汚れた足元を愛したい。
革靴のつまさきが剥げている、靴下に穴が空いている、そもそも足が臭くなる。
家の玄関を開けた瞬間、あらゆる自分の情けない足元を受け入れることになるのだが、それを愛おしく思う日がある。
なにも、嬉しげに足を嗅ぐとか、そんな話ではない。歩いたということを、噛みしめているのだ。
革靴を何足買いかえただろうか。黒かったつま先は、すこし緑色をしている。
靴下は、親指の位置を正確に示す。
足は言葉を発せない代わりに、臭覚に「風呂に入れ」と信号をおくる。
疲れ果てた自分を、肯定するか否定するか。その基準を、会社での活躍にしてしまうとするなら、ぼくの足元は毎日最悪だ。
革靴と穴あき靴下はゴミ箱へ、足に関しては鼻をつまむべきだ。
でも、本当にそれでいいんだろうか。
足を動かしたから、つま先は剥げ、穴が空き、臭くなった、それだけは事実だ。
こんな生活嫌だ!と叫びたいけど、それは別に足のせいじゃない。自分の意思で動かした足を、否定するのは違う。
ぼくたちはもっと、汚れたり、臭くなったことを愛さないと。今日も、明日も、自分を守るためにも。
ばっちり決まった日も、そうじゃない日も、ちゃんと動いたことは噛みしめないといけない。何も無かった日でも、「今日も足はしっかり臭かった」と書けばいい。
「あっ、この日も足が臭いってことは、自分はちゃんと生きてたんだなぁ」と後で笑えばいい。できれば、お風呂上がりがいいけど。
剥げた革靴をみて、働いてるって思えるなら、それは飾っておく。靴下の穴をのぞけば、スーツを着ている自分が見えるなら、ゴミ箱じゃなくて洗濯機へ投げ入れる。
おかえりなさい。
今日もしっかり、足は臭いかい?
臭くないのがいちばんだけど。