秘密のパン屋の、秘密。
営業に出ることになって、初めて引き継がれた場所はパン屋さんだった。
エリアをちょっと外れた場所にあるそのパン屋で、前任のベテラン行員さんは、モーニングセットを注文しぼくに言った。
「ここはねぇ、ずっと担当者が引き継いできた秘密の場所だから」
歴代の担当者がみんな、このパン屋でサボっていることを教えてもらった。引継ぎは、ぜんぶで3日間だったが、そのすべてのモーニングをそこで食べることになる。
当たり前のように、エリアを外れて、その人は自転車でパン屋へ向かう。
確かに、パンが美味しい。しかも、朝9時~10時はドリンクが100円。朝ご飯が200円で食べられる。すばらしい。
これからは、こうやって適度に仕事をして、適度にサボってサラリーマンをやっていこうと、そう思ったものです。
しかし、現実はそうはいかない。
もし、いまのぼくが転勤になったら、サボり場所の引継ぎだけで3日を要するほどに、仕事と休憩のバランスは崩壊している。一日の大半を、ベンチからベンチへとおしりを移すことに使う。よくサボり、ちょっと働くことで、なんとか精神を保って毎日をすごしている。
四季に応じて、快適な場所を提供できる自信がある。
では、そんなぼくが、1年を通してオススメする場所はどこか。
そう、あのパン屋さんです。
特にダメダメな一日だったときに、気づいたらそこでパンとミルクティーをいただいている。たしかにパンは美味しい。だけど、エリアを外れて、ちょっと遠いそのパン屋にどうして行ってしまうのだろうか。不思議な引力があるのだ。
どうして、このことを書いているかというと、今日は、その理由が何となくわかったからだ。
金曜日で、寒くて、ヘロヘロになって向かったのはいつものパン屋。
イートインのコーナーには誰も座っておらず、いつもとは違う男性の店員さんが一人でいた。
トレーにパンを置いて、レジへ向かうと、『すぐに戻りますので、しばらくお待ちください』のメモ書きがある。男性の店員さんは振り向いてくれず、黙々と皿を洗っている。
しばらくして、いつもの女性の店員さんが走ってきた。
そして、こう言った。
「ごめんなさいね、うちの仲間は耳が聴こえないんです」
振り向てくれなかった理由は、ある程度分かっていた。そのパン屋さんは、体や脳をすこし悪くされた方々が働く施設の中にあるのだ。
だから、なぜ男性の店員さんが黙々とお皿を洗っているのか、レジにそんなメモが残されているのか、ぼくは大体理解できていた。
ただ、驚いたのは、いつもレジにいる女性の店員さんが『仲間』という言葉を、一切の戸惑いもなく使ったことだった。
一緒に働いている人を、仲間と呼んでいることをぼくは知らない。ほかにお客さんもいないし、別に世間体を気にする必要もない。
だけど、その女性は『仲間』という言葉をごく自然に使った。
乗組員と、社員のことを呼ぶ会社をぼくは知っているが、それと同じような温かみを感じた。
普段から思っていることじゃないと、あんなに自然に言葉は出ない。べつに、ここが特別な施設だから、感傷的になったわけじゃない。このパン屋さんは、本当に仲間だと思って、助けあって仕事をしているのだ。
なんだかとても満たされてしまった。
出されたパンが、いつもよりも、ずっとずっと美味しく感じてしまった。
仲間と呼び合う、たくさんの人が関わったパンを、のんびりじっくりぼくは食べた。
ミルクティーを飲み終える。最近は糖分をきにして、ガムシロップは入れないようにしている。
「すいません、これ使ってないので、もったいないから」
そういって、店員さんに未開封のシロップをかえす。ちょっと驚いた顔をしながら、ぼくの糖分返しを受け取ってもらう。
店を出ようとすると、「ありがとうございます、また来てください!」と背中越しに声が聞こえる。
言われなくても、来週もこのパン屋に来るだろう。
理由は、いろいろある。パンが美味しい、ドリンクが安い。トイレは広いし、ビートルズが流れている。お客さんに見つからないし、暖房が効いてる。
でめ、いろいろあるけど、一番はやっぱり、ここが「あったかい場所」だからなのだろう。そんなことを思いながら自転車にまたがった。
あぁ、今日の営業成績はゼロ。また上司に言い訳をしなきゃいけない。
そんなことを思い出し、自転車にまたがった夕方のことでした。