得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

就活に傷つくのは、もうやめよう。

 

 

就職活動をしていたとき、ぼくは会社というものが、これほどまでに平凡な人間の集いだと思ってもいなかった。ぜんぜん面接がうまくいかなくて、内定も貰うことができなかったので、よっぽど凄い人たちが仕事をしているんだろうと、そう思っていた。

 

ぼくが働いている会社が、とりわけ、平凡なのかもしれない。でも、就職活動をこれからされる人たちに言っておきたいことがある。別に、偉そうなことを語りたいんじゃなくて、自分を守ってほしいから言う。

 

何言ってんだとなったら、すいません。でも、置いておきたくて。

 

会社なんて、平凡な人間の集合体だ。

 

 

自分をふくめて、そう思う。けなしてるんじゃなくて、言葉通り平凡なのだ。

 

 

就職して最初の上司は、半年で異動になった。その転勤先は、銀行ではなく、別の会社だった。出向である。いままで30年間、銀行員として働いてきて、とつぜん全く異なる世界へ移る。それも、転職ではなく辞令でのこと。決心もくそもない。

50歳をこえる大人のしょげている背中は、とてつもなく寂しかった。

 

 

「ほんまに嫌だし、最悪やわ」と上司は本音をもらしていた。その姿をみて、「あぁ、なんや、ふつうの人間やん」と、そう思った。勝手に、社会人は転勤や出向をものともしないと思っていたけど、嫌なものは嫌なのだ。

 

 

 

社内では、いつもみんながみんな仕事のことを考えているわけじゃない。どう考えても、奥さんと喧嘩したとしか思えない人が、とてつもなく悪い空気を作ったりする。かと思えば、娘の誕生日だからとご機嫌にふるまったりもする。

ひとりの家庭状況に振り回されて、ぼくたちは背筋を伸ばしたり、声のトーンを変えたりしないといけない。上司や同僚の数だけ創意工夫が求められる。

 

今日の天気予報を確認してくるより、会社の人たちの朝の表情を見るほうが重要だ。天気がどうか、仕事がどうか。そんなことよりも、自分が無事に家に帰ることができるかを気にするべきだ。

 

もっとしょうもない理由もあると思う。パチンコで負けたとか、不倫がばれたとか、阪神タイガースが調子悪いとか、こんな理由で不機嫌に巻き込まれることが会社ではしょっちゅうある。

 

 

イジメだってある。あの人は空気が読めないとか、直接言わずに、聞こえてそうな場所で話している人もいる。若い女性社員の愚痴をきいている、その中年のおやじの顔は、とてつもなくニヤけていたりする。その人が、いろんな女性社員に毎日ラインを送っていることは、みんな知っている。愛人関係にある部下をつれて、前に働いていた支店を訪れる偉い人もいたなぁ。

 

 

 

こんな人たちが、それなりに仕事をして、お給料をもらって生活をしているのが会社です。ぼくなんか、仕事の半分はサボっていますし、昼寝のしすぎで頭痛薬を飲む時だってある。

 

 

サボりたいし、人見知りはするし、転勤はいやだし、彼氏と別れると機嫌が悪いし、自分が調子がいいと周りに明るくするし、イジメっこはいるし、エロおやじもいるし、愛人を見せびらかしたい。そんな人たちが、会社にはいっぱいいる。

 

 

 

就職活動をしていると、たくさん面接を受ける。面接官は、いわばこっちの運命を握っているわけで、この人に好印象をもってもらうかどうかに必死になる。なにか難しい顔をして、志望理由や自己PRを聞いているけど、頭の中は、息子の受験結果でいっぱいだったりする。

 

それなのに、ぼくたちはどうしても、面接官の人をとても偉い人だと思い、御社のことをとても徳の高い存在だと勘違いしてしまう。何も考えていない人とかに、ちょっと偉そうに指摘を受けたことを、真に受けて凹んでしまったり、閉じこもってしまったりする。

 

 

その面接官を、ゴリゴリにつめている上司がきっといる。

 

 

嫌味なことや、バカにされたような態度をとられたり、お高くとまった話し方をされて、結果的に落とされてしまっても気にすることはない。面接官という役をおりたら、その人たちは自分たちの部署で、やたらめったら上司に怒られている。「でへへ」なんて頭をかいて、うまいこと逃れようとしたりする。

 

何も考えていない人に限って、うまく言うことに慣れている。ぼくもたぶん、面接官をやれって言われたら、それなりにグダグダ就活生を困らせることができると思う。考えているように見せるのが、社会人はうまいのだ。そうやって、パフォーマンスをすることで、なんとかやっていく、そんなサラリーマンがほとんどだ。

 

とつぜんにチャンスタイムの音楽が鳴り、立場が逆転したとする。

 

面接官が就活生に、就活生が面接官になったとして、話している内容を比べたとすると、きっとみんな、汗を流してしどろもどろだ。下手したら、あなたのほうが、しっかりしたことを言っているかもしれない。

 

 

御社は、御社である以上、いつまでも就活生を特別扱いはしない。

 

人事部は、採用活動をすることでお金をもらい、子供を大学に通わせる。面接官は、休日出勤の手当てをもらって、翌日は競馬場へ向かう。

 

 

それぐらい、社会人は就活生が思っているよりも平平凡凡だ。みんながみんな、自分本位で動いている。人生をささげて仕事をしているのだから、当然だ。

 

 

ちょっと機嫌が悪い日だから、面接官が厳しかったりもするだろう。前の日の合コンでうまくいったから、就活生にやさしいイケメンの採用担当もいるだろう。そんなことに、一喜一憂しないでほしい。

 

 

 

消費される側に、どうかならないでほしい。

 

必死な姿を、その日の夜の話ネタにされないでほしい。

 

ぼくは何回でも言いたい。偉い人も、スマホゲームをして、部下にハートを送ったりしている。Facebookに、マラソンに参加して完走した喜びを絵文字たっぷりで報告している。スポーツ新聞の風俗欄を眺めている。娘の反抗期に、寂しさを感じていたりする。

 

 

そういう平凡な人間が、会社をやっていると思ってほしい。

 

 

むやみに傷ついたり、落ち込んだり、そんなことはしないで、いい会社と巡り合ってほしい。面接がうまくいかなかったり、偉そうなことを言われたらこう思ってほしい。

 

 

その人は今日も朝の通勤で、必死にパズドラをやっている。イヤホンから流れる音楽は、あなたも大好きな乃木坂46の表題曲で、月曜日だからコンビニでハンターハンターを立ち読みする、そんな平凡な人だ。

 

 

無理せず、就活に挑んでほしいなあ。

 

 

こうやって人には言えるけど、でも、ぼくも転職活動をしている身です。

不採用で落ち込むし、書類選考は通らないし、行きたかった会社から連絡は無いし。

 

 

自分ができないことを、人に言いたくなるのは、面接官もおなじですね。

前夜が好きだ。

 

前夜が好きだ。

何かが起こる、前の日の夜。

 

布団の中で、ああでもない、こうでもないと色んなことを考える時間。明日になったら、もうこの時間は帰ってこない。

 

 

ドラえもんの劇場版には、「前夜」が頻繁に描かれる。

 

 

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藤本先生は意図的に(たぶん)、前夜をはさむようにしている。敵と出会って、そのまま戦いに移るのではなく、「明日の朝が決戦だ!」という流れがあって、夜がやってくる。

 

 

映画を観ていても、コミックスを読んでいても、この前夜が訪れるシーンにぼくはワクワクしてしまう。ドラえもんが出した、何かしらのシェルターにみんなが泊る。明日は大変だぞって言いながら、みんなでその恐怖を乗り越えようと、明るくふるまう。好きなものをたべ、しずちゃんはシャワーを浴びる。のび太は、旅先で出会った仲間と、一緒に空を見上げる。

 

 

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それぞれが、色んな思いを抱えて、明日になるまでの時間を過ごす。その前夜は、今しかない、答えも出ない夜になる。

 

 

 

 

・前夜は、決心の時間。

 

 

約三年前の3月31日、ぼくはまぎれもなく前夜を迎えていた。明日からは、社会人になる。どうしても逃げられない朝がやってくる。人生という、とてもながい戦いを前にして、祖父の家の二階の窓から、路上に咲いている桜を眺めたことをすごく覚えている。

 

こわい、こわくて仕方ない。明日からは、お金に困ることはないだろう。でも、その分、厳しい社会が待っている。そう思うと、眠るにも眠れず、24時をすぎるまでは大学生である自分を、どうしても大切にしたくて、布団を飛び出した。

 

 

 

 

 どんな人生になるのだろう。

 そもそも、銀行員になんてなりたくなかった。

 あぁ、ここから地獄の毎日だろうなぁ。

 でも、グダグダ言ってても時間はすぎるし、

 とりあえず何とかやってみるしかないなぁ。

 陰気臭いのは嫌われるから、挨拶はちゃんとしよう。

 

 

そんなことを考えていたら、ただただ時間が過ぎる。でも心を決めないと、眠れないような気もする。眠れないと、明日からはいつもより2時間も早く起きないといけないから、自分が苦しくなる。「寝坊してもうた・・・・まぁえっか」は許されない。

 

 

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そんなことをぐるぐる考えていたときに、行きついたのが二階から桜を眺めることでした。もう充分に悩んだじゃないか。これ以上、いまの時間を怖がっていても仕方ない、そうだ、ぼーっとしよう。そう思ったことを覚えています。

 

気づけば、布団に入っていて、朝がきて、ぼくは社会人になっていました。

 

 

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いま振り返ると、社会人前夜というあの時間は、とてつもなく大切な瞬間だったと思います。

 

勇気や決意といった、避けて通ってきたものと、真っ向から対峙する。でも、結局、どうすることもできずに何とか逃げる場所を探して、外を眺める。

こうやって、ここからの人生は進んでいかないといけないんだと、気づかされた瞬間でした。それはもしかしたら、逃げてるわけじゃなくて、戦ってるってことなのかもしれない。

 

睡眠不足で、そのまんま眠ってしまっていたら、味わうことのできなかった葛藤。藤本先生が描く、のび太たちとおなじように、ぼくも前夜を過ごしていたのです。

 

 

みなさんは、どうでしょう。どんな前夜を過ごしたことがありますか。

 

 

 

 

・前夜は、ひとりじゃない。

 

のび太結婚前夜という素晴らしいエピソードをご存知ですか。のび太ドラえもんが、将来しずちゃんと結婚する未来を確かめに行くのですが、結婚式の前夜に行われるやりとりを描いた名作です。

 

その中で、しずちゃんがお父さんに結婚を辞めると切り出すシーンがあります。私が出ていくことで、いままでたくさん愛してくれたパパとママを寂しい思いにさせてしまうことが嫌だと告白するんです。

 

そこでお父さんは、こう返します。

 

 

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有名な1ページですよね。この話をみて、涙ぐまないお父さんはいないのじゃないのかと、個人的には思ってしまうぐらい、美しい。いつか、じぶんが父になったときに、娘の結婚前夜はどんな気持ちになるのか。こんな感情になれたらいいなぁと、そう思います。

 

 

ひとりにとって、とても重大な前夜は、じぶんに関わってくれた人たちにとっても、特別な前夜なんです。明日、社会人になる自分に、両親はどんな感情を抱いていたのか。それは、まぎれもなく特別な夜。

4月1日も、変わらずに仕事へいく未来が待っていても、息子の人生に自分たちが関わってきたからこそ、やってくる前夜。

 

 

 

妹がこの春、社会人になると聞いて、あの時のぼくみたいな前夜を過ごすのかなぁと思ったら、ちょっとだけ感傷的になります。

でも、自分からは何も言葉はかけません。しずちゃんが結婚する前夜、ひとりで時間をすごしていたパパのように、ぼくはボーっとしていると思います。でも、そこにはちょっと感慨深いものはある。

 

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今日も、きっと誰かの前夜が訪れて、それにかかわるたくさんの人たちが、おなじようにいろんなことを考えて、空を見上げている。それは、藤本先生がドラえもんのなかでたびたび描いていた前夜と似ていると、ぼくはそう思うんです。

 

 

 

 

もうすぐ、春がやってきます。新しいスタートを切る人がいっぱいいます。

今日、大切な前夜を過ごしている。そんな人たちがたくさんいると思うと、ぼくには何も待っていなくても、この夜がすごく好きになってしまう。

 

 

 

 

前夜は、きっと、ひとりきりじゃない。

 

 

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ひとりで布団に入るけど、何人ものじぶんの味方が一緒の夜を過ごしていること。

それがちょっとした勇気をくれるはず。だからこそ、悩みすぎず、好きなカツ丼をたべたり、シャワーを浴びたり、歌をうたったりしなくちゃ。

 

特別な夜だけど、特別にしようと思わなくたっていい。振り返ると、その夜は、かけがえのない決心の前夜になっているはず。

 

そう思っています。

 

だから、前夜が好きなんです。

夫婦

 

夫婦のあいだに、座ることがよくある。食卓を囲んで、お昼ご飯を食べたり、お茶をしているとき、ぼくはふたりのあいだにいる。営業もそこそこに、出された食べ物をもらう。いつも話の中心は、家の住人であるふたりだ。

 

そして、「あんたは、こんな旦那さんになったらあかんよ」なんて冗談めいたことを、ご主人の愚痴を言いながら奥さんが口にする。それに対して、何を返すでもなく、へいへいと笑っている。

 

 

こんなやりとりが、頻繁にある。今日も、気づけば1時間ぐらい、夫婦の会話にぼくは挟まれていた。お孫さんの話や、昔の仕事の話を、ふたりは笑いながら語り合う。

 

 

帰り道、自転車をこぎながら思う。

 

 

「ぼくが帰ったあと、ふたりはどんな会話をしているんだろうか」

 

 

あの夫婦の会話に、じぶんは必要だったのかを、ちょっと考えていたのだ。

  

どうだろう。

 

 

ぼくに結婚のことや、息子の仕事話をすることで、夫婦は昔を懐かしみ、語りだしてくれる。家族の在り方について、ずっと考えていたことを教えることで、ご主人への愚痴を笑いながら消化する。

 

これって、夫婦がふたりきりでコタツを囲んでも、できない会話なのじゃないだろうか。さんざん、人生を一緒にしてきた夫婦がそんな会話を毎日するとは思えない。3人だからこそ生まれる会話が、そこにはある。

 

 

奥さんの話をふむふむと聞いて、ご主人に話をふる。苦笑いしている返答に、「ですって!」と笑いながら振り向く。そのやり取りの中で、なるほどなぁと思ったことを、詳しく話を聞く。それが、なんだかとても心地いい。

 

 

そうだ・・・。

 

 

やめなきゃなぁと思うのだけど、自分の存在意義について考えることが多い。

 

まだそんなに慣れ親しんでいないけど、でも、これから仲良くなっていきたいと思っている人たちと会うと、いつも肩に力が入る。何気ない雑談なのに、なにか爪痕をのこそうと意気込んでしまって、誰かを傷つけたり、迷惑をかけたりする。最近、そのことについてすごく悩んでいる。

 

ずっと憧れていた場所に身を置くことができても、数少ない時間で、どうすればそこにふさわしい人間になれるのか、焦ってしまう。

 

別に、存在意義なんていらないのに。そこに、いてもいいって言ってもらっているだけで、ありのままを受け入れてもらっているはずなのに。そんなことを考える余裕が、あんまり今はない。

 

 

 

 

 

「お父さんはね、わたしとお見合いするときに、実は好きな人がおってんよ」

 

奥さんが今日、とてつもない爆弾を落とした。ご主人も、ちょっと焦りながらも笑っている。ぼくは、声には出さないけど、すげぇ!すげぇ!と話の展開に身をよせて走っていた。そして、ご主人に話をふる。

 

「どんな人だったんですか?」

 

「この人とは真逆の性格や(笑)」

 

ただの爆弾を、ちょっとだけやさしく。それぐらいが、ちょうどいいのかもしれない。そこに座らせてもらえる関係性を、作ることを大切にしたい。

 

 

 

親からたまにlineが届く。

 

「次はいつ帰ってくるん?」

 

きっと、ぼくを囲んで話をしたいんだろう。お客さん夫婦のように、みなさんのお父さんお母さんも、きっと同じようなことを求めている。ぼくの両親も。夫婦だけじゃない、ふたりきりでは話せないことも、3人なら話せることがあったりする。

ふたりは、ふたりのようで、ふたりじゃない。

 

 

 

 

その話題に自分がいなくても、自分がいなきゃ始まらない会話が在ることを、もっともっと認めていきたい。

 

そうしたら、ちょっとは、肩の力が抜けて、素直に人と話せる。そこい居れる気がする。実家じゃなくても、好きな場所なら。

 

 

そんなことを、夫婦の姿から教えてもらった。

だったら、ふたりきりがちょっとぐらい会話がなくても、別にいいよね。

お風呂型タイムマシン

 

突然だが、わが家にはタイムマシンがある。のび太の部屋には、勉強机の中に。ドクとマーティーはデロリアンが。たしか、コインランドリーの洗濯機がタイムマシンだった映画もあったと思う。

 

ぼくの持っているタイムマシン、それはお風呂の形している。だいたいそれに乗るとき、ぼくは全裸になってタイムトラベルをしている。ターミネーターがやってきたとき、彼が裸だったのは、きっと同じ物を使用したからだろう。それぐらい、お風呂型のタイムマシンは、その世界では人気なのだ。

 

 

では、どうしてお風呂型のタイムマシンが人気なのかを説明したい。

 

 

もしよろしければ、みなさんの家にも導入してもらいたい。その際は、ぼくに紹介してもらったと業者に言ってください。別に、マージンをもらっているわけじゃないよ。ちょっとしたご褒美がもらえて、みなさんがまた友達に紹介したら、またぼくにご褒美がもらえるんだ。

 

 

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・お風呂型タイムマシンとは

 

 

ぼくはいつも、お風呂で考え事をしてます。なにぶん、燻ってるもんでして。

 

いい映画を観たら、どうして自分が思いつかなかったのか悔しがったり、大好きだったアーティストが大好きな漫画の歌を作っていたら、ちょっと嫉妬してみたり。面白いCMがあったら、どうすればこんないいアイデアが生まれるのだろうか。文章を読んで、なんでこんなセリフが思いつくんだろうか羨ましくて仕方ない。

 

 

ぼくもそんな風になりたいと思いながらも、同じことをしても意味がないと自制し、でもやっぱり悔しくて、お風呂でうなり声をあげるんです。

 

とくに、インターネットという世界に飛び出して、余計にその嫉妬する回数は増えました。周りには、面白い人たちがいっぱいいるからです。同時に、お風呂に湯をはるので水道代も跳ね上がりました。

 

お風呂ってのは、そうやって「うぬうぬ」と悩んでいるあいだも、体を温めてくれます。全裸で悩んでいるので、誰にも邪魔されず、情けない自分と面と向かって対峙できます。タイムマシンに乗り込むのは、そうやって、嫉妬の湯気がじぶんを包んできたときです。

 

 

 

 

大好きな映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、こんなシーンがありました。

 

 

主人公のマーティーが、自分がまだ生まれる前の世界で大好きなチャック・ベリーを演奏する。その音楽に感銘を受けたある男が、デビューする前のチャック・ベリーに電話をかけて、その演奏を聞かせるのです。「こんなイカした音楽知ってるか?」なんてことを言ったりする。

 

 

これは、大好きな曲は実は自分の演奏がもとになっていたという、タイムトラベルあってこそのギャグです。

 

あとは、こんなシーンも。

 

 

マーティーが、お父さんとお母さんをひっつけるため宇宙人に変装する。現在の世界にもどってきたとき、冴えないサラリーマンだったお父さんは、職業が小説家になっている。その小説のヒントは、実は彼の変装した宇宙人がもとになっている。

 

 

未来を別の世界に変えてしまう、タイムパラドックスというやつです。ドラえもんでも、たまにあるやつですね。

 

ぼくは、素晴らしい作品やアイデアに出会ったとき、それと同じことをするために、タイムマシンに乗り込みます。つまり、一種のタイムパラドックスを起こすのです。

 

 

 

そのアイデアはどこからきたのか、自分なりに仮説を立てる。笑いの構造とか、表現のもとになっているものを探す。ただ答え合わせをするために、その人のインタビューや本を読むのもいいのですが、どんな現象がヒントになっているかを作ってしまうんです。

 

そうやって、自分の頭のなかで、アイデアまで辿りつく道筋を作る。

 

 

 

ぼくが大好きな笑いを紹介します。

 

 

三谷幸喜さんと小林聡美さんがご夫婦だったころ。ふたりの飼っていた猫の名前は、『おとっつぁん』だったそうです。

「おとっつぁんが、朝起きたら冷蔵庫の中で死んでいた」

飼っていた猫の話をふたりがしていたら、隣のおばさんがすごい表情でみていた。おばさんは、会話だけを聞いて、お父さんが冷蔵庫で死んでいたのと勘違いしたという話です。

 

 

こういった、好きな笑いがあったとき、自分だったら、どんな経験があったら思いつくかを、ひたすらしつこく考えます。0から1の道を、自分で勝手につくる。

 

三谷さんが小林聡美さんと結婚する前にタイムトラベルをして、喫茶店でその作った話をするんです。

 

 

「このあいだ、アニキがようやくお手をおぼえたんよ、ほんと首輪も嫌がるし大変」

 

 

なんて飼っているペットの『アニキ』について、会話を三谷さんに聞かせるんです。

(やっぱりオリジナルが面白すぎるのですが・・・・そこはお許しを)

 

 

自分が起こしたタイムパラドックスで、お風呂をあがって観た映画ができていると思い込む。そうすれば、すんなりと、色んな好きなものについて自分なりのたどり着き方を持てるし、何かに使える気がしてくる。元ネタを知らなくても、これだったらできる気がしてきます。

 

 

自分だったら同じ構造を使ってどうボケるか。それを、タイムマシンにのって、本人より先にやった気分になって帰ってくるのです。

 

 

 

・・・・なんだか自分に言い聞かせてるだけじゃないかと、おもっていませんか。

 

そうです、その通り。言い聞かせているんです。でも、嫉妬というのは、そうやってこそ、血となり肉となる気がするんです。そうしないと、ほら、いつまでたっても憧れてばっかりじゃ、苦しくなっちゃうから。

 

大好きなものを、大好きで終わらせたくない。そんな気持ちもあるんです。

 

 

 

「ぼくが先に生まれていたら、思いついてたアイデアだった」と思うこと。

 

 

完全な敗北ですが、でも、逃げ出すよりはずっとマシなのじゃないかな。だから、今日もぼくは家に帰って、全裸になって、いま「すげぇなぁ」と思ったことを自分なりに解釈して、タイムマシンに乗り込み、教えに行くのです。

 

 

 

 

ちなみに、向こうで服を急いで買ったりするので、家は古着だらけです。安いからではないですよ、一応、当時のトレンドだったりするんですよ。

 

・・・・何言ってるんでしょうね。

とにかく、う~ん、ぼくはタイムトラベル系の映画が好きだし、お風呂で考えている時間が好きだってことです。

 

 

後出しじゃんけんで、思いつかないアイデアは、きっとない。

 

 

たいせつなのは、それを追い抜いていくことなんだろうなぁ。でも、それは、タイムマシンに乗ってもどうにもならないことなので、お布団に入って今度は、オリジナルで悩むのです。

 

 

悩み続きの毎日だなぁ。

 

 

みなさんも一家に一台どうでしょう、お風呂型タイムマシン。

ご契約の際は、なかむらの紹介だと業者に言ってくださいね。

職務経歴書が難しい。

 

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転職活動をするにあたって、職務経歴書を作っているのですが、これが難しい。仕事の実績や、どんなことを意識して取り組んでいるのかを書くのだけど、あまりにも書けることが少なくて、気分がちょっと落ちてくる。仕事を変えたいのに、仕事を変えられる自信が消えていくのです。

 

 

まわりまわって、語り口調で書いたりしたけど、しばしの沈黙があってパソコンを閉じる。

 

 

やってみます。

 

 

 

 

やぁみんな、ぼくの仕事を紹介するよ!

地方銀行の営業グループに所属、勤務経歴はもうすぐ3年。担当は個人の資産運用で、いろんな相談をうけるんだ。

 

投資信託・保険・定期預金なんでもこいなんだけど、時に、晩ご飯のレシピだったり、お孫さんの縁談について相談受けることもあるんだ。

 

なんでも相談してくださいね!って言ってるし、ちゃんと一緒に考えるんだけど、中には答えきれない質問もある。たとえば、愛人へのプレゼントだったり、うーん、夫婦仲の問題だったり、なかなか難しいんだなぁ。

 

「生きるとは?」って話もしたりするけど、人生の先輩がくれる言葉はすごいリアル。

 

 

「はじめて風邪を引いたけど、こりゃしんどいね」

 

「50年ぐらい、演歌をかけ続けて立ち飲み屋をやってるけど、本当はわたし洋楽のロックが大好きなのよ」

 

「仕事なんて、逃げるが勝ち、あんたも早く逃げなさい」

 

 

などなど、僕みたいな若造が普通に言ってたら軽く聞こえる話は、生きてきた年数があって、どしんと心にきます。

 

 

営業なんでノルマは、たっぷり!

 

毎月7000万円ぐらいの投資信託・保険の販売と、定期預金と年金と公共料金とクレジットカードと、あれとこれとこれと、山ほどあるんだぁ。

 

最近思うんだけど、投資商品よりも、自分がいいなぁと思う製品をすすめたほうが、販売実績が上がる気がしてる。お金を増やす、減らすよりも、「たのしく使う」ということを提案したいなぁ。

 

「これだけ利益が出たら、新しい冷蔵庫を買いましょう!」

 

「旅行に行く場所を決めて、5年後に向けて増やしましょう」

 

なんて話をしてる時は、ちょっと楽しかったりする。未来の話は、楽しくなくっちゃね。

 

 

年金が減ってくるとか、入院費にお金がかかるとか、それはそうなんだけど、結局、遊ぶためのお金が減ることが、人生をちょっと面白くなくさせてるってことだからさ。渡された、不安を煽るパンフレットは、その日にシュレッターしてるんだ。

 

 

あと、仲良くするために、あの手この手を使うよ。家に入ったら、カメレオンのようにそこら中を見回す。ポスターとか、本棚とか、写真とか、ありとあらゆる物でお客様と接点を探すのです。営業できてるけど、すっ飛ばして仲良くなるから、話がすごく長くなるんだぁ。

 

獲得ないのに長話してしまって、そんな時もたまにあって、最終的に支店に帰りづらくなって公園でスズメに餌をやることもある。虚しいね。

 

でも、そうやって時間をかけたお客様は、ほかの競合様には相談してないことをしてくれたり、ご家族を紹介してくれたらする。尻上がりな人間関係を目指しております。

 

 

自転車で営業していたら、そこら中から声をかけてもらえて、お昼ご飯をもらったりなんかもしてるんだけど、こりゃ、たぶん、「こち亀」の両さんにみたいな感じに近づけてるかも。

そろそろ、お孫さんのラジコン修理を頼まれそう。表札の設置は、やったことあるよ。

 

 

どうでもいいことをたくさん仕入れるようにしてる。小ネタや、新聞のすみっこ、お客さんの地元が出てたら切り抜いたりもする。

 

営業成績というより、仲良くなることを楽しんでやってるんだけど、最近気づいた、ぼく、若者の友達はすくない。笑

 

 

あっ。

 

提案して終わりとか、その場しのぎの営業で、最近、NHKで銀行の営業がすごく問題視されていたのを知ってる?元営業マンが告発したりしたんだけど、ノルマが厳しすぎて、年配の方に理解できてない商品を無理やり売ったりしてるって話。

 

あれはやっぱり、関係性の構築や、信頼を切り売りしているところに問題がある気がする。本当にいいと思える物を提案しないと、最終的に悲しい終わり方を迎えてしまうからね。あと、ノルマを達成できなくて、物を投げたりしちゃう上司さんもアウト。金属バットで打ち返したいね。

 

 

とにかく、人間関係にとことんこだわって仕事をしているんだぁ。だから、クレームは一度もなくやってこれてる。引き継ぎで、要注意と言われた人も、いまは温かく迎えてくれてることは、良かったと嬉しくなること。 

 

 

 

 

 

はい。こんなことを書いてました。

 

職務経歴書というか、仕事についてダラダラと語っているだけになっていて、でも、こうやって書かないとうまく言えないんだなぁ。

 

実績って何だろう。成約の金額なのだろうか。それだったら厳しいなぁ。

 

だって、ノルマなんて達成できたことないもん。迷走してますなぁ。

 

 

 

名前のつけようがない一日。

 

今日、あぁ~ええなぁ~と思うものを見た。

 

夕方の小学校、となりを自転車で走っていたら、その光景があって、停まってしまいました。休日に少年野球をながめるおじさんのような目を、きっとぼくはしていたでしょう。

 

校庭を日本の国旗が走っている。オリンピックで選手たちがたくさん見せてくれた、国旗を両手でせおうシーン、あれをやっている少年がいたのだ。風になびく日の丸、小柄な体はすっぽりと隠れてしまい、足だけがパタパタと土煙をあげている。

 

すごく写真におさめたい光景だなぁと思ったけど、これはちょっとやばい。校庭で遊んでいる小学生を、学校の外からカメラで撮っている大人は危険な香りしかしない。

 

少年は、なんの競技で優勝したのだろう。どんな舞台で、ライバルと競って、辿り着いたシーンを想像していたのだろう。

 

夢があっていいなぁと思いながら、平昌で世界に挑んだすべてのアスリートがくれた光景を、ただただ目に焼き付けて帰った。

 

 

 

 

支店へもどると、一件の電話が入っていた。

 

 

 

電話の主は、はじめて見る名前だった。はじめて見る名前だったけど、ぼくはその電話の理由は分かった。だって、苗字が一緒だったから。

 

 

先日、ここに『酒とたばこと女のための資産運用』を提案したお客様のことについて書いた。はじめて投資信託を買ってくれたおじさんで、サボっているところを目撃されたり、お孫さんの話をしたり、よくしてくださったお客さんだ。彼はいま、肺がんを患い入院している。

 

 

今日、かかってきた人は、その人とおなじ苗字をしていた。

 

 

まだ若々しい声は、ぼくに、お父さんの現状を教えてくれた。お父さんが持っていたぼくの名刺をみて、電話をかけてくれたようだ。もちろん、何かあったときの手続きについての確認でもあった。

 

 

いま、おじさんの意識は、ほとんどこの世にいないそうだ。先日、お見舞いでいちご大福をとどけたとき、すこしだけ笑ったおじさんは、いまこれを書いている間も病気と闘っている。

 

その間も、ぼくが買ってもらった投資信託は値動きを続け、利益を出したり、損失を出したりしている。なんだか不思議だ。お金も一緒に生きている。おじさんがこの世にいなくなって、相続が発生するまでぼくと彼のつながりは消えない。いまも、酒とたばこと女のための資産運用は続いている。

 

 

息子さんは、ぼくに無理難題を言わなかった。手続きについても、言葉を選ぶのに必死なぼくを察してくれたのか、また何か聞きたいことがあったら電話しますと、お礼を言ってくれた。きっと、いちご大福のお礼だ。ぼくは、そんな大したことを何もできていない。あげたのは、いちご大福が6個。それだけだ。

 

 

次、おなじ電話番号から連絡がきていたとき、どんな気持ちで、ぼくはそこへかけ直すのだろうか。直接出てしまったらどうしよう。「なかむらは異動になりまして・・・・」と言って、窓口に相続の手続きをぜんぶ任せてしまうこともできる。

 

 

 

「なんかあったら、この人にぜんぶ相談しなさい」

 

 

お父さんがそういったと、息子さんは何度か言っていた。

 

 

 

 

転職活動をしています。仕事をしていて、嬉しかったことや、なにをやりがいにしているかを、エージェントに聞かれてすごく困っています。こういう話をしても、苦笑いされちゃって、だからどうってことになってしまうのです。

 

でも、いま、ぼくの心はすごく温かいです。校庭で走っていた少年も、病気と闘っているおじさんも、おなじように、支えてもらっている気がします。

 

 

しまりのない文章になりましたが、今日はそういう一日でした。

ありがとう、ムサンバニ。

 

平昌オリンピック、観てます。

 

毎日、家に帰ったらテレビを観る。仕事をサボって、Wi-Fiのある場所へ逃げ込んでスマホで観る。時差がちょっとほしい。いつもなら、朝方まで競技にくぎ付けになるような生活になるのですが、韓国と日本はとても近い。仕方ないので、サボってオリンピックを観るしかないのです。

 

先日、羽生結弦選手の演技がはじまる直前、お客様を訪問するアポイントがあった。なんともタイミングが悪いと思いきや、その場所は町の電気屋さん。ご主人は、お店でいちばん大きなテレビの電源を入れてくれる。大画面で眺める羽生選手の演技、仕事なんてそっちのけだ。

 

思えば、この世に生まれ出てから25年。けっこうぼくはオリンピックを観ている。いつのまにか、テレビでずーっとオリンピックを眺めることが大好きになった。どの競技が観たいとか、特別なものはない。知らない競技も含めて、世界のトップクラスの技をみて、ルールを覚え、ちょっとだけ知ったかぶりして喜ぶのがすごく楽しい。

競技特有の技を覚えると、何気ない選手たちの動きに、すべて意味があることに気づく。そして、試合が終わった後に垣間見る、ふつうの人としての素顔を見るのもいい。

 

 

気づけば、オリンピック選手も多くが、同い年、もしくは年下になってしまった。それが、なんだか寂しい。この寂しさは、なんだろう。ぼくはまだ、オリンピックに出たいと思っているのだろうか。

 

 

 

「夢はオリンピックに出ることです」

 

 

 

小学校6年生の卒業文集に、ぼくはデカデカと夢を書いた。水泳帽にゴーグルを着用して、大きくガッツポーズをとっている自分の姿は、いま見ると溺れたいぐらい恥ずかしい。ただ、あのときのぼくの夢は、たしかにオリンピックだった。

 

野球をやっている子は、プロ野球選手。サッカーをやっている人は、Jリーガー。みんながみんな、その時にやっていたスポーツの格好をして、夢を語る。あのときのぼくたちにとって、アイデンティティとは一生懸命にやっているスポーツがそれだった。

 

 

そこからわずか3年、ぼくは水泳をやめた。しんどい思いをして泳ぐことから逃げ出した。オリンピックに出るという夢は、とうてい無茶なことだと判断し、惰性で泳いでいた数年は辛くて仕方なかった。

毎日、朝と夜に練習をしてもタイムは伸びない。正直言って、泳げば泳ぐほど、オリンピックは遠ざかっていき、そして消えていった。

 

 

中学校の卒業文集で、ぼくは何を書いたか覚えていない。ただひとつ言えることは、夢みたいなものを書かなかったことだけだ。「水泳」という心の頼りを捨てたいま、ぼくに誇れるものは何も残っていなかった。高校は、それこそなにもなく、モブキャラそのものだった。たぶん、ぼくのことを覚えていないクラスメイトもいっぱいいる。

 

 

 

「エリック ムサンバニ」の画像検索結果

 

 

 

エリック・ムサンバニという選手を知っていますか。

 

シドニーオリンピックの競泳、男子100m自由形赤道ギニアからはじめての出場となったムサンバニは、わずか8か月の水泳経験で、オリンピックの舞台に立った。

第一組、出場者のなかで最も遅い人たちが、3人並んでスタート台に並んだ。しかし、運命のいたずらか、となりの選手たちはフライングをしてしまう。その結果、たった1人で、ムサンバニは泳ぐことになった。

 

観客の目は、彼だけにそそがれる。実は、当時の彼は50mプールで泳いだことは一度もなかった。つまり、未経験でとてつもなく長い水路へ、ひとり飛び込んでいったのだ。

 

メダル争いをしている選手たちのように、立派な水着もきていない。ゴーグルも、小学生のプール通いのようなもの。フォームはばらばらで、今にも足がついてしまいそうな泳ぎ方。それでも彼は、手をまわし、足を動かし続けました。観客は大きな声で彼に声援をおくります。

 

折り返しの50mはもはや、溺れているのに近い状態。だけど、彼は泳ぎきる。タイムは、1分57秒72。ムサンバニは、赤道ギニアの国内記録保持者となった。そりゃそうだ。今まで、こうやって水泳に挑戦した人が、その国にはいなかったから。だから泳ぎきった彼は、それだけで記録者なのだ。

 

 

ムサンバニのことを初めて知った時、ぼくは小学生だった。

 

当時の映像を観て、話を聞いて、「一生懸命やるって素晴らしいなぁ」と感動したことを覚えている。そして、ぼくも頑張らなやきゃと勇気づけられました。水泳をする環境がそろっていない国の人が、一生懸命に100mを泳ぎきったこと。それが、「あぁいい話」だなぁと。

 

あの頃、ぼくはまだオリンピックを目指していた。叶わない夢と知らず、ムサンバニをすこし上から目線で眺めて、「頑張っている」と評価して感化されていた。だって、ぼくのベストタイムのほうが彼よりも50秒以上早かったから。

 

 

 

 

今日、ふと思い出して、ムサンバニの競技をもう一度観てみた。すると、あの頃にぼくが彼に感じていた「頑張っている」というちょっと上から目線の感情は、生まれてこなかった。

 

 

 

youtu.be

 

 

 

「かっこいい」と思ってしまった。

 

 

国の事情は別として、彼自身はみんなに注目されたくて泳いでいるわけじゃない。「ムサンバニも頑張っているんだから」と引き合いに出されたいという気持ちも、きっとない。そこには、ただがむしゃらに、50mのプールを行って帰ってくる。どんなに苦しくたって、ゴールをする。赤道ギニアの競泳としての第一歩を踏み出す。そういった決意のようなものが、ぐちゃぐちゃのフォームから、はじけとぶ水しぶきから伝わってきたのだ。

 

どうしてそんなことを分かるかというと、4年後、彼のベストタイムは1分をきっていたと聞く。人気者になって、それで終わりではなく、競泳を、チャレンジをムサンバニは続けていたのだ。

 

 

 

 

挑戦する人を、憧れるようになってしまった。

 

 

オリンピックを諦めたその時から、ぼくには卒業文集に書ける夢がない。いま、たとえば何かを卒業するとして、そのテーマが「わたしの夢」だったとしたら、頭が痛くなってしまう。小学校の頃の水泳みたいな、自分を誇れるものが見つからない。がむしゃらにでも、ムサンバニのように泳ぎ出すことができたら、どれだけ楽しいのだろうか。

 

 

ただ、夢や憧れの舞台に立つためにする努力が、どれだけ暗いトンネルであるか、ぼくは知ってしまっている。一度、夢を諦めたことが、広かった道に屋根を作り、暗闇を作り上げてしまった。

 

 

どうしてオリンピック観ていて、同い年の選手がいると切なくなるのか。それは別に、もうオリンピックに出られないことを寂しく思っているわけじゃない。ぼくは、このまま人生に大舞台もなく生きていくのだろうかという漠然とした虚しさを感じているのだ。

 

 

いつのまにか、挑戦する人たちを観て、憧れを抱いたり、かっこいいと思ってしまうようになった。それは、いいことなのだろうか。悪いことではないと思うが、それでいいのだろうか。

 

 

テレビでは今日も、オリンピックが流れている。暗いトンネルを抜け、辿り着いた選手たちの頑張りはやっぱり美しい。かっこいい。

 

 

負けたくない。同い年や、もっと年下であんなに輝いている人たちの姿をみて、ただただ拍手をしているだけは絶対に嫌だ。嫌なんです。かといって、じゃあ何をしたらいいのかも、それも分かっていないのですが、でも泳いではいたい。ムサンバニみたいにがむしゃらでもいいから、かっこよくありたい。

 

 

 

 

 

ありがとう、ムサンバニ。

あなたはぼくの、憧れのスイマーです。

 

負けないぞ、ムサンバニ。

あなたはぼくの、ライバルのスポーツ選手です。

汚れた足元を愛したい。

 

革靴のつまさきが剥げている、靴下に穴が空いている、そもそも足が臭くなる。

 

家の玄関を開けた瞬間、あらゆる自分の情けない足元を受け入れることになるのだが、それを愛おしく思う日がある。

 

なにも、嬉しげに足を嗅ぐとか、そんな話ではない。歩いたということを、噛みしめているのだ。

 

革靴を何足買いかえただろうか。黒かったつま先は、すこし緑色をしている。

靴下は、親指の位置を正確に示す。

足は言葉を発せない代わりに、臭覚に「風呂に入れ」と信号をおくる。

 

 

 疲れ果てた自分を、肯定するか否定するか。その基準を、会社での活躍にしてしまうとするなら、ぼくの足元は毎日最悪だ。

革靴と穴あき靴下はゴミ箱へ、足に関しては鼻をつまむべきだ。

 

 

でも、本当にそれでいいんだろうか。

 

 

足を動かしたから、つま先は剥げ、穴が空き、臭くなった、それだけは事実だ。

こんな生活嫌だ!と叫びたいけど、それは別に足のせいじゃない。自分の意思で動かした足を、否定するのは違う。

 

 

ぼくたちはもっと、汚れたり、臭くなったことを愛さないと。今日も、明日も、自分を守るためにも。

 

ばっちり決まった日も、そうじゃない日も、ちゃんと動いたことは噛みしめないといけない。何も無かった日でも、「今日も足はしっかり臭かった」と書けばいい。

 

「あっ、この日も足が臭いってことは、自分はちゃんと生きてたんだなぁ」と後で笑えばいい。できれば、お風呂上がりがいいけど。

 

 

剥げた革靴をみて、働いてるって思えるなら、それは飾っておく。靴下の穴をのぞけば、スーツを着ている自分が見えるなら、ゴミ箱じゃなくて洗濯機へ投げ入れる。

 

 

 

おかえりなさい。

今日もしっかり、足は臭いかい?

臭くないのがいちばんだけど。

 

時間外手数料108円

 

しあわせなことに、お客様に恵まれています。

 

怒鳴られたことは一度もないです。強いていうなら、お菓子をあげるという技を使い、うまく、いなされているぐらいだと思います。

 

でも、お駄賃もらったと、よろこんで支店に帰れるのならいいけど、そうもいきません。

「ほら、おばちゃんにありがとう言いなさい!」なんて上司は言ってくれず、成果だけを求められます。

 

そんなぼくも、怒られたわけじゃないけど、お客様に「説教」をされたことは2度ほどあります。

 

 

 

 

ひとつめは、ちょうど去年の冬の話でした。

 

季節の話をしていた時のこと。「寒くなりましたね」のやりとりの中で、話題はインフルエンザのことに移ります。

 

奥さんが、予防接種を受けたか聞いてきました。ぼくは、時間が取れずにまだ行けてないと答えます。

 

 

    あなたのお客様は年配の人が多いし

    インフルエンザにかかることが

    命とりになる人もいるのよ

    そこまでお客様のこと考えないと

 

 

こんな感じの話だったと思います。

 

トンカチで頭をスコーンと殴られた感じがしました。なんでそんなこと考えられてなかったんだろう。

 

それまでのぼくは、インフルエンザにかかったら、一人暮らしだし、しんどいのは自分だけだと思っていました。でも、ちがう。仕事として、お客様のために予防接種を受けないといけない。その辺の意識が去年のぼくには欠けていたのです。

 

 

 

ふたつめは、昨日のことです。

 

 

前提として、ぼくの仕事の競合相手は、周りにある金融機関です。特に、信用金庫は金利がよく、多く利息がもらえるところに定期預金を動かす人もたくさんいます。

 

お金を1年置いておくだけで、既存の銀行より増えるのなら、そりゃ移しますよね。

 

 

極端な話をすると、定期預金の金利0.05%の違いで、お客様が離れていくこともあります。「〇〇金庫のほうが金利がいいから」と言われたら、正直、返す言葉がありません。

 

 

では、どうしてぼくにもお客様がいるのか。そこには、「心意気」という要素が大半をしめています。毎日、足しげく通い、雑談をして、信頼してもらった結果が、0.05%の利息、お金という実益を跳ね返すのです。

 

もう1つが運用です。定期預金ではなく、投資信託や保険を推進して、他行よりもぼくと取引してくれる理由をつくります。電卓をたたいて、数字を掲示するのです。

 

 

 

それは、キャッシュカードの手数料の話をしていた時のことでした。

 

 

「ぼく、いっつもお金おろすのを忘れて時間外手数料払ってるんです」

 

 

自虐的に笑っていたぼくに、お客様が言いました。

 

 

   その話はお客さんにはしないほうがいいよ

   あなたは0.01%の単位で

   お客様に利息の話をしているわけでしょ

   「うちのほうが何百円儲けられます」とかね

 

    そういう世界で話をする人が

    自分の108円の手数料を気にしてないのは

    どうかと思うなぁ

    あなたの話を軽くさせてる気がするよ

 

 

これまたスコーンと失神するかと思いました。

 

時間外でお金をおろしてしまうのは、仕方ないとして、その発言が自分の信頼を下げているかどうかについて、まったく考えられていませんでした。

 

なにも、ケチであれってわけではなく。どう思われるかについて、もっと考えないといけなってことで指摘を受けたのです。

 

 

    とはいえ、あなたらしいけど。

 

 

お客様は、笑いながら付け足してくれました。

 

 

予防接種を忘れてたのも、手数料の話も、「ぼくらしい」に甘えてしまったら、ただの笑い話で終わる可能性もあります。

 

でも、もしそれが通用しなかったら、信頼は静かに少しずつ沈んでいく。

 

 

どこで、ぼくらしくあるか。どこは、プロとして話をするのか。その辺りのさじ加減について、2つの「説教」は教えてくれます。

 

 

例えば、話をしてる間にお腹がグルグルと鳴ってしまうのは、いまの仕事では「ぼくらしい」に甘えられることです。仕方ないなぁと、みかんを出してもらって、親近感をもって話をしてくれます。

 

でも、鳴ったらいけないところもあったりするでしょう。カロリーメイトでもいいから、頬張らないといけない時もきっとある。

 

 

 

このあたりを、もっと分かったうえで、話をしていて楽しい人になっておきたい。

 

それはたぶん、この先、どんな仕事をぼくが選んだとしても、変わらないスタンスであるべきなのだ。

 

 

平均台の上を、フラフラしながらも、落ちないように慎重に。信頼というものを、抱えながら、口から出る言葉や行動を選んでいかないとダメだと、昨日考えていました。

 

 

となりの後輩が悩んでいます。

 

理不尽に怒鳴る社長がいるみたいで、いつも怒られるらしいです。

 

あぁ、ぼくは恵まれてると思いながら、もらったお菓子を頬張るのです。

 

 

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まぼろしの唐揚げ屋さん。

 

営業に配属され、自転車に乗ることを知ったとき、仕事してるだけでダイエットになるぞと喜んだ。

 

となりにいる、そんなぼくを笑った先輩は、入行してから体重が20キロ増えたと聞く。

 ほかの先輩もおなじことを言う。どうやら、そんなにうまくはいかないらしい。

 

 

 

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あれから2年。ぼくはいま、営業に出る前から5キロほど体重が増えた。

 

毎日おなじ町に行き、延々とノルマに追われる生活のなかで、なによりも変化をつけられるのが食事なのだ。

 

新規顧客を獲得するのはめっきりだが、お昼ごはんの新規開拓はどんどん進む。 

 工事中の看板が建ったら、定点観測のように新しい店ができるのを眺め、楽しみに待つ。

 

 

 

 

ひとつ、紹介したい店がある。

 

名前は言わないけど、その店の話をしたい。

名前をつけるなら、『まぼろしの唐揚げ屋』がちょうどいい。

 

 

唐揚げが5つ、オニオンリングが1つお皿にのっている。ごはんと味噌汁は自分でよそい、食べ放題。

となりにある、テレビに出るぐらい人気のうどん屋さんがグループとして出したお店で、素材にもこだわっているそうだ。

 

 

これがうまい。

 

 

何が特別ってわけじゃないが、満足感がすごい。気づけばご飯をおかわりしてしまう。衣がぼくの好きなサクサクのやつだ。片栗粉を使ってると思われる。

 

 

「どんっどん、食べてくださいねぇ」

 

 

お店を任されているおじさんは、とにかく声が大きくよく喋る。イヤホンを付けるタイミングがちょっと遅れた日には、食べ終わるまで会話をするはめになる。

 

フードファイターみたいな女の人が、ご飯を五合食べていったことを、おじさんは楽しそうに語る。料理の自慢というより、とにかく雑談が好きなのだと思う。

 

気づくと、週に一度は、そこで唐揚げをたべて、おじさんの大きな「いってらっしゃーーい!」を聞いて仕事に戻るようになっていた。

 

 

 

さて、どうしてその店は『まぼろしの唐揚げ屋』なのか。

 

昨年末、とつぜんお店は不定営業になった。不定休ではない、いつ開店してるのか分からないのだ。

 

 

いつ行っても、看板にはclosedの文字。開いていない唐揚げ屋を求めていても仕方ない。となりのうどん屋へ行く。

 

 

 

そこに、おじさんがいた。

 

お店の端っこで、ネギを切っている。その姿には、ひとりで唐揚げを作ってる威勢の良さはない。ただただ静かに、うどんに乗せるネギを刻んでいる。

 

なんだかとても、寂しかった。

したっぱサラリーマンをやっている自分の姿を、おじさんに重ねてしまったのかもしれない。

 

 

話を聞けば、唐揚げ屋はメインであるうどん屋の人員不足により、営業ができない状態にあるらしい。

 

 

 

「また、いつか開けますんで」

 

おじさんの声は、となりの唐揚げ屋の時に比べて弱々しかった。

 

それから、数ヶ月経ったある日。

 

 

OPEN!!

 

 

唐揚げ屋が、開いていた。

 

ドアを開けると、「いらっしゃいませ!」とおじさんの声が響く。数ヶ月ぶりに食べた唐揚げは、やっぱりうまい。ご飯も、味噌汁もうまい。

でも、静かに食べたいからすぐにイヤホンをつける。そんなことも変わらない。

 

これだよこれ!と思って、周りを見渡すと、同じように作業着やスーツの人が、山盛りのご飯を食べていた。

 

食器を返却し、店を出る。

 

 

「いってらっしゃーーい!」

 

 

おじさんの声を背中に店を出る。この声の大きさ、うるさいけれど、悪くない。そんな感じで、またいつもの日常がひとつ戻ってきたと思ったわけです。

 

 

 

そして、今週の月曜日。

 

誘われるように行った唐揚げ屋、そこにはまたclosedが寂しくかけられている。

うどん屋をのぞけば、おじさんが机を拭いている。同一人物とは思えないぐらい、テンションが違う。

 

 

でも、よかった。一度は再開したんだから。

 

たった数日だったかもしれないけど、人員不足が解消された時、あの店はたしかにopenしていた。

 

『閉店した唐揚げ屋』じゃなくて、

『まぼろしの唐揚げ屋』になったんだ。

 

 

ネギを刻んだり、机を拭いている物静かなおじさんは仮の姿で、本当のおじさんをぼくは知っている。このギャップを、楽しめるのは観光客ではなく、毎日ここに来ている人間の特権だ。

 

 

 

結局その日は、うどん屋には行かず、別の中華料理屋さんへ行った。じつは、そこにも独特なおばちゃんがいて、それはそれで話になる。

 

 

 

あぁ、体質改善しないといかんなぁと思いながら、今日も電動自転車のアシストで前へ進むのです。