釜めしが気になる話。
今日は、釜めしが気になる話を。
その前に、釜めしの気になる話を。
我が国、はじめての釜めしは駅弁だと言われているそう。
おぎのや「峠の釜めし」をご存知でしょうか。
55年前、会長が自ら駅に立ち、お客様の話を聞くことで、
あたたかい駅弁が食べたいというニーズに辿りつき生まれた駅弁。
今も、駅弁として人気の商品です。
ぼくたちが、電車であたたかい弁当を食べられるのは、
釜めしが生まれたからなのかもしれませぬ。
言いすぎでしょうか。
いや、あたたかい弁当を作り出すという製造方法は思いついても、
駅弁で出すというアイデアは、お客様の声を聞かないと出てこない。
ぼくたちは、どこにいても、
ぬくもりのある食べものを欲しているのです。
こんなに釜めしの歴史を語っていると、
会場の後ろの方から、
「米は、はじめから釜で炊いているじゃないか!」
という野次が飛んできそうである。
そんな野暮なことを言うもんじゃありません。
汗がたれるじゃないか。お静かに。
釜めしというのは、味が付いているのだ。
そして、釜に入ったまんま食べるのだ。
だから、時間がたっても温かいのだ。
蓋を開けたら、おいしそうな香りがぼくを包み込むのだ。
ふぅ。今日は、これぐらいにしておいてあげましょう。
釜めしが気になる話をします。
場所は居酒屋。
ここに、店員さんが持ってきた釜めしがあります。
「釜めしは、出来上がりにお時間かかりますがよろしいでしょうか」
なんて断りを言われてまで、注文した釜めし。
下の固形燃料が消えるまで、おあずけをくらうのです。
なかなか消えない火。
周りにおいしそうな料理が並んでいても、気になって仕方ない。
開けてみたい。ちょっとだけ中をのぞいてみたい。
『あけたら台無し』
だいたい、みんなが分かっていること。
だから、机の上の釜めしは存在しないかのように扱われる。
そして、火が消えたとき、
「あっ、いつのまにか火が消えてる!」
なんて、とぼけたことを言いはじめるヤツが出る。
釜めしって、ちょっとだけ、野次馬と似ていると思うんです。
外を歩いていると、近くでパトカーの音がする。
そして、救急車の音もする。
どこで鳴っているのか気になる。理由は何だろう。
事件なのだろうか、それとも事故か。
誰かの不幸には違いないので、あまり野次馬はしたくない。
それでも、不思議。足は、音のほうへ向かってしまうのです。
それに比べて、釜めしは存分に気にしてもらっていいのです。
なんだったら、開けてくれても別に大丈夫。
ちょっとだけ、周りからブーイングが出るけど、それも楽しい。
野次馬にジレンマを感じる人は、釜めしで解消してください。
見たいけど、見たくない。だけど、見ちゃう。
これが、野次馬と釜めしの関係性であるのです。
人の不幸がないほうを、楽しみましょう。
さて、居酒屋に戻ります。
待望の出来上がりのくせに、みんな気にしてなかったような素振り。
そして、蓋の取り合いがはじまる。
なぜなら、釜めしには香りが閉じ込められているからです。
蓋をあける瞬間こそ、最大の極楽なのです。
ちょうど、鼻の位置に立ち込める香り。
しょうゆのような、鶏肉のような、きのこのような、ふんわりとした香り。
この瞬間のために、長い時間待っていたのだ。
おこげの存在を嗅覚で感じるこの瞬間を。
おなかがいっぱいのはずが、また空腹が訪れる。
ふしぎな現象だ。でも、茶碗を持って構えてしまう。
ここで、また論じるべきなのは、
釜めしを茶碗に盛るときの人々についてなのですが。
書いてるぼくも、おなかが空いてきたので今日はこれまで!