得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

「正解」を出すことについて。

 

 いつも、何が正解なのか分からなくなる。

 本を読んで学び、教育を受けて考えて、ひねり出した答えが、

 「結果がすべてやろ」という一言で終わることがたくさんある。

 

 たくさんの科目を毎日勉強して、

 テストをやって、点数をつけられる。

 赤点になったら、補習があって、正しい答えを教えられる。

 なぜ、あんなに必死に公式や人物名を教え込まれ、

 正解を出すことを求められたのか。

 なんでか、考えてた。

 

 

 正解を出すということは、「いいこと」を差し出すということだと思った。

 

 

 正しい知識を覚える生徒がすこしでも増えることが、

 先生にとって「いいこと」だったから、

 ぼくたちはたくさんのことを教えられたのじゃないだろうか。

 

 

 会社は、出された問題に対して、

 研修でのテストでは100点の答えを出しても褒めてはくれない。

 本を読んで、講師の言っていた方法論でまじめに仕事をしていても、

 結果が出ていないと指導をされて、補習が待っている。

 

 

 会社にとっての「いいこと」は、

 業績をあげて企業価値をあげることだから。

 

 上司にとっての「いいこと」は、今月の部署の成績を上げるだから。

 

 

 だからこそ、習ったことより、もっともっと頭を使わないといけない。

 今回がダメでも、次は「いいこと」を差し出さないといけない。

 社会に出て、正解を出すというのはそういうことなのだろうと思った。

 相手が「いいこと」と判断してようやく、

 自分の答えは正解になる。

 

 とても、生きづらい世の中だと思うかもしれないけど、

 そうじゃないとぼくは思う。

 

 相手にとって、何が「いいこと」か考えて答えを探す。

 それが、人生の楽しみであり、目的の1つなんじゃないかと思う。

 「いいこと」を差し出せば、時々、「いいこと」が舞い込んでくるから。

 

 打算的ともとれる生き方なのかなぁ。

 でも、「いいこと」をたくさん周りからもらうためには、

 自分も努力をする必要があるのじゃないかなぁ。

 

 

 こうやって考えていることすら、

 もしかしたら誰かにとって「わるいこと」なのかもしれないけれど。

 

 

 あぁ。

 体に「わるいこと」と思いながらポテチをつまんで、ボーっとしている。

 今日は、新聞を読んでないし、洗濯もしていない。

 でも、自分のことだから、ええかなぁ。