スースーしていた。
朝、駅のトイレで便座にかけようとしたら、スーツの股が破れていた。仕事が憂鬱すぎて謎の腹痛と、股やぶけのダブルパンチ。憂鬱すぎる月曜日がはじまったわけです。
今日、新入生がやってきた。
初めて営業店研修へ向かったのが四年前。あの日、ぼくはハンカチを忘れた。
たくさんの初対面挨拶をすませて、緊張したぼくは、胸ポケットにしまったメガネ拭きで、汗だくの顔をぬぐったことを覚えている。
そうなると、メガネ拭きで顔を、ティッシュでメガネを拭くという、なんともよく分からない配置換えがポケットの道具たちの中で行われていた。
あの日のぼくのように、緊張した顔もちで、新入生が支店をうろちょろとしている。話しかけたらいいものの、ぼくも、この店に来てまだ2週間と経たない。
お昼ご飯を買ってきてない彼を、食事に連れていく使命を与えられた。「営業のことで、分からんことあったら、この人に聞きなぁ」と背中を押される。いやいや、ぼくは、いま転職活動をしている、辞める寸前の人間だぞと思いながら、そんなことは言えず、近所のそば屋で対面に座る。
いろんなことを聞かれました。上司との付き合い、残業・ノルマについて、最初の1年間について。どれも、ぼくが答えるに適していないことは分かっていながらも、返していく。
いま、本当に逃げ出したいし、ほかにやりたいことがあるんだけど、でもそんなことは言えない。目の前にいる、一生懸命に社会へ飛び込もうとしてる彼を、否定することだけは絶対にしたくなかった。
「営業はしんどいですか?」
ずばり、聞かれました。当然、ぼくは頷きました。何回も。
「でも」
接続詞をおいて、気づけば、前の店でたくさんのお客さんにしてもらったことを話しました。
お昼ごはんを食べきれないぐらい出してもらったこと、靴下を何足もプレゼントしてもらったこと、いろんな人生経験に触れてきたこと。
転職活動の面接をされているようでした。
新入生の彼が、この話を聞いてどう思ったかは分かりません。ただ、お客さんと触れた経験が、仕事を辞めると決めたぼくに、「でも」を言わせてくれたんだと思います。たった30分の会談で、それを伝えることは、あまりにも難しい使命でした。
自分が初めて営業店へ見学に行ったとき、名前も知らない先輩から「あいさつが元気でいいね」と肩をポンっと叩かれたことを覚えています。
メガネ拭きで汗をぬぐう謎の新入生に、声をかけてくれた先輩のように、ぼくは接することができてるのだろうか。そんなことを思いながら、出てきた蕎麦をすすりました。
「あの…スーツって何着ぐらい買って、やりくりしてますか?みなさん、ピシッとしているし」
最後に、仕事というか、すごく一般的な質問をされた。
「うーん、まぁ、スーツも消耗品だからなぁ」
そう言ったぼくのズボンの股は、確実に裂けていて、机の下をのぞくと、太ももの肌色が見えていて、スースーしていた。
帰りの電車、いま、ぼくの股はスースーしている。