得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

ネギを隠した日。

 

ありがたいような、別に求めていないような、会社の努力賞のようなものをもらった。もうこれで最後かもしれないボーナスには、ちょっとだけ上積みがされていて、それはそれでよかったなぁと思っている。

 

 

表彰をされると、職場の風習というか、お決まりのようなもので、「みなさんのおかげで賞をいただくことができました」というプレゼントのようなものを贈る必要がある。まぁ、周りの人にも明確に分かるように、ぼくがいくら余分にお金をもらったかがバレているわけなので、致し方がないのです。

 

 

さて、どうしたものか。先輩に話を聞くと、ケーキがいちばん無難に喜んでもらえるということで、その案を採用することにした。ばかにならない出費になりそうだけど、何度もいうが、ちょっとした収入があったからこうなるのである。

 

 

いちばん手軽に買えるのは、職場の裏にあるお菓子屋さんだ。いつも、裏口で出会ったらおばさんは挨拶をしてくれるし、ご近所づきあいもある。おいしそうな匂いもするし、お値段も手ごろ。

 

・・・・と頭で考えていたけれど。

 

「あそこのケーキは微妙やで」

 

先輩の付け足すようなお言葉が飛んできました。そんなことを言われて、それを買ってくるわけにはいかないじゃないか。もうほんと、目と鼻の先にあるお菓子屋さんをすっとばして、ちょっと遠くにあるケーキ屋さんまでお買い物に行かないといけないなんて、もう本当に表彰状を返却したい気分でした。

 

 

吹き抜ける風に凍えながら、なんでこんなに寒いのにケーキを買いにぼくは歩いているんだろうと悲しくなりつつ、自転車をとばしました。たくさん並んでいる中で、好き嫌いの無さそうなケーキを選んで、そろそろと帰ります。崩したりしたら大変だ。

 

「やべぇ」

 

支店の裏口に入る直前に、ぼくはとつぜんドキッとした。お菓子屋さんのおばさんがいる。路地で、ゴミか何かを袋につめている。ぼくの両手には、ちょっと遠いケーキ屋で買った、それなりにお金のかかった差し入れがある。

 

バレたらどうしよう。気分を悪くさせたくない。隠すにしては難しい。ケーキを20個もどこかに潜ませて、ここを突破するのは絶対に無理だ。もしぼくが、一休さんならここにあるケーキをぜんぶ胃袋に入れて支店まで到達し、お殿様に得意げな顔をするけど、そういうわけにもいかない。

 

 

 

 

そういえば、小さい頃にもおなじようなことがあった。

 

 

母親は、いつもぼくにおつかいを頼んだ。スーパーで買いそびれた野菜を、家の近所の八百屋さんへ小銭をもたせて、ぼくを送り出した。その店は、おじさんとおばさんが2人でやっていて、いつも笑顔で出迎えてくれる温かい八百屋さんだった。

 

 

野菜は、頼めば切って渡してもらえて、おじさんがいちばん良いものを選んで入れてくれました。帰りには飴玉をもらったし、登下校であいさつをしたら、いつも手を振ってくれ、お釣りはみかんのカゴに入っていて、お客さんとおばさんはいつも談笑をしていた。

 

 

「今日は、あそこのフレッシュでネギを買ってきて~」

 

 

ある日、母はぼくに店の指定をしました。フレッシュは、最近できた野菜専門のスーパーで、新鮮でかつお安い商品がならぶお店でした。八百屋さんよりも、お安くそして、種類も豊富で、サイズも幅広い。登下校の時にうすうす感じていたけど、近所の人たちの足は、確実にフレッシュへと向かっていました。

 

 

ぼくは、すごく嫌でした。フレッシュへ行くためには、八百屋さんの前を通らないといけない。家に帰るためには、八百屋さんの前を通らないといけない。いつも優しくしてくれた2人を裏切るような行為が、ものすごく嫌でした。外は真っ暗だったと思います。豚汁か何かに入れるネギが足りないという母に、「ネギなんていいよ」とそれとなく拒否を示したことを覚えています。

 

 

そんなうす~いストライキも母には通用せず、気づいたらフレッシュでネギを片手にレジに並んでいる自分がいました。遅い時間にも関わらず、たくさんの大人が野菜を買いに来ていて、八百屋さんには誰もお客さんはいませんでした。

 

 

帰り道です。ぼくは、大きなネギを持っています。誰がどこから見ても、ネギです。フレッシュは八百屋さんのように、ネギを切ってはくれません。太くて、でっかいネギは、孫悟空の如意棒のように小学生のぼくには長く見えたと思います。

 

 

「隠して進もう」

 

 

ぼくは、シャツの中にネギをつっこみました。それでもはみ出るから、ズボンの中にまで青い匂いをしまいました。緑の部分がシャツ、白い部分がズボンといったところです。そして、ロボットダンスのようにぎこちない動きで、八百屋さんの前を通過しました。

 

 

すごく怖かったです。おじさんとおばさんに挨拶はできませんでした。顔は、ずっと下がったまま。ネギは少しづつ、ずり落ちてきます。たった30秒ほどの歩行は、とても長かった。そして、通り過ぎてから家までの道のりは、すごく一瞬に感じました。

 

 

それから、1年ぐらいして八百屋さんは店を閉めました。その時の、胸のチクっとした感覚、いまでもあの日のことを思い出すのは、まだ心に棘がささったまんまなのかもしれません。

 

 

今日、ケーキをたくさん抱えて、路地でお菓子屋さんのおばさんと出会ったときに、その棘の存在に気づいて、触ってしまったのだと思います。だけど、ケーキは隠せない。ズボンの中にも、シャツの中にもしまえない。あの頃のぼくに比べたら、洋服のサイズも大きくなったけど、崩すわけにもいかないし、汚いぼくの体にケーキが触れたら食えたもんじゃない。

 

 

意を決した。ひとつ折り合いをつけた。

 

おばさんの店よりも、こっちのケーキ屋さんのほうが美味しいから仕方ないじゃないか。それが社会ってもんだろ。商売ってもんでしょう。

 

そんなことを、無言で思いながら路地を通った。おばさんは、偶然にもぼくの存在に気づくことなくお店へ戻っていく。その後ろ姿を確認して、すこしだけ足を速くさせる。職場の入館キーを押して、ようやく息をつく。

 

 

いつからだろうか。折り合いをつけることが、ちょっとうまくなった。それが社会ってもんだろうと、言い聞かせることが増えた。

 

でも、やっぱり心苦しい。

 

 

買ってきたケーキは職場の人たちにすごく喜ばれた。ぼくも食べたけど、なんとなく、あの息苦しさを感じる価値があるようには思えなかった。

 

 

八百屋のおじさんとおばさんは、元気にしているのだろうか。

ネギを隠して歩いた日のことを、ぼくは忘れたくないと思った。