得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

スーツを買いに行った日のこと。

 

土曜日、日曜日ともに快晴だった。

 

予定もなく、予定を入れる気力もなく。ただただ、実家のリビングに寝転がり、吉本新喜劇を観ていた。父親のTシャツを着て、誰のものか分からないスウェットをはいて、誰もいないのに、誰かの生活感がある場所で生活をしていた。

 

ひとつだけ、どうにか体を外へ連れ出さないといけない用事はあった。野暮用なんだけど、スーツを買いに行かないと、完全に着回しができない状態まで追い込まれていたのだ。

 

汗だくになって、自転車やバイクに座ったり、歩き回ったりするのでスーツの消耗がはげしい。摩耗した生地は、穴をあける。空いた穴からは、パンツが見える。てなもんで、この4年で、けっこうなお金をスーツに費やしている。

 

服を買いに行くのは、好きなほうではない。できれば、時間を短くしたい。おしゃれでありたい気持ちはあるけど、店員さんに一定の距離を保ちながら、声をかけられないようにお気に入りのシャツを探すのは、めっぽう疲れるのだ。

 

Tシャツ一枚を買うのにも、そんな感じなのに、スーツを買いに行くことなんて、めんどうの最上級だ。好きでもない仕事のために、高いお金を払う。Tシャツを選ぶのとは違い、店員さんに話を聞かないとピッタリのサイズも分からない。毎回、清算の時に誓うのは、つぎにここへ来るときは、好きな仕事をしていようってこと。もしくは、スーツのいらない仕事になっておこうってこと。

 

青い看板のお店に入るたびに、ぼくは前回から何も変わらず、お尻に穴をあけた理由でここへ来た自分を情けなく感じる。そして、何万円もするお代金を、クレジットカードで2回払いをお願いするのだ。そうなるのが嫌で、なかなかスーツを買いに行けないのである。

 

 

土曜日の夕方、ふと気づく。

「あっ、もうすぐ面接があるやん」

やばい、着ていくスーツが1着しかない。それも、けっこう消耗してきている。もし、当日、なにかの拍子でお尻に穴が開いたら、ぼくは会社を訪問してからずっと、パンツが見えていないかを気にして、人生をかけた面接に挑まないといけない。

 

スーツの仕立てに1週間かかるとして、面接があるのは再来週の火曜日。今日行っとかないと、どうしても間に合わないじゃないか。

 

というわけで、妹に借りた自転車で近くのスーツ屋さんへ走ることにした。ちなみに服装は、父親のTシャツに誰のものか分からないスウェット。コンビニでギリギリセーフのような格好で、とりあえずスーツを求めて走った。

 

【新生活!】というフレッシュな空気が漂う建物へ、一日中、ごろ寝をしていた服装のまま入店する。即座に、お兄さんが寄ってくる。その格好は、ビシッと決まった鮮やかな青色のスーツ。ネクタイは赤色に光っている。

 

どんなものを探しているか聞かれる。スーツが欲しいと答える。ほかに何か希望はあるかと聞かれる。お尻に穴が開きづらいものと答える。ツーパンツの商品を探してもらう。ウエストを測ってもらい、案内される。

 

見るからに接客がうまそうなお兄さんは、明るくぼくに話しかけてくれる。

 

「お仕事は何をされているんですか?」

「あっ、銀行員をやっています」

「へぇ~、大変って聞きますよねぇ」

 

続けざまに、銀行の話をたくさん聞いてくれる。その間も手は動き、スーツの試着を準備している。無駄な動きはひとつもない。やり手だなぁと思いながら、適当に返事をしていたら、会話の内容もしっかり把握していて、ちょっとしたことに食いついてくる。

 

うかうかしてられないと、こっちまで仕事を思い出す。営業と営業のぶつかり合いのような会話が始まる。あぁ、ぼくは早くスーツを決めて家に帰りたい。できることなら、無言でいたい。そんなことを思いながら、なんとか試着室までたどりつく。ここまで来れば、あとはこっちのもの。ズボンをはいて、カーテンを開けて、採寸をしてもらって、「じゃあこれで!」で終了だ。

 

靴を脱いで、カーテンを閉める。ようやく一息つく。

スウェットを脱いだ瞬間に、お兄さんの声が聞こえてくる。

 

 

「あの・・・ぼく〇〇の株を買ったんですけどね、あれ相場的にどうなんですかねぇ」

 

「・・・う~ん、トランプ氏の貿易摩擦懸念が影響してるんじゃないですかぁ」

 

 

カーテン一枚をはさんで、なぜかぼくは運用相談を受けていた。それも、下はパンツだ。いろんなことを聞かれる。そんなことよりも、ぼくはこのズボンが自分にフィットしているかを知りたい。なのに、続く質問。試着はとっくに済んでいるのに、カーテンを開けるのに結構な時間を使った。

 

試着室での営業を終えて、攻守がかわる。今度はぼくがお客さんになる。ズボンの丈を測ってもらうのだが、一瞬で終了する。そして、2着目の試着へうつり、カーテンを閉める。

 

 

「で、さっきの話なんですけどねぇ」

 

「えぇ」

 

お兄さんの金融知識がどんどん満たされていくなか、ぼくは鏡に映る自分を、ぼーっと眺めながらカーテンの向こうにアドバイスを送った。あぁ、いつもこんな顔して話をしているんだなぁと、ちょっと勉強になったりもした。

 

 

「さすが、銀行の営業さんですねぇ、頑張ってください!」

 

お会計を終えて、出口まで歩く途中に、お兄さんが言った。

 

 

・・・あれ、ぼく銀行の営業を頑張るためにスーツを買いに来たんとちゃうぞ。転職活動のためにスーツ買いに来たんやぞ。何がどうなって、こんな終わり方をしたんやろか。

 

気づけば、自転車にまたがって、お兄さんにすすめられたネクタイとYシャツのセットを持って、実家への道を走っていた。なんともいえない敗北感に浸りながら、かといって、そこまで悪い気もせず、これが上手い営業なのだろうなぁと、お兄さんを称えながら。

 

 

ただ一つだけ宣言したいことは、次にここへスーツを買いに来るとき、ぼくは「銀行員やってます」なんて答えは絶対にしないぞということだ。

 

 

面接が近い。東京へ向かう日が近づいている。それを言いたかっただけなのである。