得も損もない言葉たち。

日常をひとます、休まず。

あなたのクスッとをください。

思い出って。

 

すこし特殊な一人暮らしをしている。

 

25歳、独身。一軒家に住んでいる。祖父とふたりで暮らしていた家が、ひとりになって、それから何となく、生活が続いている。

 

おしゃれな部屋づくりなんて、していない。DIYで作った家具なんてない。カーテンは、ヘビースモーカーだった祖父の影響で、黄ばんでいる。仏壇のある部屋で寝ているから、見上げると、会ったこともない曽祖父の写真がかざってある。

 

家の中にあるものは、祖父が生きていた頃と何も変わらない。冷蔵庫の整理もしていないから、ぼくが買った覚えのない、冷凍のお肉が出てきたりする。

 

6年ぐらい経つ。

 

祖父との生活がのこるわが家に、彼がいないことが当たり前になっているなぁと、感じることがある。

 

いつも座っていた椅子に、捨てそびれている電子レンジが置いてあったり、育てていた植木が枯れていたり。

 

曽祖父のとなりに飾られた、祖父の写真を、風景として捉えている自分に、なんだか冷たい人間なのかなぁとか思ったりする。

 

 

先月の末は、祖父の七回忌でした。

 

家じゃなくて、お寺の一室を借りて行われたお経をあげてもらう時間に、やってきたのはいつものお坊さんじゃなかった。

息子さんなのだろう、50歳ぐらいの若めの男性がやってきて、ゆっくりと読みはじめる。

 

 

お客さんと接することについて、転勤の辞令が出てから、ひどく落ち込んでいたぼくは、

 

「どうせ、このお坊さんにとっては、収入の一部なんだよね」

 

とか罰当たりなことを思っていた。

 

 

一通り終わり、いわゆるお説教がはじまる。

 

先に言うと、ぼくはそのお説教で、ボロボロに泣きじゃくり、鼻水を流すことになる。

 

内容が感動的だったわけじゃない。

 

 

ただ、ぼくが罰当たりな目線でみていたその若いお坊さんは、祖父との思い出を語り始めたのです。

 

 

家のどこにいつも座っていたとか、病気になってからのことや、短気なところ、家族のことをいつも話していたこと。

 

そのどれもが、ぼくが忘れかけていた祖父を、あまりにもそのまま、あまりにも綺麗に表現してくれていて、目の前に突然に、あの頃が思い出されました。

 

 

お坊さんにとって、何百もいる人の1人なのに、6年も時が経っているのに、それでも、あんなに明確に家族の前で思い出を語れる。その姿を、泣いて泣いて、見つめていました。母から妹へ、妹からぼくへ、ハンカチがバトンパスでまわってきて、受け取る。

 

 

 

 

思い出って何だろう。

 

忘れたら思い出じゃないのだろうか。思い出って、忘れたら思い出せないのだろうか。なにかをきっかけに、思い出せたらそれでいいんだろうか。

 

みんなが少しずつ、覚えていたら、それでいいのかもしれない。それが家族じゃなくて、お坊さんでも。近所の人でもいいのかもしれない。

 

いつかぼくが、捨てられなかった電子レンジをゴミに出して、現れた祖父の椅子に腰かけて、ふと思い出すことも、思い出なんじゃないやろか。

 

 

実家に帰ると、玄関に祖父の写真が置いてある。毎日眺めている、風景になった遺影の写真とはちがい、従兄弟の子を抱いた祖父の写真だ。

 

そっか。祖父は生きていたし、ぼくと生活をしていんだった。そんなことを再認識して、涙ぐんでしまった週末の金曜日です。思い出って何か、すごく考えてしまう日になりました。

 

 

 

どうしよう。また、なりたい人が増えてしまった。

 

あのお坊さんのように、いつかのことを、飾らなく、美しく語れる人になりたいなぁ。

 

 

思い出って、忘れても消えない、思い出せる。

消滅したり、死んだり、決してしないんだろうね。

ふわふわと、まわりで浮いているんだろうなぁ。