ヒッチハイクな人生を。
大学を卒業する1か月ぐらい前に、ぼくは初めてのことに挑戦した。
それは、ともだちや後輩のあいだで流行っていた旅の仕方で、みんな帰ってきたときに「一度はやったほうがいいです!」と口をそろえて勧めてくれたものだった。
旅のはじまりは100均で大きな画用紙と、太いマーカーを買うことからはじまる。まっしろな画用紙に、ふっとい字で目的地を書き込む。あとは、ひたすら高速の入り口付近で、笑顔でグッドの手を上げ続け、乗せてくれる人をずーっと待つ。
最初で最後の『ヒッチハイク』をやってみたのだ。
度胸無しなので、後輩につきそってもらってなのですが。
運転手さんに目で「乗せてって~」と合図をおくる。たいていの人は、物不思議な顔でぼくを見て通り過ぎていく。
これは長期戦になりそうだなぁとか思いながら、ひとまず「淡路島」と書いた紙を掲げていると、意外にはやく車がとまった。
「垂水までやったらええよ~」
仕事終わりのおじさんが、笑いながら助手席の窓をあけてくれた。
車内はすぐに、何をしに淡路島へ行くのか、どうしてヒッチハイクをしているのかの話になる。ぼくたちの旅に目的はなかったし、ヒッチハイクも興味本位だった。むしろ、こっちのほうが聞きたいことがある。
「あの・・・・、どうして乗せてくれたんですか?」
おじさんは、笑いながら答えてくれた。
「若いころにぼくもヒッチハイクをしたことがあってね、そのときに親切にしてもらったからさぁ、できるだけ乗せてあげることにしてるねん」
それからおじさんは、自分が過去に乗せてあげた人の思い出を語ってくれて、気づけばパーキングエリアに着いていて、あっさりと去っていった。
それから、たくさんの人たちの優しさに触れ、その日の夜にぼくたちは徳島県にいた。
観光バスのおばちゃん一向が、揃って手を振ってくれたり。キッザニア帰りの家族連れワゴンにのって、ちびっこと一緒にドーナツをご馳走になったり。むちゃくちゃ拒んだけど、晩ごはん代にと5000円を握らせてくれた人までいた。
いまでも、乗せてもらった人の顔を思い出すし、会話も出てくる。Facebookには、連絡はとっていないけど、隣でヒッチハイクをしていた年上のお兄さんが友達リストにいたりする。
旅を終えるとき、ぼくはなんだか感動しちゃって、もう大人になんかなりたくないと駄々をこねたくなっていた。いつまでも、こうやって人のやさしさに触れていたい。ヒッチハイクを続けられる立場で居たいと思っていた。
あれから3年ぐらいたつ。
いまぼくは営業をしている。海沿いの街で、外回りで、雨なんかもちらついて、もう最高に寒い。夏は最高に暑い。かといって、サボってばっかりもいられないし、日誌を書くためにお客さんと話さないといけない。
鬱陶しいだろうなぁ。ぼくならきっとそうだと思う。寒いし、家でゴロゴロしていた日に、【営業!】という看板を掲げてやってくる銀行員の相手なんて面倒に決まっている。
NHKの集金の人がきたとき、すごくめんどくさかったし(払ってますよ)。
でもね、これが意外にみなさん家に入れてくれるんです。
アポイントもなく突然やってきたぼくを、「寒かったやろ、入りなさい」とお茶を出してくれるんです。見かけは不愛想なお父さんとかが、薄ら笑いをしたりしながら、奥さんにコーヒーを注文してくれたりするのです。
ちょっとした疑問をぼくは聞きました。
「あの・・・・、なんで入れてくれたんですか?」
お客さんは笑いながら答えてくれた。
「ぼくも営業やったからね、外回りの大変さがわかるんよ」
部屋の暖かさとは関係なく、ポッとしてしまったぼくがいました。それはヒッチハイクで人のやさしさに触れた瞬間とおなじような気持ちで、あの時お世話になった人の顔が帰り道に出てきたりしていて。
ヒッチハイクは、大人になったらできないのか。
あの頃、駄々をこねていた自分に言いたい。
人のやさしさは途絶えない。
誰かにやさしくしてもらった経験が、その人をやさしくさせる。ヒッチハイクをしていた人が、大学生を乗せてあげるように。外回りをしていた人が、営業にやさしくするように。
たしかに、25歳になって悲壮感をもって画用紙を掲げることは、ぼくにはもうできないかもしれない。
でも、日常はやさしさで溢れている。やさしさの交換で、世界には救われている人がたくさんいる。そういう意味では、大人になってもヒッチハイクはやっていける。
乗せてもらう側になったり、乗せてあげる側になったりをくり返して、これからも生きていけるんだと思う。いや、生きたい。
もちろん、ぼくはこれからの人生で、ヒッチハイカーを見つけたら乗せてあげるし、営業が来たら話を聞いてあげたい。お金もないし、ペーパードライバーだけど。
みなさんも、ヒッチハイクな人生を。