黒い三角形。
数値のマイナスを示す▲。
そのうしろに、0がいくつも付いた投資信託の運用成績を持って現れる。そんな冴えない営業を迎え入れてくれる人たちの、笑顔の理由が分からなかった。
運用商品を買ってもらって、数ヶ月後にマーケットの大きな下落。見たくもない状態の数字を受け入れてなお、コーヒーやお昼ごはんを出してくれるの何故だろう。
「金持ちだから」
最初の頃、ひとつ思いついた理由です。かなり乱暴で、自分勝手な解釈だと、いまは思います。
激動のなかで、一生懸命に貯めたお金の価値は、総資産に比例して変わるもんではない。1円は1円。100万円は100万円。
「頑張ってきた」「苦しい思いに耐えた」そういうものが1円単位で並んでいるのが、通帳の残高じゃないだろうか。
酒に酔った父が、鳥貴族でぼくに語り出した。
「お前と年に一回だけ会うとしたら、お父さんたちが会える回数は、あと多くて25回ぐらいなんや」
続けて父が言う。
「同じ計算をすると、お父さんがばあちゃん、つまり、おかんと会えるのなんて10回もない」
目も合わせられず、ひたすらにチャンジャのお皿にのこった、大葉の葉脈を眺めた。BGMは、「ドドドドドドドド」とドラえもんが聴こえてくる。
家族とは、永遠だと思っていた節がある。小学校、中学校、高校、大学。いろんなものから卒業してきたが、家族を卒業したことはない。
よく考えたら、親と年齢が並ぶことはない。一緒に卒業のタイミングをむかえる同級生は、会おうと思えば、この先、50年以上も付き合える。年に一度あっても、50回会える。
親の倍だ。
毎日会えていた関係性だからこそ、年に一度しか会わないことを、考えたこともなかった。
会えるけど、会わないことは、ただの毎日の選択のように見えて、時間をどんどんと進める行為なのかもしれない。
ぼくは、マーケットを読み解く力がない。為替相場や、いまの政権が目指す先に、どんな国の成長が待ってるか、よく分かってない。
給料泥棒と言われたら、返す言葉がない。
お客さんに、どうしてくれんねん!と言われたら、頭を下げるしかない。
ただ、彼らがどうしてぼくに、暴言を投げず、カツカレーを出してくれるのだろう。
年に一度しか会えなくなった家族と、同じだけの愛情を、かわりにくれているんじゃないかとそう思えてきた。
子どもの代わりにはならないけど、でも、会える回数は同級生より、家族より、多かったりする。持ってくるのはチラシや、▲のついた運用報告なのに、会ってくれる。
そう思いたいなぁと、そう思った。
これもまた、自分勝手なのかもしれないけれど。
酔っぱらいのおじさんが、鳥貴族でもらした言葉は、おそらく本音だ。
自分の母と、あと何回会えるかを考えたら、つぎは自分の子どもと、あと何回会えるかを考えたんだと思うんです。
遠く離れている場所で、頑張っている友だちも家族も、あと何回会えるのかをもっと考えたい。逆算してどうとかじゃなくて、時間は進んでいること、1日1日の選択を大切にしたいってこと。
営業を受け入れてくれるお客様は、きっと、ずーっと続く関係性だと思っているから、やさしいんだなぁと。
逆に、その関係性が、一瞬にしてなくなるから、転勤になったときに、涙を流してくれたんだなぁと。
家族や、人との時間を大切にしないとなぁと思いながら、酔った父にご馳走になりました。
基本的に、何も言わずに頷き続けました。