それもいつか終わりがくることを、なんとなく分かってはいます。その、チラチラと見え隠れしている「終わり」を、どれだけ無視して過ごすかが人生の楽しみ方なのかもしれません。

もしくは、その「終わり」を認識したうえで、過ごすべきなのでしょうか。

 

 

 

実家で見つけた写真や、誰かが愛した犬との写真を眺めて、ふと思う。その瞬間、シャッターをきるとき、「終わり」をどれだけ想像しているのだろうか。

 

 

いつか、いまの「しあわせ」は消えてなくなる。それが死なのか、別れなのか、そこは分からないけど、時間は進み続けるから終わりがくる。

 

なのに、人はカメラを構える。笑顔を向ける。それってすごく力強い。かっこいいことだと思う。一生懸命に生きてるってことなんじゃないのか。もしや、こんなくだらない「終わり」について考えてるのは、自分だけじゃないのか。

 

 

そういうことでも、ないか。

 

 

父母と話をしていると、最近よく、そんな「終わり」がチラついた話をされる。思い出を作りたいと言われる。あと、インターネットを見ていても、糸井重里さんが頻繁に「死」について、考えていた。愛犬との別れを、スマートフォンごしに眺めさせていただいた。

 

みんな、それなりに「終わり」のことを認識はしている。でも、とりあえずそれは、一度、棚にしまってるんだ。

で、大切な時に思い出すんだ。それは、仕事が嫌とか、そんな安い瞬間には持ち出さない話なんだ。

 

 

ぼくが、「ゴールデンウイークは金メッキだ!」と嘆き、家で引きこもっている間も、今日、いろんな場所で人々が写真を撮ったことだろう。笑いあってたことだろう。

 

 

いまの幸せは、いつか、思い出に変わる。

そして、思い出には「終わり」がない。

 

 

そう思うと、ゴールデンウイークが金メッキだとか、「終わり」を認識しても楽しめるのが大人とか、そんなのどうでもいい気がしてきた。

 

思い出を作るために、生きていく。それでいい。そしたら、「終わり」を嘆く時間は、ちょっとでいい気がする。少なくとも、まだ明日が休みなのに、仕事を思って引きずる夜はなくなる気がする。

 

ただ、こんなことを口にしている限り、ぼくはまだ「終わり」を気にしている。