得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

夫婦

 

夫婦のあいだに、座ることがよくある。食卓を囲んで、お昼ご飯を食べたり、お茶をしているとき、ぼくはふたりのあいだにいる。営業もそこそこに、出された食べ物をもらう。いつも話の中心は、家の住人であるふたりだ。

 

そして、「あんたは、こんな旦那さんになったらあかんよ」なんて冗談めいたことを、ご主人の愚痴を言いながら奥さんが口にする。それに対して、何を返すでもなく、へいへいと笑っている。

 

 

こんなやりとりが、頻繁にある。今日も、気づけば1時間ぐらい、夫婦の会話にぼくは挟まれていた。お孫さんの話や、昔の仕事の話を、ふたりは笑いながら語り合う。

 

 

帰り道、自転車をこぎながら思う。

 

 

「ぼくが帰ったあと、ふたりはどんな会話をしているんだろうか」

 

 

あの夫婦の会話に、じぶんは必要だったのかを、ちょっと考えていたのだ。

  

どうだろう。

 

 

ぼくに結婚のことや、息子の仕事話をすることで、夫婦は昔を懐かしみ、語りだしてくれる。家族の在り方について、ずっと考えていたことを教えることで、ご主人への愚痴を笑いながら消化する。

 

これって、夫婦がふたりきりでコタツを囲んでも、できない会話なのじゃないだろうか。さんざん、人生を一緒にしてきた夫婦がそんな会話を毎日するとは思えない。3人だからこそ生まれる会話が、そこにはある。

 

 

奥さんの話をふむふむと聞いて、ご主人に話をふる。苦笑いしている返答に、「ですって!」と笑いながら振り向く。そのやり取りの中で、なるほどなぁと思ったことを、詳しく話を聞く。それが、なんだかとても心地いい。

 

 

そうだ・・・。

 

 

やめなきゃなぁと思うのだけど、自分の存在意義について考えることが多い。

 

まだそんなに慣れ親しんでいないけど、でも、これから仲良くなっていきたいと思っている人たちと会うと、いつも肩に力が入る。何気ない雑談なのに、なにか爪痕をのこそうと意気込んでしまって、誰かを傷つけたり、迷惑をかけたりする。最近、そのことについてすごく悩んでいる。

 

ずっと憧れていた場所に身を置くことができても、数少ない時間で、どうすればそこにふさわしい人間になれるのか、焦ってしまう。

 

別に、存在意義なんていらないのに。そこに、いてもいいって言ってもらっているだけで、ありのままを受け入れてもらっているはずなのに。そんなことを考える余裕が、あんまり今はない。

 

 

 

 

 

「お父さんはね、わたしとお見合いするときに、実は好きな人がおってんよ」

 

奥さんが今日、とてつもない爆弾を落とした。ご主人も、ちょっと焦りながらも笑っている。ぼくは、声には出さないけど、すげぇ!すげぇ!と話の展開に身をよせて走っていた。そして、ご主人に話をふる。

 

「どんな人だったんですか?」

 

「この人とは真逆の性格や(笑)」

 

ただの爆弾を、ちょっとだけやさしく。それぐらいが、ちょうどいいのかもしれない。そこに座らせてもらえる関係性を、作ることを大切にしたい。

 

 

 

親からたまにlineが届く。

 

「次はいつ帰ってくるん?」

 

きっと、ぼくを囲んで話をしたいんだろう。お客さん夫婦のように、みなさんのお父さんお母さんも、きっと同じようなことを求めている。ぼくの両親も。夫婦だけじゃない、ふたりきりでは話せないことも、3人なら話せることがあったりする。

ふたりは、ふたりのようで、ふたりじゃない。

 

 

 

 

その話題に自分がいなくても、自分がいなきゃ始まらない会話が在ることを、もっともっと認めていきたい。

 

そうしたら、ちょっとは、肩の力が抜けて、素直に人と話せる。そこい居れる気がする。実家じゃなくても、好きな場所なら。

 

 

そんなことを、夫婦の姿から教えてもらった。

だったら、ふたりきりがちょっとぐらい会話がなくても、別にいいよね。