死んでも、いい名前でありたいな。
色々わけがあって、じいちゃんが住んでいた家に住んでいる。
なんだかんだで、ひとりで暮らすことがしあわせ。
好きなものを食べて、好きなものを飲んで、
好きな本を読んで、嫌々な出社。
帰ってきたら、好きな映画を観て、あんまりな野菜ジュースを飲む。
気づいたら朝がきていて、また、嫌々な出社。
出社さえなければ、もはや楽園ともいえるこの環境を、
のびのびと生きています。
おかげで、体重は増えるし、部屋は本だらけ。
積み上げられた雑誌のタワーが崩壊をはじめます。
そして、放ったらかしにされたガス代の未払い通知に気付かず、
至福の時間をもとめて裸になってひねったシャワーからは、
冬のつめたさでキンキンに冷えたお水が降ってくることになります。
お風呂のぬくもりと、髪のうるおいを求めて、
コンビニへ走る瞬間はもう慣れたもので。
今シーズンは2度目のランニングに思考はいたって冷静です。
お金を払って、サポートセンターに電話をして。
契約者の名前を言って、供給を再開。
しばらくしたら、鼻歌まじりに湯船につかっています。
で、変えないといけないのだけれど、
ぼくの住んでいる場所の公共料金の契約者は、
祖父の名前になっている。
ひとりで暮らしていると、人の名前を口に出すことはそうない。
「ガッキー可愛いなぁ」とか、
「糸井さんやっぱり、あぁ~好きだ~」とか、
そういった類は別としていただきますが。
コールセンターの人に契約者の名前を聞かれたときに、
何か月ぶりだろうか祖父の名前を言った。
「そうだ、じいちゃんって、こんな名前だったなぁ」
20秒10円もかかる、供給再開の電話をかけながら、ボーっと考えていた。
1月に祖父母が眠っているとこに、手をあわせに行った。
カラスに蹴飛ばされたコップに水をそそいで、
生命力がはんぱじゃない草をひっこぬいて。
ヘビースモーカーの祖父に、すこしだけ線香の煙をあびせて、
すこしのあいだ二人に手をあわせた。
「いったい、いつになったらぼくは報われるんだよ」
「いいこと全く起きないんだけど、なんでなのよ」
あてつけのように、もやもやしている悩みを訴える。
「いつも、ありがとうございます」
「これからも、お守りくださいよろしくおねがいします」
敬意を持って、素直なきもちで感謝をのべる。
じいちゃんばあちゃんに愚痴を言う孫と、
ご先祖に敬意をしめす一人の子孫と。
2種類の接し方を、ぼくはしていた。
ガスが停まるまで、名前を口にすることは無いし、
今後、ひとり言でも絶対言わないと思うけど、
ぼくは祖父母の戒名をしっかり覚えて帰った。
なんとなくだけど、戒名ってすごくいい風習だと思ったからだ。
手を合わせると、
そこには確かに、じいちゃんばぁちゃんがいるんだけど、
もっと尊い存在がいるような気がして。
いろいろ思い出して馬鹿にしてるような、
そのくせに感謝してるような。
2つの感情を、2つの名前が受け止めてくれてるような気がしたんです。
関係ないけど、大好きな夢路いとし・喜味こいし師匠の漫才で、
鶏は死んだら戒名が「かしわ」
猪は死んだら戒名が「ぼたん」というやりとりがあった。
牛は死んだら戒名が「牛肉」なわけで、
「BEEF」になったらそれは宗教が違うから戒名みたいなのがあるのだろうか。
どうなのでしょうね。
戒名をメモして、家に帰って意味を調べてみる。
なんと、すごくいい名前を祖父母はつけてもらっていた。
お葬式のとき、いつもお経をあげてくれるお坊さんがつけてくれたそうだ。
センスがいいと思ったんだけど、ここには書くのはやめておく。
戒名であれ、プライバシーというものが多分ある。きっと。
特定されたらたまらないものね。
ぼくも、いい戒名がついたらええなぁとしみじみ思いました。
先日、珍しく部屋を掃除したときに、
引き出しの奥底から1つのCDが出てきた。
ジャケット写真には、どこかで見たことのある顔。
あんまり楽しい時に出会う顔じゃなくて、
なんとなく悲しい時や、眠たい時に会っていた人の顔。
そうだ、これはあのお坊さんだ。
きっとええ声にちがいないのだけど、
とりあえずそのままぼくは引き出しにCDをもどした。
ラベルの付いたまんまの新品のCD。
もうちょっと眠れない夜が続いたら聴いてみようと思う。
たぶん、重量感のある声なのだろうな。
星野源とかそういったタイプの声とはまた違う、
漬物石のような重みのある声なんだろうな。
また、忘れたころに出てきたら、
今度は開けて聴いてみよう。
うちのじいちゃんばあちゃんに、
あんなに良い戒名をくれる人は、
いったいどんな詩をきかせてくれるのか、
ちょっとワクワクしているのですが、
なおした引き出しを忘れてしまって、
結局いつもの音楽をたれながしている、
ひとりの夜になりました。
あぁ、あと数時間で嫌々な出社だ。