「死ね」って言われても、死なないよ。
「死ね」と言われて、どんな顔をしたらいいのでしょうか。
なんと答えたら、いいのでしょうか。
『いじめ』について、真剣に考えている。大学生になって、会社に入って、心底思うことが、いじめがない空間が、どれだけ素晴らしいことなのかってことだ。それだけで、ものすごい幸福感を得て生活をしている。
たくさんの友達や、先輩後輩にかこまれて、毎日すんごいしんどいくせに幸福を感じれていられるのは、『いじめ』がそこには一切ないから。それに尽きると思うのです。
中学生のころに、水泳をやっていました。
話はとつぜんに。
毎日、練習に行って、まわりの人たちに「死ね」と言われ続ける数年をすごしました。そいつらの中で、内部分裂が起きたりもしていて、居場所をなくした人間が、ぼくに話しかけてくる日もありました。
数日したら、また仲直りしたのか、一瞬のともだちは「死ね」を言ってくる人間になりました。
ぼくは、泳ぐのが下手でした。まわりの人達より、タイムも遅くて。そして、太り気味だったのでからかわれて。いつのまにか、それが「死ね」にかわっていて。
スヌーピーとプーさんに似ているから、スヌープーと言われていたこともあるし、長州小力が流行っていたので、小力と言われていた時期もあります。
余談ですが。
流行り廃りがあるなぁと思うのが、長州小力という悪口が、いまはサブいですよね。
でも、スヌーピーとかプーさんは普遍的な存在だから、いまも使える悪口なんだと思います。
余談でした。
ぼくは、2005年のM-1グランプリが大好きです。その年に優勝したのはブラックマヨネーズなのですが、入場してくるシーンがものすごくかっこよかったんですよね。
『 モテない男たちの逆襲 ブラックマヨネーズ 』
こんなキャッチフレーズだったのですが、別にモテたいとかそんな感情があったわけではなくて。ハゲとブツブツというコンプレックスを前面に引き出したVTR。どうせ、コンプレックスだけを笑いにしているんだろうなぁと、当時のぼくは思っていました。
だって、その頃のぼくには、スヌープーと言われても、小力と言われても、ヘラヘラするしか方法が無かったから。
ここで、小力のモノマネでもしようもんなら、周りは爆笑だったのだろうけど、悪口として言われたことを受け入れてしまうことはどうしてもできなかった。
だから、親が与えてくれたスヌーピーのタオル入れも破いて捨てたりしてました。
でも、ブラックマヨネーズはちがった。見ていて、もう爆笑した。4分ぐらいのネタが、ずっと笑いっぱなし。オチにすこしだけコンプレックスを混ぜ込んでいたけど、そんなのどうでもいいくらいに圧倒的に面白かった。
お腹が痛いぐらいわらって、観終わった感想は、「おもろい」よりも「かっこいい」が大きかったのを覚えています。ビデオに録画していたから、何度も何度も再生した。
「そうだ、面白いことは、かっこいいんだ」
水泳のタイムがはやいのがどうした。くそったれが。
そんなことよりも、面白い人間のほうがよっぽどかっこいいわ。
毎日「死ね」と言われることが当たり前の日常を、その漫才は否定してくれた。
どうして、ものさしを1つしかぼくは持てなかったんだろうか。
それから、世界は大きく開いていったことを覚えています。
お笑いがもっと大好きになったし、ラジオを聴くようにもなった。今まで、単純に笑うためだけに見ていたガキの使いのトークを、笑いの勉強のために見るようになった。
スポーツをやっていたり、勉強を頑張っていたりすると、それができない人に対して嘲笑の目が向けられる空間があったりしますよね。スクールカーストとかそういうやつは、もっとひどくて、外見とか「なんとなく」とかそんな感じだったりする。
「死ね」と言われる理由を考えているとき、ぼくは自分が泳ぐのが遅いからだと勝手に解釈をしていました。あとは、すこし太っていたから。
でも、なんでそんなことでイジめられないといけないんだろうか。
おもろい=かっこいい という、ものさしを持てた瞬間、「死ね」としか悪口が言えない相手が、すごくレベルの低い人間に思えて仕方なくなってきたりしました。肩パンという行為で、人の腕にあざを作ることしかできない人間は終わっていると思えるようになりました。
それから、1年ぐらいでぼくは水泳を辞めたんです。
山口百恵のように、ゴーグルをプールサイドに置くことはしませんでした。
だいたい、みんながもらったりする色紙は、ぼくにはありませんでした。
どうでもよかった。
あのプールサイドは時間がとまっている。
きっとぼくがいなくなっても、また同じように、くだらないものさしで人を判断して誰かが「死ね」と言われていくだけなんだ。そんな場所に、いる必要なんて、ひとつもなかった。
高校生になって、大学生になって、社会人になって、「死ね」と言われなくなっている。生きていることを肯定もされないが、否定されることもなくなった。ぼくは、プールサイドを抜け出して心底よかったと思っている。
生きていることを否定されないということは、本当にしあわせだ。
誰かと会って「死ね」と言われないことは、本当に最高だ。
もし、あの頃のぼくと同じようにプールサイドにとどまっている人がいたら、今すぐにでもゴーグルを置いて抜け出してほしい。百恵ちゃんのように華やかな終わりかたなんかしなくていい。かっこ悪くたってかまわないし、周りになにを言われようが関係ない。
そういえば、大学生の頃に、
知人に「〇〇って、スヌーピーにちょっと似てるよね」と言われた。
「ほんまに?まぁ、たしかに似てるかもしれへんなぁ」
と答えて、話はスヌーピーの話題で盛り上がった。
ふしぎだ、あの頃と全然違う。
でも分かる、分かるんだ。悪口かどうかなんて、すぐ分かる。
ぼくはその時に、心の底から、いまいる場所が幸福なんだと気づけました。
2005年のM-1グランプリが、ぼくの人生を変えたように、
人それぞれに人生を変える何かがあるんやないかと思うんです。
だから、ぼくも何かを生み出せるような仕事がしたいんだなって思うんです。
…あぁこれを就活で言えば、人生変わってたかもなぁ。
なんてね。
最後に、本当にいちばん言いたいことを。
人は、「死ね」と言われた人間の顔を一生覚えている。
いまでも、夢でその顔が浮かぶことがあります。
周りの人から、そいつらの話を聞くことがあります。
ただただ願うことは、そいつらの人生が失敗すればいいということだけです。
いまのとこ、誰一人オリンピック選手になっていないことが、最高にうれしいです。
あれ、そんなことを言ってしまったら、
さっきまでのやさしい感じが台無しじゃんって思ったりしますか?
それだけ、『いじめる』という行為は酷いものだということを、分かってほしくて。
気分を害してしまったらごめんなさい。
あぁ、どうしよう。
そうだ。
ブラックマヨネーズの漫才をみて、
笑ってください。
笑いの趣味は人それぞれなので、
ハマらなかったらごめんなさいね。