得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

オチを一度捨てること。

 

もっと、面白くなりたい。

 

というつぶやきを、これまでの人生で何回もくりかえしてきた。それは、ぼくが関西で生まれ、いつも「面白い」「面白くない」という基準で、人を判断する環境で育ったからという理由があるが、それだけではない。

 

たしかに、土日はかならず新喜劇と漫才番組をみていた。人との会話にオチをいつも意識して、いつも誰かを笑わせたい願望がぼくにもあった気がする。

 

 

しかし、最近、オチというものをあまり意識しなくなってきた。

オチを考えないくせに、ぼくは面白い人になりたいのだ。

 

 

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話の終わりに、どんでん返しや発見のようなものがないと、聞いてくれた人はずっこける。あってもずっこけるのが、新喜劇だけど。

起承転結を勉強するために、四コマ漫画を小学校で書かされたけど、あれはきっとコミュニケーションを考えることにも繋がっていたと思う。

 

人と人が会話をするときに、何かを相手に期待してしまうのは、「あなた、わたしの時間をとって何を気づかせてくれるの?」という精神がどこかにちょっとあったりするのかなぁ。たぶんそう。でもそれは、すごく当然、『時は金なり』だから。

 

 

でも、友だちや、恋愛関係に、そういった会話の対価を気にしはじめたら、もしかしたらそれは偽りの関係かもしれない。すごく、上からの目線で相手の話を聞いているからこそ、そんな感情が生まれてくる。ぼくだけかもしれないけど。

 

 

 

大切なことは、誰にとって面白い人でありたいのか。そもそも面白いと思ってもらって、その先に何がほしいのか。

 


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ぼくは笑顔がほしい。誰でもいいから笑顔になってほしい。

 

そのことに関係して、最近思っていることがある。

 

 

人を笑わせるのは、即時性が必要。

人を笑顔にするには、ながい時間が必要。

 

 

 

笑わせることと、笑顔にすることはちょっと違う気がしている。

 

笑わせるって、じぶんが「いまの会話ウケてたなぁ」と思ったら、たとえばそれが乾いた笑い声だったとしてもそれで完結すること。

笑顔にするって、もっと難しい。不特定多数のひとが、それぞれの顔を眺めあって、「あっ、あの人いい笑顔だなぁ」と思ったときにはじめて、その場に笑顔は生まれる。

 

 

ぼくは、このことに気づくまで随分時間がかかってしまった。

 

 

誰かと会話をしていても、笑い声が聞こえないと不安で。とりあえず誰かの話を持ち出して、無理にオチを作っていた。そのためには、瞬発力が必要だ。鉄板のオトシネタを持っている話につなげるか、もしくは、タイムリー性のある話題にしてしまう。

 

 

例えば、いま、テレビでは横綱の話題がお笑いの場で使われている。彼を擁護するわけではないが、あの話で笑っているタレントを見るたび、自分はあんな顔で人を笑わせようとしていたのかと酷く落ち込む。

 

 

誰かを蹴落とさないと、辿り着けない笑いは、打ち上げ花火のようなものだ。一瞬で上がっていき、一瞬で消える。後味はすごく悪い。じぶんの人生と関係ない横綱の話だから、気軽に言えてしまうのだろうが、その笑い方、笑わせ方に慣れてしまうと、いつしか、じぶんの身内でその技を使うようになってしまう。

 

笑いをもとめて瞬時にオチを作ると、この話をしたら誰かが傷つくかもしれないという、思いやりは生まれないのだ。結果、その場の笑いは、じんわりと誰かの心に傷をつける可能性が高い。

 

 

 

 

笑顔にするには、ながい時間がかかる。

 

 

「あの頃は、楽しかったよなぁ」という会話には、笑顔がある。それは、おなじような身内ネタだけど、長い年月が作ってくれる、人生の香りがする。この臭さがいいねん、みたいな、話で笑いあっているとき、人は本当に笑っている気がする。

 

思い出話は、やっぱりすばらしいと思う。

 

もしかしたら、横綱の話は、もっともっと先に本人も交えてするべきなのかなぁ。そうやって、あの時の話をすると、心がぱっと晴れて笑顔が生まれるのかもしれない。だからやっぱり、笑顔を作るには時間がかかるのかもね。

 

 

 

でも、ぼくは思い出話ができなくても、たくさんの人に笑顔になってもらいたい。それがすごく難しい。

 

 

焦るなと言いたい。焦りたくない。人を笑顔にすることは、そんなに簡単なことじゃない。泣かせたり、怒らせることは簡単だ、「死ね」という言葉ひとつでいい。だけど、笑顔にするのは難しい。おもむろに裸踊りをしても、人は笑顔になってくれない。

 

 

自分の一言を、待ってくれている人がいる。そんな空間がたくさん生まれるようにしていこう。一人で、起承転結を作る必要はない。

 

 

「あなたはどう思うの?」と聞いてもらったときに、みんなが知ってくれている自分の言葉を出すだけで、人は笑顔になってくれるのだ。生まれるのは、きっと安堵だと思う。それでいいのだ。

 

時々、ちょっと裏切って、それが爆笑だったとしてもそれはそれでいい。安堵が生まれる関係性を作り上げたことに、もう充分に、時間を使ってきたから大丈夫だ。

 

 

その場だけのオチを一度捨てること。それは、人との会話をもっと大切にすることでもあると思った。会話を大切にする人は、いつか、「あなたはどう思うの?」と聞いてもらえるとぼくは信じる。

 

今言いたかったオチよりも、もっとみんなを笑顔にできる何かで、話を終える日がくるだろうと思ってグッと「笑い」に逃げないようにしたい。

 

 

それは、初対面の人と会った時でも同じだ。やさしい人が好まれるのは、当然だと思う。となると、やさしい人になりたいものだ。

 

 

「面白い」とは、発見があることだ。みんなが知らないことや、意外な考え方を提案できる人が、面白いとぼくは思う。それは、ゴシップネタとか、誰かを蹴落とすことじゃなくて、神秘的なワクワクだ。だからこそ、もっといろんなことを勉強したいし、読んだり聞いてみたいことがたくさんある。

 

 

・・・・さぁ、どうしたものか。いまぼくの頭のなかには、今日のこの記事をどういうオチで終わらせようかという悩みが消えないのだ。どうしたものか。言ってるそばから、適当なオチをつけるわけにもいかん。

 

 

う~ん、むずかしい。

 

 

ぼくは、笑わせるより、笑顔になってほしいのだ。