得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

ヒッチハイクな人生を。

 

大学を卒業する1か月ぐらい前に、ぼくは初めてのことに挑戦した。

 

それは、ともだちや後輩のあいだで流行っていた旅の仕方で、みんな帰ってきたときに「一度はやったほうがいいです!」と口をそろえて勧めてくれたものだった。

 

旅のはじまりは100均で大きな画用紙と、太いマーカーを買うことからはじまる。まっしろな画用紙に、ふっとい字で目的地を書き込む。あとは、ひたすら高速の入り口付近で、笑顔でグッドの手を上げ続け、乗せてくれる人をずーっと待つ。

 

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最初で最後の『ヒッチハイク』をやってみたのだ。

 

度胸無しなので、後輩につきそってもらってなのですが。

 

 

 

 

運転手さんに目で「乗せてって~」と合図をおくる。たいていの人は、物不思議な顔でぼくを見て通り過ぎていく。

 

これは長期戦になりそうだなぁとか思いながら、ひとまず「淡路島」と書いた紙を掲げていると、意外にはやく車がとまった。

 

 

「垂水までやったらええよ~」

 

 

仕事終わりのおじさんが、笑いながら助手席の窓をあけてくれた。

 

車内はすぐに、何をしに淡路島へ行くのか、どうしてヒッチハイクをしているのかの話になる。ぼくたちの旅に目的はなかったし、ヒッチハイクも興味本位だった。むしろ、こっちのほうが聞きたいことがある。

 

 

「あの・・・・、どうして乗せてくれたんですか?」

 

 

おじさんは、笑いながら答えてくれた。

 

「若いころにぼくもヒッチハイクをしたことがあってね、そのときに親切にしてもらったからさぁ、できるだけ乗せてあげることにしてるねん」

 

 

それからおじさんは、自分が過去に乗せてあげた人の思い出を語ってくれて、気づけばパーキングエリアに着いていて、あっさりと去っていった。

 

 

それから、たくさんの人たちの優しさに触れ、その日の夜にぼくたちは徳島県にいた。

 

 

観光バスのおばちゃん一向が、揃って手を振ってくれたり。キッザニア帰りの家族連れワゴンにのって、ちびっこと一緒にドーナツをご馳走になったり。むちゃくちゃ拒んだけど、晩ごはん代にと5000円を握らせてくれた人までいた。

 

いまでも、乗せてもらった人の顔を思い出すし、会話も出てくる。Facebookには、連絡はとっていないけど、隣でヒッチハイクをしていた年上のお兄さんが友達リストにいたりする。

 

 

旅を終えるとき、ぼくはなんだか感動しちゃって、もう大人になんかなりたくないと駄々をこねたくなっていた。いつまでも、こうやって人のやさしさに触れていたい。ヒッチハイクを続けられる立場で居たいと思っていた。

 

 

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あれから3年ぐらいたつ。

 

 

いまぼくは営業をしている。海沿いの街で、外回りで、雨なんかもちらついて、もう最高に寒い。夏は最高に暑い。かといって、サボってばっかりもいられないし、日誌を書くためにお客さんと話さないといけない。

 

 

鬱陶しいだろうなぁ。ぼくならきっとそうだと思う。寒いし、家でゴロゴロしていた日に、【営業!】という看板を掲げてやってくる銀行員の相手なんて面倒に決まっている。

 

NHKの集金の人がきたとき、すごくめんどくさかったし(払ってますよ)。

 

 

でもね、これが意外にみなさん家に入れてくれるんです。

 

 

アポイントもなく突然やってきたぼくを、「寒かったやろ、入りなさい」とお茶を出してくれるんです。見かけは不愛想なお父さんとかが、薄ら笑いをしたりしながら、奥さんにコーヒーを注文してくれたりするのです。

 

 

ちょっとした疑問をぼくは聞きました。

 

 

「あの・・・・、なんで入れてくれたんですか?」

 

お客さんは笑いながら答えてくれた。

 

 

「ぼくも営業やったからね、外回りの大変さがわかるんよ」

 

 

部屋の暖かさとは関係なく、ポッとしてしまったぼくがいました。それはヒッチハイクで人のやさしさに触れた瞬間とおなじような気持ちで、あの時お世話になった人の顔が帰り道に出てきたりしていて。

 

 

 

ヒッチハイクは、大人になったらできないのか。

あの頃、駄々をこねていた自分に言いたい。

 

人のやさしさは途絶えない。

 

 

誰かにやさしくしてもらった経験が、その人をやさしくさせる。ヒッチハイクをしていた人が、大学生を乗せてあげるように。外回りをしていた人が、営業にやさしくするように。

 

たしかに、25歳になって悲壮感をもって画用紙を掲げることは、ぼくにはもうできないかもしれない。

でも、日常はやさしさで溢れている。やさしさの交換で、世界には救われている人がたくさんいる。そういう意味では、大人になってもヒッチハイクはやっていける。

 

 

 

乗せてもらう側になったり、乗せてあげる側になったりをくり返して、これからも生きていけるんだと思う。いや、生きたい。

 

 

もちろん、ぼくはこれからの人生で、ヒッチハイカーを見つけたら乗せてあげるし、営業が来たら話を聞いてあげたい。お金もないし、ペーパードライバーだけど。

 

みなさんも、ヒッチハイクな人生を。

サボりのプロになろうと思う。

 

「サボる」という言葉を、よく使う。ベンチに座って、ぼーっとして、ただただ時間が過ぎていくのを待つ。

 

その語源は、フランス語の「サボタージュ」という言葉がもとになっている。わざと仕事を停滞させたり、妨害する労働者の行動を指す言葉なのだが、日本で使われる「サボる」はちょっと違う。

 

おそらく、かんたんにするとこんな感じだ。

 

 

働いている人が、無理をしない程度にがんばるため、息をぬく行動。

 

 

その頻度は人それぞれだが、ベンチに座っているスーツの人間は、たいていサボっている。

 

 

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ぼくは、営業になってずいぶんサボっている。毎日、朝早くに支店を出て、最初に向かうのは海辺のベンチだ。浜風をあびながら、ぼーっとする。イヤホンをつけて好きな音楽を聴く。

 

サボるためには、仕事をしなければいけない。アポイントが無ければ、営業成績も上がらない。「仕事してる?」と上司に聞かれないようにするには、それなりに頑張っているように見せないといけない。疲れた顔をしても、しなくても、すべては成績次第なのだ。

 

 

 

サボりには四季がある。

 

 

さきほど言ったように、ぼくは毎日サボっている。春夏秋冬をサボりから感じている。たとえば、春は公園の桜をみながらサボるし、夏は涼しい喫茶店で高校野球を観る。秋には、焼き芋屋をとめる。

 

一年の移ろいを感じるため、サラリーマンのサボりには風情がある。あと、すこしだけ哀愁なんかもある。

 

よくディスカバリーチャンネルのような番組で、動物たちが自然界で生き残る術が紹介されているが、サラリーマンという生き物にもそんな知恵があるのだ。

 

 

 

「おやおや、野生のサラリーマンが寒さに凍えていますよ」

 

 

海辺の冬は、とてつもなく寒い。いつも座っているベンチも、ようしゃなく厳しい。スマホを触ろうにも、手がかじかむし、とにかく顔面が痛いのだ。

 

さて、どうするか。

 

 

暖を求めるのです。

 

 

火を起こすなんて危険な行為はしません、それだと社会で生き残れません。暖かい場所をもとめて、ゾンビのようにのそのそと動き出すのです。

 

 

ぼくは、この暖を求めるサボり方に、生き物としての本能が込められていると思います。じぶんでも、こんな暖まり方があるのかと驚くような方法で、自然とサボろうとしていることがよくあるのです。

 

 

ここで、ぼくが本能でみつけたサボり場所を紹介します。

 

 

『動物ふれあいランド』

子どもたちが、うさぎやカピバラをなでている横で、ぼくはウトウトしながらサボっています。どうしてここが特別に暖かいかというと、動物たちが体調を壊さないようにいつも温度を管理しているからです。

恒温動物の仲間たちに、暖かさを分けてもらって、サラリーマンは生きるのです。

 

顔をあげれば、動物たちの様子を眺めることができて、リラックス効果もあるんですよ。ぜひ、みなさんもお探しください。

 

 

 

『お客さんの家』

悲しいかな、お客さんの家はとても暖かい。仕事をサボりたいのに、仕事をすることで求めているものが手に入るのだ。こたつがある家に、一生懸命に営業をすることが大切です。みかんがもらえて、一石二鳥になりますよ。

 

 

 

今日、また新たなサボり場所を見つけてしまいました。

 

 

 

 

大道芸人さんの近く』

なぜ、そこなのか。理由はとてもシンプルです。

彼のパフォーマンスは、クライマックスにむけて進化していくのです。バトンに火を付けて、3本から4本のジャグリングを披露します。

 

そう火です。火なんです。

 

バトンに火をつけるために、大きな火種がそこにはあるのです。ぼくは今日、すごく自然に大道芸人さんが準備した火種で暖をとっていました。

 

その姿はきっと、とても異質だったと思います。ひょうきんなコスチュームに身をまとった大道芸人のうしろで、スーツの男が暖をとる。

 

 

 

 

ぼくは今日、世界にはまだまだ色んなサボり方があるんだろうなぁと思って、すこしだけワクワクしました。これからも、たくさんの季節感のある「サボり」を開発していこうと思います。

 

 

サボりのプロになろうと思う。

 

 

 

でも本当は、家で寝ていたかったり、サボりたくないぐらい好きな仕事をしたいんですけどね。

オチを一度捨てること。

 

もっと、面白くなりたい。

 

というつぶやきを、これまでの人生で何回もくりかえしてきた。それは、ぼくが関西で生まれ、いつも「面白い」「面白くない」という基準で、人を判断する環境で育ったからという理由があるが、それだけではない。

 

たしかに、土日はかならず新喜劇と漫才番組をみていた。人との会話にオチをいつも意識して、いつも誰かを笑わせたい願望がぼくにもあった気がする。

 

 

しかし、最近、オチというものをあまり意識しなくなってきた。

オチを考えないくせに、ぼくは面白い人になりたいのだ。

 

 

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話の終わりに、どんでん返しや発見のようなものがないと、聞いてくれた人はずっこける。あってもずっこけるのが、新喜劇だけど。

起承転結を勉強するために、四コマ漫画を小学校で書かされたけど、あれはきっとコミュニケーションを考えることにも繋がっていたと思う。

 

人と人が会話をするときに、何かを相手に期待してしまうのは、「あなた、わたしの時間をとって何を気づかせてくれるの?」という精神がどこかにちょっとあったりするのかなぁ。たぶんそう。でもそれは、すごく当然、『時は金なり』だから。

 

 

でも、友だちや、恋愛関係に、そういった会話の対価を気にしはじめたら、もしかしたらそれは偽りの関係かもしれない。すごく、上からの目線で相手の話を聞いているからこそ、そんな感情が生まれてくる。ぼくだけかもしれないけど。

 

 

 

大切なことは、誰にとって面白い人でありたいのか。そもそも面白いと思ってもらって、その先に何がほしいのか。

 


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ぼくは笑顔がほしい。誰でもいいから笑顔になってほしい。

 

そのことに関係して、最近思っていることがある。

 

 

人を笑わせるのは、即時性が必要。

人を笑顔にするには、ながい時間が必要。

 

 

 

笑わせることと、笑顔にすることはちょっと違う気がしている。

 

笑わせるって、じぶんが「いまの会話ウケてたなぁ」と思ったら、たとえばそれが乾いた笑い声だったとしてもそれで完結すること。

笑顔にするって、もっと難しい。不特定多数のひとが、それぞれの顔を眺めあって、「あっ、あの人いい笑顔だなぁ」と思ったときにはじめて、その場に笑顔は生まれる。

 

 

ぼくは、このことに気づくまで随分時間がかかってしまった。

 

 

誰かと会話をしていても、笑い声が聞こえないと不安で。とりあえず誰かの話を持ち出して、無理にオチを作っていた。そのためには、瞬発力が必要だ。鉄板のオトシネタを持っている話につなげるか、もしくは、タイムリー性のある話題にしてしまう。

 

 

例えば、いま、テレビでは横綱の話題がお笑いの場で使われている。彼を擁護するわけではないが、あの話で笑っているタレントを見るたび、自分はあんな顔で人を笑わせようとしていたのかと酷く落ち込む。

 

 

誰かを蹴落とさないと、辿り着けない笑いは、打ち上げ花火のようなものだ。一瞬で上がっていき、一瞬で消える。後味はすごく悪い。じぶんの人生と関係ない横綱の話だから、気軽に言えてしまうのだろうが、その笑い方、笑わせ方に慣れてしまうと、いつしか、じぶんの身内でその技を使うようになってしまう。

 

笑いをもとめて瞬時にオチを作ると、この話をしたら誰かが傷つくかもしれないという、思いやりは生まれないのだ。結果、その場の笑いは、じんわりと誰かの心に傷をつける可能性が高い。

 

 

 

 

笑顔にするには、ながい時間がかかる。

 

 

「あの頃は、楽しかったよなぁ」という会話には、笑顔がある。それは、おなじような身内ネタだけど、長い年月が作ってくれる、人生の香りがする。この臭さがいいねん、みたいな、話で笑いあっているとき、人は本当に笑っている気がする。

 

思い出話は、やっぱりすばらしいと思う。

 

もしかしたら、横綱の話は、もっともっと先に本人も交えてするべきなのかなぁ。そうやって、あの時の話をすると、心がぱっと晴れて笑顔が生まれるのかもしれない。だからやっぱり、笑顔を作るには時間がかかるのかもね。

 

 

 

でも、ぼくは思い出話ができなくても、たくさんの人に笑顔になってもらいたい。それがすごく難しい。

 

 

焦るなと言いたい。焦りたくない。人を笑顔にすることは、そんなに簡単なことじゃない。泣かせたり、怒らせることは簡単だ、「死ね」という言葉ひとつでいい。だけど、笑顔にするのは難しい。おもむろに裸踊りをしても、人は笑顔になってくれない。

 

 

自分の一言を、待ってくれている人がいる。そんな空間がたくさん生まれるようにしていこう。一人で、起承転結を作る必要はない。

 

 

「あなたはどう思うの?」と聞いてもらったときに、みんなが知ってくれている自分の言葉を出すだけで、人は笑顔になってくれるのだ。生まれるのは、きっと安堵だと思う。それでいいのだ。

 

時々、ちょっと裏切って、それが爆笑だったとしてもそれはそれでいい。安堵が生まれる関係性を作り上げたことに、もう充分に、時間を使ってきたから大丈夫だ。

 

 

その場だけのオチを一度捨てること。それは、人との会話をもっと大切にすることでもあると思った。会話を大切にする人は、いつか、「あなたはどう思うの?」と聞いてもらえるとぼくは信じる。

 

今言いたかったオチよりも、もっとみんなを笑顔にできる何かで、話を終える日がくるだろうと思ってグッと「笑い」に逃げないようにしたい。

 

 

それは、初対面の人と会った時でも同じだ。やさしい人が好まれるのは、当然だと思う。となると、やさしい人になりたいものだ。

 

 

「面白い」とは、発見があることだ。みんなが知らないことや、意外な考え方を提案できる人が、面白いとぼくは思う。それは、ゴシップネタとか、誰かを蹴落とすことじゃなくて、神秘的なワクワクだ。だからこそ、もっといろんなことを勉強したいし、読んだり聞いてみたいことがたくさんある。

 

 

・・・・さぁ、どうしたものか。いまぼくの頭のなかには、今日のこの記事をどういうオチで終わらせようかという悩みが消えないのだ。どうしたものか。言ってるそばから、適当なオチをつけるわけにもいかん。

 

 

う~ん、むずかしい。

 

 

ぼくは、笑わせるより、笑顔になってほしいのだ。

ぼくのなりたいおやじ 4

 

ひさしぶりに会ったともだちが、結婚したりする。女の子は、苗字が変わっていたりして、でも、それ以外なにひとつ変わっていなかったりする。母になることや、父になること、家族について、ぼくの人生には何の関係もないのに、ボーッと考えることが増えてきた。

 

家族って、族だから、家の中だけでやけにハマる笑いがあって、好きな味があるのかなぁと思っていた。

 

でも、話を聞いていると、交際相手の実家に行くことを、みんな緊張していたりする。族と族が分かり合った結果が結婚なわけではなく、一人と一人が分かり合って結婚なわけだから、その緊張って当然だ。

 

家族とは、個人個人のつながりなのかもしれない。

 

動物占いというのが流行ったころの話。うちの家族は、ぼくがペガサス、ぼく以外がみんなサルだった。そのときになんというか、すごく、「ぼくはみんなとは違うんだ」と妙に特別感を抱いた。今思えば、それってべつに普通のことだったりする。家族だって、一人一人が繋がっている関係性だ。

 

長く一緒にいたからこそ、父や母、妹とぼくは分かり合えているが、それって友達と仲良くなれたことと同じことのような気がしてきた。

 

お父さんだから、お母さんだから分かってくれて当然だと考えることはあまりにも乱暴だ。友達にそんなこと言えるかどうかで、ぼくは父と母、妹と接したい。

 

 

たまに、あの家族は関係性がともだちみたいでうらやましいなぁって思うことがあったが、それってすごく自然な家族のかたちなのかもしれない。

 

 

 

しかしまぁ、ぼくはおやじになりたい。

 

どんなおやじになりたいかって、こんなおやじになりたい。

 

 

 

 

ぼくのなりたいおやじ

 

 

 

子どもとキャッチボールをするのが楽しみなくせに、年を重ねるにつれ、

投げるボールがはやくなってきて怖くなってくる。

手も痛くなっちゃって、でも、野球を教えたのは自分だし、

ちょっとばかし見栄をはってしまった結果、

「今日からは変化球を練習しよう!」と提案する。

そんなかっこわるいおやじにぼくはなりたい。

 

そして、息子がプロ野球選手になった時に、

父が球をとれなかったおかげで生まれた魔球ですと言われて、

バレてたことに気づくようなおやじにぼくはなりたい。

 

 

 

奥さんが気をつかって買ってくれた特保のお茶に、

「パパだけ違う!」と娘が文句を言っていた。

それがやけに虚しくて、やせようと決意するような、

そんなおやじにぼくはなりたい。

 

 

 

ジグソーパズルの1500ピースに挑戦していた。

だいたい半分ぐらいで飽きてしまったときに、

息子が奥さんから750円のお小遣いを受け取っていた。

飽きることを前提に、1ピース1円のお小遣いをもらう契約を結ぶ

そんな家族のあそびに感心する

お気楽おやじにぼくはなりたい。

 

 

 

市民プールに遊びにいったとき、

財布をロッカーに忘れてしまって、

娘に200円をかりてカップラーメンをほおばるような、

そんな悲しいおやじにぼくはなりたい。

 

 

 

「お父さんって、スケベだと思ってたけど、スケベじゃなかったんだね」

娘の婉曲的なうす毛指摘に、ダブルパンチをくらって、

へこむようなおやじにはなりたくない。

そこは、ずっと、髪の毛が伸び続けるスケベでありたい。

 

 

 

あぁ、なりたいおやじはまだまだあるなぁ。

 

 

 

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またメモをしていこうっと。

 

 

練り消しづくりは、つづく。

 

今週の水曜日から、2泊3日の研修にいっていた。

 

3年目の節目に、泊まり込みで施設にこもり、同期の子たちとグループワークをする。100人ほどいた同期は、研修で再開するたびに減っていき、いま70人ぐらいと聞く。

 

夜中まで班であつまって、朝に課題を提出する。これが、銀行の仕事じゃなくて、もっと楽しい企画会議とかだったらなぁと思ってしまう、それぐらいみんな良い人たちだ。ちがう場所で会えていたら、ぼくはもっと素直に仲良くできただろうし、たまに呑みに行ってると思う。

 

たぶん、ぼくがみんなの目を見て、まっすぐに自分をさらけだすには、同じ仕事している間は無理な気がしていて、それがすごくつらかったりした。

 

 

 

 

研修2日目。

 

ぼくたちの班は、朝に出した課題をこっぴどく指摘され、寝不足のからだを引きずりながら話し合いをしていた。

 

書いては消して、消しては書いて。生まれた消しカスを練りながら、ぼくたちはホワイトボードに提案内容を、机の上にはでっかい練り消しをつくっていた。

 

うまくいかんなぁ、帰りたいなぁ、眠たいなぁ。なんて言いながら、まっくろの練り消しを定規でのばして、センチ数を計る。30㎝のにょろにょろを完成させようと、講師の目を盗んでは作業をしていた。

 

お昼が明けて、もう一度、ぼくたちには山場がやってきた。ピンチになって、怒涛のように時間がすぎる。気づけば外はオレンジ色。神戸の港町が、夜景に変わろうとしていた。

 

 

 

「・・・・おれ、パパになったみたい」

 

 

 

昼からのプレゼンを担当した結果、講師につめられ、いちばん大変な思いをしていた彼がとつぜんつぶやいた。

 

奥さんから連絡が来ていたそうだが、忙しすぎて確認できていなかったようだった。つまり、汗をながしながら、ピンチに慌てていたとき、彼はすでにパパになっていたのだ。とりあえずみんなで「おめでとう!」と言った。しかし、本日の最終プレゼンは30分後にせまっている。もう時間がない。

 

しかも、話をするのはぼくだ。

 

 

「赤ちゃんに、ささげるプレゼンをするで」

 

 

なんてかっこいいことを言ってみたけど、彼はうわのそらだった。念願の子どもを授かったことに、なんとも言えない嬉しそうな顔を浮かべている。

 

数時間前まで、ふつうのサラリーマンだった彼はパパになった。ひとりがパパになった以上、帰りたいとか、疲れたとか、眠たいとか、ちょっと言いづらいような気がしていた。

それが昨日のことだ。

 

 

 

そして今日、最終日をむかえた。

 

びっくりしたことがある。

 

パパになった彼が、あいかわらずくだらない雑談をしながら、練り消しを作っているということだ。

 

親になるという責任は、練り消しを作れなくすると思っていた。「帰りたい、しんどい」と言えなくなることだと思っていた。だけど、彼はぼくたちと同じように愚痴りながら消しカスをまとめている。30㎝をめざして、ゆびさきを動かしている。

 

父になるということを、重く受け止めすぎることは、あんまりよくないなぁと思った。「あいつ子どもいるくせに、もっと責任を持てよ」とか言われる気がして、何もできなくなるような気がしていたけど、そんなことは全然ない。

 

 

やっぱり仕事はしんどいし、練り消しづくりは楽しいのだ。

 

 

同い年で子供がいるからとか、いないからとか、そんなことは関係ないのだ。そこで線を引くのは、とてもつまらないことで、精神年齢が一緒であるかぎり、ぼくたちはずっと同じことをして遊んでいけるし、文句を言えるんだ。

 

 

雑談はつづく。初日よりもずっと、じぶんの話をそれぞれができた気がする。ちょっとだけど、いまのぼくの向上心がこの仕事に向いていないことを、告白しようか迷った。心をもっと開いてしまおうか迷った。

 

 

そう思った頃に、たいてい時間はきてしまう。

 

 

偉い人がやってきて、ご訓示をいただき、怒涛のように研修は終わりをむかえた。

 

 

 

いま、帰ってきて家にいる。ようやく帰ってきたわが家だ。最高。もう泊まり研修はやりたくないし、月曜日の仕事はつらい。というか、全曜日つらい。

 

 

だけど、練り消しづくりや雑談はすごく楽しかったのです。みんながそう思っていたかは知らないけど。

 

 

でも、また会ったとき、みんなの精神年齢がまだおなじだったら、また消しカスをゆびさきでコロコロして、つぎは45㎝を目指したいと思う。

 

もし、そんな感じじゃなくて、ぼくの精神年齢だけがお子様でも、それは結婚したからとか、子どもができたからとか、そういう強制的なイベントがきっかけとかじゃなく、それぞれがじんわりと色んなことを考えて変わっていったことなんだと、そう思って拍手をしたい。

 

 

それまでは、練り消しづくりは、つづく。

『たまごっち』を求めて

 

「なかむらくんは、たまごっちを知ってるん?」

 

お孫さんにねだられた任天堂のゲーム機が手に入らず、お客さんが困っていたという話をしていたら、そんな質問を上司にされた。

 

もちろんぼくは、『たまごっち』を知っているし、なんだったら持っていた。

 

 

 

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『たまごっち』が大流行した1997年に、ぼくはまだ4歳だった。生き物を育てることに魅力は感じず、むしろ育てられる専門だった。だから、それから数年後にリメイクされて販売された新しいやつだった。

 

 

上司は話をつづける

 

彼は大口のお客様のご機嫌をとるため、おもちゃ屋の前に徹夜で並んだ思い出を語ってくれた。

噂には聞いていたが、当時のたまごっち人気はすさまじく、どこに行っても売り切れ。『家電を買ったらプレゼント』という抱き合わせ販売が行われたり、にせものが出回ったり、社会現象になるぐらいみんな小さなたまごを探し回った。

 

 

ぼくがたまごっちを手にしたのは、12歳の冬。

その頃、中学校受験というものに挑戦していた。

 

 

私立の一貫校に受験したのではない、公立の中学校に受験した。となりの市に新しい学校ができて、『国際学科』というものが設立されたと母が聞きつけてきたのだ。

 

生徒の半分は、海外からの留学生で2年生から英語の授業が半分ぐらいあるとの話で、なんともグローバルな環境だった。

 

受験科目は、小論文と面接のみ。試験当日に、落ち込んだ顔をして帰ってきたぼくに、両親はなにも言わなかった。なにせ、倍率がすごかった。20人に1人ぐらいしか入れないぐらい、『国際学科』は人気だったのだ。

 

 

合格発表は平日に行われる。ぼくは学校があったので、たまたま休みの父が代わりに行くことになった。ダメだろうと思いながらも、内心もしかしたらで受かっているんじゃないかとドキドキしたりして、6時間目の授業を終えて家へ帰る。

 

父は、まだ帰ってこない。しばらくそわそわしていたが、気づいたらぼくはリビングで寝ていた。

 

 

物音がして、目が覚めて、ぼくの前には父が座っていて、その手にはぼくが欲しい言っていた『たまごっち』があった。

 

 

 

「これ、欲しかったやつやろう」

 

 

ぼくはその言葉で受験結果を悟り、両親からの努力賞のようなものだと思って、『たまごっち』を受け取った。リメイクされた『たまごっち』もまた人気で、どこに行っても売っていなかったので、とても嬉しかった。

 

口には出さなかったけど、小学校のともだちと同じ中学にすすめることに、ホッとしたりもしていた。

 

 

次の日、学校へ行って先生がぼくに言った。

 

 

「なかむらくん、まぁ~お父さんをせめてあげたらあかんよ」

 

 

話を聞けば、どうやらぼくは試験に通過していたようだった。でも、最終的に入学できるかを決める抽選があったようで、父がそこでハズレを引いたようだった。そこでようやく、なぜ父が昨日、『たまごっち』を買ってきたかを知った。

 

 

仕事から父が帰ってくる。ぼくは、恐る恐る聞いた。

 

「たまごっち、どこで売ってたん?」

 

目も合わせずに父は答える。

 

「あれなぁ、走り回ったわ、おまえのために」

 

 

 

小さなたまご型のキーホルダー、その中にいる妖精のような生き物を育成するおもちゃ。それが、たまごっち。

 

ある人はその可愛さに魅かれ、ある人はみんなが持っているからと欲し、またある人は女子に好感を持たれるために探し回る。

ぼくの場合は、ペットが欲しかったけど家がマンションだったから、だから『たまごっち』を育てたかった。ほしい理由はそれぞれだ。

 

 

ある上司は、大口定期預金を解約されないために徹夜を。

そしてある父親は、息子の中学校受験をじぶんのくじ運の無さで逃してしまった申し訳なさで必死に走り回ったのである。

 

 

 

お父さん、そんなこともあるよと言いたかったけど、ぼくはとりあえず、その『たまごっち』を一生懸命育てることに小学校の卒業までを費やすことにした。

 

 

あれから、10年以上たつが、いまの人生に満足している。父のくじ運のなさで、いい友達に出会えたし、たのしい毎日を送っている。

 

『たまごっち』は、電池が切れた状態で、たぶん家のどこかで眠っているだろう。いつか見つけて、あの日の走り回った父に、感謝する日も来るはずだ。

メガネのスーパースター

 

ファンが選ぶプロ野球選手1位を決める番組が放送されている。

 

ちょうど先日、お客さんの家でそんな話をしていた。

 

「どこの球団のファンなんですか?」

野球中継が写っているテレビを指さして聞いた。

 

「好きな球団というか、わたしは長嶋茂雄のファンなの」

長嶋選手のプレー、人柄に惚れて、若いころからずーっと彼のファンだと照れながらお客さんは言った。そして、いろいろな長嶋選手のエピソードを聞かせてもらった。

 

「あなたはどうなの?」

聞き返されたときに、ぼくは球団じゃなくて選手の名前を言った。

 

 

「古田です、古田敦也が大好きです!」

 

 

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スポーツ選手が、子どもに夢を与える仕事だとしたら、ぼくがいちばん最初に夢をもらったのは確実に古田だ。

 

 

尼崎の市民球場に、プロ野球選手がテレビ番組のイベントで来る日があった。当時、小学3年生ぐらいだったぼくは、野球はやっていなかったけど観戦するのはすごく好きで、父とグローブ片手に観に行った。球場には、野球少年がたくさんいて、みんなボールとマジックペンをもって「サインください!」と叫びまわっていた。

 

 

普段の試合とは違って、選手もリラックスしていて楽しそう。キャッチャーとしてプロ野球で活躍するメガネのその人は、ピッチング練習をしていた。

古田がいる。なぜかサイドスローで、キャッチャーを座らせて遊んでいる。そのことに気づいているのは、ぼくと父しかいない。

 

 

「ふるたせんしゅ~がんばってくださ~い!」

 

精一杯おおきい声で古田に話しかけたら、彼はちょっとだけこっちを向いて手を振ってくれた。それが嬉しくて、なんどもなんどもおなじことを古田に伝えた。

 

 

「ピッチャー代わりまして、古田、古田」

 

 

アナウンス嬢の声がきこえて古田が練習をやめる。そして、マウンドへ向かう途中で、ぼくを指さしてボールを投げてくれた。かくじつに目が合って、優しいトスをあげた。

 

だけど、ぼくは取れなかった。とつぜん現れた野球少年のグローブが、そのボールを持って行ってしまった。とてもショックだったのを覚えている。

 

 

 

しばらくして試合が終わり、父と球場の裏口へ走った。

選手がバスに乗り込むその通路には、たくさんのファンがサインを求めてかけつけていた。たくさんの興奮した野球少年にまぎれて、一緒になって手を伸ばした。

 

そして、古田が来た。

 

この日、いちばん大きい声で古田の名前を呼んだ。古田、古田さんと叫んだ。すると、ぼくの顔をみて、彼は寄ってきてくれた。力強い握手をして、着ていたTシャツにサインをしてくれた。

 

 

周りのおじさんが言っていたけど、その日、古田がサインをしたのは、ぼく一人だけだったとのこと。ほかのファンには、みんな握手だけをして「ごめんね」と伝えていたと教えてくれた。

 

彼が覚えてくれていたのかは、今思うと分からない。でも、あの頃のぼくは、古田が自分のことを分かって来てくれた気がしていた。かっこいい、かっこよすぎる。じぶんのなかで、メガネのスーパースターが生まれた瞬間だった。

 

 

いま、彼はコメンテーターとしてニュース番組や、元プロ野球選手としてバラエティ番組に出ている。そんな姿をもちろん応援しているし、古田の引退試合はテレビで観て、涙をした。本当に大好きなだ。野球選手としても、人としても。

 

 

ファンとしてひとつだけ申し訳ないことがある。

 

じつは、ぼくは広島カープのファンなのである。古田がいたヤクルトスワローズには、何の思い入れもないのだ。

 

 

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人を重いと感じること。

 

年末の朝に、父方の祖父母の家へ行った。東京から夜行バスで帰ってきた朝、じいちゃんばあちゃんちへ続く道の角を曲がったところで、ふたりと鉢合わせした。

 

 

「いまからロイヤルホストで朝飯を食べに行くねん」

 

 

なんと貴族的な朝だろうか。ぼくなんて、家でも朝飯を食べないのに。一晩中、せまい車内で座りつづけたぼくの胃袋は、すっからかんだった。だから、何も言わずふたりのおともになった。桃太郎の犬・猿・きじのような関係性だ。

 

 

祖父母と道中で出会うことはよくあった。学校帰りに、たまたま買い物に行っていた祖母に会って、家でおやつをもらったりしていた。だから、ひさしぶりに地元でふたりに会ってなんだか懐かしかった。

 

 

ひとつだけ懐かしくなかったのは、祖母が車イスに乗って、祖父がそれを押していたということだ。

 

 

 

ロイヤルホストまでの道は、徒歩で10分ほど。休日は、よくふたりで運動がてら朝ご飯を食べに行っていたことは聞いていた。その習慣は、祖母が車イスになっても続いているようだった。

 

 

 

車イスを押すのは、6年ぶりぐらいだ。

 

母方の祖父を、病院でさんぽに連れて行ってあげたのが最後で、すごく久しぶりだった。両輪のブレーキをはずし、左右の持ち手の力加減をうまくつかってまっすぐに進む。下り坂は、後ろを向いてバックで降りないと乗っている側があぶない。

 

過去の経験を思い出すように、車イスを押した。

 

 

 

あぁ、この感じいいな。

 

 

ぼくが嬉しかったのは、祖母と車イスがとても重たかったことだ。ずっしりと、人の重みがする。車イスが思うように、うまく前へ進まない。ちょっとした上り坂には、ある程度の力がひつようになる。

 

 

「ばあちゃん、重いなぁ」

 

 

こんなことを言えるうれしさがあった。

 

 

身長でいえば、ぼくと祖母は30㎝以上ちがう。歩くこともしんどそうになっている姿から、年々、その背中がちいさくなっていってることにちょっとした寂しさがあった。セーターを編んでくれたり、服を直してくれていたばあちゃんが、デイサービスで折り紙をつくって楽しんでいる姿を、喜んでいるようで本当はあまり見たくなかった。

 

 

勝手に小さくなっていて、軽くなっていると思っていた祖母がずっしりと重い。

 

 

車イスを押している腕を通じて、「ここからやで」と語られているような気がして、生きる力がどんどん伝わってきた。

 

 

「重い、重いなぁ」

 

 

からかうように、妙にそれが嬉しくてぼくは何回も言った。祖父はその横で、「ええなぁ、わしも押してほしいわ」と悪い顔で笑っている。祖母もまた、笑っていた。

 

 

誰かに比べて太っている、痩せているで人の重さを判断することだけが、いままでのぼくの「重い・軽い」だった。でも、ほかの人に比べて軽いかもしれないけど、祖母はずっしりと重かった。それは、生きているってことを感じられたということだと思う。まだまだここからだと、実感できたことなんだと思う。

 

 

人を、重いと感じられることは、すごく嬉しいことなんだ。

 

 

この感覚は何だろうか。いろいろ考えていたら、いとこの女の子を思い出した。

 

久しぶりに会って、成長した彼女を抱きかかえたときに、ぼくはおなじような嬉しさを感じた気がする。ふたりに共通して感じられたのは、きっと未来という向かう先だ。人を重いと感じることは、きっと未来を感じさせてくれるんだ。

 

 

 

ロイヤルホストで、朝の和朝食をたべた。

 

 

 

せっかく貴族的な朝をむかえられるのに、ホットケーキセットや、フレンチトーストセットを頼むつもりが、おいしそうな鮭の塩焼きを選んでしまった。祖母が食べきれないご飯を、祖父が茶碗にうつしてバクバク食べている。どうやらこの人は、まだまだ元気そうだ。

 

 

 

「ばぁちゃん、やっぱり重いなぁ」

帰り道で、ぼくはまた言ってしまった。

 

 

 

「朝ご飯たべたぶん、重くなってるやろ」

笑いながら言った祖母は、たしかに重く、ゆっくり家へ帰った。

 

恋は、うんちに似ている。

 

恋愛について、ぼくはあまり語れない。

 

 

例えば、デートの仕方とか、女性がよろこぶプレゼントの選びかたや、メールのやりとり、この辺はもうぜんぶ語れない。これまでの人生、失敗ばかりをしている。そもそも、誰かに恋愛相談をされることも少ないので、たぶんそういうダメな雰囲気をまとっているのだと思う。

 

 

ただ、恋というものについては、すこしだけ考えていることがあるので、そのことについてちょっとだけ聞いてほしいです。

 

 

 

恋をしている時間が、人に与えてくれる余韻がぼくは好きだ

 

 

意中の相手にメールを送ったあと、なんども内容を確認して、こう思われたらどうしようと考えたり、こう発展してくれたら嬉しいなぁと妄想したりする時間が好きだ。送信ボタンを押す勇気を出した人だけが、その数分、いや下手したら数時間を感じていることができる。

 

余韻が、すべて輝いているとは限らない。返信なしというパターンにおびえたりして、それでも時間はすぎていき、ちょっとだけ忘れて、別の何かに一生懸命になっているときに、スマートフォンが震える。とくに、何をしてもらったでもないのに目の前の人にやさしくしたくなる。

 

 

恋のおかげで、今日、誰かにやさしくしてもらった人がきっといると思う。何だったら、ぼくに関わっているすべての人が、みんな恋をしていてほしい。できるならその相手の人と連絡をとっておき、ぼくと会っているタイミングでいつも返信をしてもらうように伝えたい。

 

 

駅の改札口で、さようならと手をふる男女を見るのが好きだ。悪趣味かもしれない。だけど、電車が来てしまって、手を振りあったあと、背中を向けあった瞬間の表情をどうしても見たいのだ。

 

 

今日一日がどれだけしあわせだったかは、その表情をみればすべてわかる。べつに、とびきりの笑顔ではないが、なんとも言えない満足感に包まれた顔をしている。おそらく、彼や彼女は、余韻を味わっているのだ。

 

 

 

 

恋は、うんちに似ている。

 

 

 

“うんこ”か、“うんち”か悩んだけれど、すこしだけかわいいと思ったほうを選びました。

 

どういうことか。

 

 

たとえば、今日ぼくが腹いっぱいにご飯を食べたとする。食物繊維たっぷりのお野菜がはいったお鍋を食べたとして、翌日の朝にやってくるのは何だと思いますか。

 

 

そう快便です。

 

 

お腹のなかにたまっていた昨日のお鍋が、すべて放出される。じぶんの“うんち”にすこしだけ愛らしさのようなものを感じてしまい、流す前にちょっと目をやってしまう。

 

 

してしまいません?ちょっとした観察をしません?

 

・・・・しなかったらごめんなさい。

 

 

そういえば、幼稚園の頃に、夏休みの宿題で、毎日の健康状態を判断するためにうんちを観察するという宿題がありました。たぶん、しぜんと自分の体調を管理するという意味でも、うんちに目が行くと思うんです。

 

その“うんち”がとても立派なものだったときに、とくに何か素晴らしいことをしたわけでもないのに、とてつもない満足感がやってくるわけです。

 

すっきりしたおなかは、トイレを終えたあとも数分つづく。体のそこから何者かが、「おい!今日はいい仕事しただろ」と語りかけてくる。

 

 

「あぁ~、今日のトイレはよかった、いいパフォーマンスを披露できたなぁ」なんて、しばらく余韻にひたっていると、いろんなことが上手くいく気がしてくる。

 

 

恋の余韻も、この“うんち”をしたあとと似ているとぼくは思っている。

 

 

「あぁ~、今日のデートはよかったなぁ、あの会話が嬉しかったなぁ」なんて思いながら過ごしていると、顔がゆるんだり、世界が輝いて見えてくる。

 

 

“恋”と“うんち”そのどちらにも共通しているのは、全力を放出できたことに対する嬉しさだ。そして、その嬉しさはしばらく続く。好きな人と交わした言葉がつぎつぎと駆け巡るように、うんちを放出した瞬間の快感もウオッシュレットをあてた気持ちよさも、しばらくかみしめられる。

 

 

恋がくれる余韻のすばらしさは、もしかしたら、開放感でもあるのかもしれない。うんちを我慢しているときのような、ちょっとした緊張感のようなものがあるから、恋はいいのかもしれない。

 

我慢して、我慢して、ようやくたどり着いた今日の日が、とてもすばらいいものだったときに、恋はとてつもないしあわせをくれるのだ。

 

 

我慢して、我慢して、快便だ。

 

 

 

そういえば、中国語でトイレットペーパーは“手紙”と書くって中学校の英語の教科書に載っていた。ぼくは、このことを使って、恋とうんちの関係性について、いろいろうまいこと言えないか考えた。

 

 

でも、どれもクサい。

 

クサすぎるので水に流すことにする。(うんちだけに)

椅子のある場所で会おう。

 

 

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実家の近くにある大学に進学した。

 
周りにはたくさんの下宿生がいて、中四国や関東からやってきた彼らは、一人暮らしを堪能していた。出会ったことのないイントネーションの方言や、ちょっと合わない笑いの感性を楽しみながら、僕たちはおなじ場所で数年間を学んだ。
 
 
高校まで公立でずっとやってきたから、どこかに必ず知っている人がいた。小学校の同級生が、高校のクラスメイトだったりもした。その子と仲が良いのかは別として、妙な安心感があった。
 
 
大学も地元だったため、蓋を開けたら幼なじみとおなじ学生団体にいるような生活を送った。そんなわけでぼくは安心し続けている。
 


 
就職して3年目にもうすぐなる。結婚や転職などのワードが、会話の中で出てくる年齢になってきた。子どもが生まれて、しあわせそうだったり、プロポーズをして、毎日を誰かのために頑張っていたり、何にも変わってなかったりしている。
 


 
東京に転勤する友だちがいた。
 
 
彼の出身は関西ではない。大学で神戸へやってきて、4年間をすごし、大阪で2年勤め、東京へ行くことになった。
 
きっと、東京に呼ばれることは素晴らしいことで、会社の中でステップアップをしたのだろう。おめでとうと言いたい。
 
なのに、妙に寂しい。なんで、こんなに寂しいのだろうか。
 

 
「次、僕たちはどこで会うのだろうか」
 
 
そうだ。ぼくが引っかかっていたのはそこだ。彼の地元は、神戸ではない。ここじゃないんだ。そうなると、例えば、お正月やお盆休みに、「おかえり」と言いながらお酒を飲むようなことは無い。
 
 

僕たちがいる兵庫県を通り越して、彼は別の場所へ帰っていく。
 
 
またここで集おう!なんて、背中をポンっと押して送り出すことは、すごく勝手な話になっている。俺はここで待っている、なんてかっこいい一言は、なんだかすごく上から目線だ。
 
 


そういえば、ぼくはずっと会う理由に、甘えてきた気がする。何かの団体に所属して、当たり障りのないことを言い、誘ってもらえるような立ち居振る舞いをする。
 
 
お盆休み、正月休み、大型連休なんかになると、「飲みに行かない?」と大勢の1人として誘ってもらい、「仕方ないなぁ」なんてことを言って内心嬉しそうに家を出ていた。
 
 
 
でも、これからは違う。
 
 
そんな簡単に僕たちは、いつもの場所では会えないのだ。いつもの場所なんて、無くなったのだ。
 
 
何が残っているんやろう。



…。


そうや。


 
そういえば、僕たちの会う場所には、いつも笑いがある。みんなで、グダグダ話しながら、行き着く先も分からない雑談がある。
 
 
東京にもたくさん椅子がある、神戸にもたくさん椅子がある。座れる場所があるならば、いつもの場所なんて大して問題ではない。名古屋とかでもいい。

どうして、立ち飲み屋じゃダメかっていうと、ぼくはとてもいま腰が痛いのだ。
 

 
まったく違う場所で生まれ、偶然に数年間をすごした僕たちが、これからも笑いあうためには、いつもの場所で会うことから、どこでもいいから会うってことに変わっていかなきゃきけなきね。
 


 
また、椅子のある場所で会おう。



行ってらっしゃい。