入れ歯さがし
お正月が好きだ。特番をボーッと眺めて、気づいたら夕方になって、あぁもう一日が終わるなぁと思いながら中途はんぱな時間に寝て、夜更かしをする。そんな、ぐうたらな数日間は最高だ。
小学生の時、よく祖父母の家で集まって、親戚一同でボードゲームをしていた。人生ゲームや、キャラクター物のすごろくをリビングに広げて、みんなで遊ぶ。いつもなら、遊んでくれない大人が真剣にゲームに取り組んでいる。子どもとは違って、戦略的にゲームをすすめる戦い方に、妙な大人への憧れを感じたりした。
「もう一回、もう一回」
そういって、親族を席に座らせて、長い人生を辿るゲームを何度もやっていた。父親はとちゅうで、お酒がまわって寝始めて、キッチンで洗い物をしている祖母に選手交代したりしながらお正月はすぎていった。
25歳になって、いまさら人生ゲームを広げることはなくなった。最初に語ったように、家でボーッとテレビを眺めていることが、最高の時間だ。なんだったら、家族のいないところで観たい。ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』を観ている途中に、口元を隠さないといけないのはめんどくさい。にやけてしまうから、隠さざるをえない。
「う~わ、にやけとる」
そういった、人の表情の機微を家族はよく見ているのだ。だからといって、あのドラマをにやけずに眺めていることは、不可能なのである。
今年の正月も、父親の祖父母の家へ行った。
大みそかに買い込んだカニを解凍していた祖父は、野菜の準備をしていなかった。雑炊までを楽しむのがカニ鍋のお楽しみなのに、お米も炊いていなかった。母が、キッチンへ立つ。「寒いわぁ」なんて言いながら、包丁の音が聞こえる。
お正月。数年前まで、このキッチンには祖母が立っていた。
その場所に母が立ち、祖母はリビングに座っていた。
祖母が倒れたのは、二年前のことだった。理由は、血圧の薬を飲んでいなかったから。どうして飲まなかったのかというと、どうでもいいやと感じてしまい、ひとりでいる時間はご飯すら食べていなかったようだ。
ぼくたちは、なんでそんなことを感じてしまっているのか分からなかったけど、父が何かを感じ取って病院へ連れて行った結果、あることが判明した。
おばあちゃんは、認知症になっていた。
症状はすこし進んでいて、無知なぼくでも認知症が完治する病気ではないことは分かっていた。会社の研修で、その病気について学ぶ機会があって、すごくあいまいなことではあるが、やっぱり進行を遅らせるには会話がたいせつだと教わった。
ぼくはすごくショックを受けたけど、でも、本人の感じているショックを思うと、何一つ変わらないで接することがいちばんだと思った。だから、週に1度は祖父母の家へ行き、そこから出社する生活をするようになった。
いざ、いつも通りに接しようと思っても、そう簡単にはいかない。なんとなく、会話の内容がとんでいる気がするし、それがただの物忘れなのか、認知症の症状なのか分からない。最初は、なんとなくぎこちない会話をしていた気がする。
だけど、テレビをボーッと眺めて、なにか小言を祖母と話しているとまるでお正月のお昼に、寝転がって過ごしているかのように軽快な冗談がポロポロ出てくるようになった。映画を観ていても、「ここの矛盾が気にならへん?」と語りかけると「う~んそうかなぁ」と祖母は返した。会話が成り立っているのか分からないけど、でも笑いながらお菓子を食べて一緒に時間を過ごす。
デイサービスに通うようになって、祖母は病気を感じさせることがないぐらい元気になった。友だちができ、レクリエーションが楽しく、食事もおいしい。最初の頃に比べて、たくさんの話をぼくにしてくれるようになった。
「これねぇ、わたしも出たことあるんよ」
NHKのど自慢大会を観ていたときに、祖母がいった。祖父も知らない話だった。証拠はひとつもなく、記念品のようなものも1つも無かったけど、ぼくはその話を信じた。
どんな歌をうたったのか、リハーサルの様子はどうだったか、質問をしても答えはぜんぶ「覚えていない」だった。
でも、「鐘は鳴った?」という質問には即答で、「鳴った、3つ鳴った」と答えた。
「悔しかった?」と聞くと、「いや、出れただけで嬉しかったよ」と笑っていった。
まだテレビが普及する前、ラジオ放送の時代の話だったが、祖母の思い出に触れることができて、しかも鐘が3つでも出れたことが嬉しいという感情を知ることができて、ぼくはすごく嬉しかった。
でも、ふと思った。
祖母が認知症になっていなかったら、ぼくはこの話に巡り合えていたのだろうか。もっと元気な頃に、いろんな話を聞いていたら、鮮明に教えてくれたことだったのじゃないだろうか。
時間を巻き戻せない辛さも同時に感じた。認知症という病気に、「時間がなんとかしてくれる」という言葉は通用しない。今も、ゆっくりゆっくりだけど、病気は進行していく。
だったら、ぼくにできることは何だろう。
手をつなぐように、肩をそえるように、祖母と時間を過ごしていくことだけなのじゃないだろうか。毎日はいっしょにいられないけど、映画の矛盾がどうかとか、吉本新喜劇に笑ったりしながら、祖母の思い出に触れ、ぼくの思い出を聞いてもらうことが今のぼくにできることだ。
母のカニ鍋の準備が整った。
お出しが沸き立ち、カニと野菜が並び、ポン酢を皿に注いだ。
「ばあちゃん、下の歯をどこやったん?」
妹が言った。よく見ると、祖母の下入れ歯がない。これじゃあ、カニ鍋が食えない。
「う~ん、どこやったやろ、分からへんなぁ」
久しぶりに、感じた祖母が認知症だったという事実に、お正月のお昼がすこし暗くなりかけた。それがすごく嫌だった。でも、ぼくたち家族は、みんな、祖母の病気を受け入れて進む決意のようなものがあったと思う。
「入れ歯さがしゲームしよか」
ぼくのくだらない冗談に、みんなが賛同した。
いい大人がみんな、正月の2日から、入れ歯を探している。ゴミ箱の中、お菓子の箱、トイレ、ふろ場。みんな、歯があるのに、入れ歯を探している。その光景は、とても面白く、なんとなくみんなで笑った。ぼくはというと、言い出しっぺのくせに、そんなに参加せず『逃げるは恥だが役に立つ』を観ていた。でも、口元のにやけは、ガッキーの力だけでは無かったと思う。
結局、入れ歯は見つからなかった。ばあちゃんは、のこった上の歯で、父がほぐしたカニをうまそうにほおばっていた。ぼくは、それを遠めに必死で自分のカニを確保していた。
ボードゲームをしていたお正月とは、ずいぶん変わってしまったと、ぼくは何となく思っていたけど、でも何も変わっていなかったと思う。
「入れ歯さがし」というゲームを家族みんなで遊び、正月のお昼をすごした時間は、あの頃のまんまだったのだ。
しいて言うなら、今まで祖母がやっていた皿洗いを、妹がふてくされながらやっていたことぐらいだろう。