得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

椅子のある場所で会おう。

 

 

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実家の近くにある大学に進学した。

 
周りにはたくさんの下宿生がいて、中四国や関東からやってきた彼らは、一人暮らしを堪能していた。出会ったことのないイントネーションの方言や、ちょっと合わない笑いの感性を楽しみながら、僕たちはおなじ場所で数年間を学んだ。
 
 
高校まで公立でずっとやってきたから、どこかに必ず知っている人がいた。小学校の同級生が、高校のクラスメイトだったりもした。その子と仲が良いのかは別として、妙な安心感があった。
 
 
大学も地元だったため、蓋を開けたら幼なじみとおなじ学生団体にいるような生活を送った。そんなわけでぼくは安心し続けている。
 


 
就職して3年目にもうすぐなる。結婚や転職などのワードが、会話の中で出てくる年齢になってきた。子どもが生まれて、しあわせそうだったり、プロポーズをして、毎日を誰かのために頑張っていたり、何にも変わってなかったりしている。
 


 
東京に転勤する友だちがいた。
 
 
彼の出身は関西ではない。大学で神戸へやってきて、4年間をすごし、大阪で2年勤め、東京へ行くことになった。
 
きっと、東京に呼ばれることは素晴らしいことで、会社の中でステップアップをしたのだろう。おめでとうと言いたい。
 
なのに、妙に寂しい。なんで、こんなに寂しいのだろうか。
 

 
「次、僕たちはどこで会うのだろうか」
 
 
そうだ。ぼくが引っかかっていたのはそこだ。彼の地元は、神戸ではない。ここじゃないんだ。そうなると、例えば、お正月やお盆休みに、「おかえり」と言いながらお酒を飲むようなことは無い。
 
 

僕たちがいる兵庫県を通り越して、彼は別の場所へ帰っていく。
 
 
またここで集おう!なんて、背中をポンっと押して送り出すことは、すごく勝手な話になっている。俺はここで待っている、なんてかっこいい一言は、なんだかすごく上から目線だ。
 
 


そういえば、ぼくはずっと会う理由に、甘えてきた気がする。何かの団体に所属して、当たり障りのないことを言い、誘ってもらえるような立ち居振る舞いをする。
 
 
お盆休み、正月休み、大型連休なんかになると、「飲みに行かない?」と大勢の1人として誘ってもらい、「仕方ないなぁ」なんてことを言って内心嬉しそうに家を出ていた。
 
 
 
でも、これからは違う。
 
 
そんな簡単に僕たちは、いつもの場所では会えないのだ。いつもの場所なんて、無くなったのだ。
 
 
何が残っているんやろう。



…。


そうや。


 
そういえば、僕たちの会う場所には、いつも笑いがある。みんなで、グダグダ話しながら、行き着く先も分からない雑談がある。
 
 
東京にもたくさん椅子がある、神戸にもたくさん椅子がある。座れる場所があるならば、いつもの場所なんて大して問題ではない。名古屋とかでもいい。

どうして、立ち飲み屋じゃダメかっていうと、ぼくはとてもいま腰が痛いのだ。
 

 
まったく違う場所で生まれ、偶然に数年間をすごした僕たちが、これからも笑いあうためには、いつもの場所で会うことから、どこでもいいから会うってことに変わっていかなきゃきけなきね。
 


 
また、椅子のある場所で会おう。



行ってらっしゃい。
 
 
 

死にたいぐらい泥臭い

 

小賢しい、小賢しすぎる。

 

人に感謝をするとき、その奥底には必ずといっていいほど、見返りを期待する自分がいる。もし、そんなものを感謝と呼ばないのなら、ぼくは「ありがとう」という言葉をほとんど言えなくなってしまう。

 

 

このことを語ってみるべきかどうか、すごく悩んだけど、みんなそうなのかぼくは知りたい。知りたくてたまらない。

 

 

 

 

銀行に掃除をしにくるおばさんがいる。週に1度、ぼくたちが汚したトイレや、床を磨き、チェック表をもらって帰っていく。

 

ぼくは、新人の頃、そのおばさんのチェック表を受け取る仕事をしていた。特に何があるわけじゃなく、どこを掃除したか確認するだけのもので、雑務のようなものでした。

 

去り際に必ず、おばさんはオフィスに向けて頭を下げ、「ありがとうございます」と言って帰っていく。その声は、キーボードをたたく音や、コピー機の排出音にかき消され、だれの耳にも届かない。

 

チェック表を受け取ったぼくだけが、「いつも、ありがとうございます」と挨拶をして、おばさんを従業員口へ案内していた。

 

ある日、こんな声が聞こえてきた。

 

 

「あのおばさんの仕事、ちょっと雑やんね」

「うん、なんか汚れてるよなぁ」

 

 

耳を塞ぎたくなるような、掃除のおばさんへの愚痴だった。オフィスのちょっとした汚れぐらい自分で掃除したらいいのに、仕事のストレスのようなものが、おばさんへ向いた。

 

ぼくは、すごく聞きたくなかった。

 

 

「でも、おばさんは一生懸命やってますよ」と言ってみた。

「給料払っているわけだからさぁ」と返された。

 

 

大人の意見だと思った。先輩はすごくまっとうなことを言っていると思った。たしかに、頑張っているから許すなんてことは、仕事に存在しないのかもしれない。でもなんか、「ありがとう」も言わないくせに愚痴を言ってるんじゃないよと心の中で苛立ってしまった。

 

 

 

それから数か月して、お客様感謝デーというのが行われた。定期預金をしてもらったら、くじびきに挑戦出来て、生活用品が当たるような企画だ。

ぼくは相変わらずのしたっぱなので、商店街で貸してもらったベルを片手に、お客さんにくじを引いてもらって当たりが出たら当選の音を鳴らす仕事していた。

 

 

「次のお客様どうぞ!」と呼びこんだ先に、掃除のおばさんがいた。支店に貼っていたチラシをみて、仕事のまえに定期預金をしにきてくれたのだ。

 

 

ぼくだけが、そのことに気づいた。職場のどの人にも、そのおばさんはただのお客様だった。

 

 

とても嬉しくなって、その日は、上司や先輩にいろいろ報告してまわった。

「掃除のおばさんが定期をしてくれましたよ!」と言いまわった。

 

 

 

その次の週からだ。

 

 

おばさんの小さい「ありがとうございました」の声が、オフィスに届くようになった。声の音量はそのままなのに、みんなが「いつもありがとうございます!」と言っている。おばさんは、お客様になったのだ。

 

ぼくは、その変わりようが怖くて怖くて、いまも掃除のおばさんが来る日の夕方が嫌だ。

 

 

 

でも、よく考えると、ぼくはどうして「いつもありがとうございます」とおばさんに感謝を伝えていたんだろう。汚れているところが残っていると、職場の人が言っているのに、それを伝えなかったんだろう。

 

 

別に、同情なんてしていない。

銀行の仕事は、すべての関わりあう人がお客様になるということを、ずっと考えていたからだ。つまり、お客様感謝デーにおばさんが来ることは、【感謝】という行為への見返りを求めた、ぼくの成功例のようなものだったのだ。

 

 

 

打算的だ。でも、そんなこと考えていなかったと言われると嘘になる。あわよくばが、頭の中にはずっとあった。

 

 

 

コンビニで店員さんに、「ありがとうございます」と言うときでも、信号を正しく守るときでも、いつでもそこに小賢しい自分がいる。この【感謝】や【正しい行い】が何かに繋がれば良いと頭の中で思いながら、生きてしまっている。

 

 

 

「お給料をもらっているんだから」とおばさんを指摘した先輩も、気にもかけなかったオフィスの人たちも。ぼくが嫌だった人たちの行動が、実はよっぽど素直に生きていることに気づいてしまった。

 

 

 

ぼくは、死にたいぐらい打算的だ。

今日、掃除のおばさんが来ていて、そんなことをボーッと考えてしまった。

 

 

でも、こうやってでも生きていかないとダメだとも思っている。そうしないと、仕事にならない。結果だけを求められる日々の中で、誰かに感謝することが成果につながるのなら、そんな自分にとって気が楽な方法は他にはない。

 

 

そんなぼくでも、「ごちそうさま」だけは心の底から言っている。たくさんの命と、作ってくれた人に、純粋な感謝を述べている。与えてもらったことへ対して、ただただ感謝でしかない。

 

 

 

「あたりで~す、おめでとうございま~す」

 

 

おばさんのくじが当たったとき、ぼくは本当にうれしかった。プレゼントを渡すとき、本心から「ありがとうございます」を言えた。現金なやつだとは思っている。思っているけど、でも素直に言えた。

 

 

ぼくのこの生き方をすこしだけ肯定するなら、泥臭いと表現したい。

 

 

ぼくは、死にたいぐらい泥臭い。

 

 

そうやって人とつながって、いつか「ごちそうさま」を言うように、感謝を伝えられる人になっていきたいと思う。もし、同じようなことを悩んでいる人がいたら、言葉にして語り合いたい。泥臭く生きていこうよと、お酒は弱いけど呑みながら話をしたい。

 

入れ歯さがし

 

お正月が好きだ。特番をボーッと眺めて、気づいたら夕方になって、あぁもう一日が終わるなぁと思いながら中途はんぱな時間に寝て、夜更かしをする。そんな、ぐうたらな数日間は最高だ。

 

 

小学生の時、よく祖父母の家で集まって、親戚一同でボードゲームをしていた。人生ゲームや、キャラクター物のすごろくをリビングに広げて、みんなで遊ぶ。いつもなら、遊んでくれない大人が真剣にゲームに取り組んでいる。子どもとは違って、戦略的にゲームをすすめる戦い方に、妙な大人への憧れを感じたりした。

 

 

「もう一回、もう一回」

 

そういって、親族を席に座らせて、長い人生を辿るゲームを何度もやっていた。父親はとちゅうで、お酒がまわって寝始めて、キッチンで洗い物をしている祖母に選手交代したりしながらお正月はすぎていった。

 

 

 

25歳になって、いまさら人生ゲームを広げることはなくなった。最初に語ったように、家でボーッとテレビを眺めていることが、最高の時間だ。なんだったら、家族のいないところで観たい。ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』を観ている途中に、口元を隠さないといけないのはめんどくさい。にやけてしまうから、隠さざるをえない。

 

 

「う~わ、にやけとる」

 

 

そういった、人の表情の機微を家族はよく見ているのだ。だからといって、あのドラマをにやけずに眺めていることは、不可能なのである。

 

 

 

今年の正月も、父親の祖父母の家へ行った。

 

 

大みそかに買い込んだカニを解凍していた祖父は、野菜の準備をしていなかった。雑炊までを楽しむのがカニ鍋のお楽しみなのに、お米も炊いていなかった。母が、キッチンへ立つ。「寒いわぁ」なんて言いながら、包丁の音が聞こえる。

 

 

 

お正月。数年前まで、このキッチンには祖母が立っていた。

その場所に母が立ち、祖母はリビングに座っていた。

 

 

 

祖母が倒れたのは、二年前のことだった。理由は、血圧の薬を飲んでいなかったから。どうして飲まなかったのかというと、どうでもいいやと感じてしまい、ひとりでいる時間はご飯すら食べていなかったようだ。

 

ぼくたちは、なんでそんなことを感じてしまっているのか分からなかったけど、父が何かを感じ取って病院へ連れて行った結果、あることが判明した。

 

 

 

おばあちゃんは、認知症になっていた。

 

 

症状はすこし進んでいて、無知なぼくでも認知症が完治する病気ではないことは分かっていた。会社の研修で、その病気について学ぶ機会があって、すごくあいまいなことではあるが、やっぱり進行を遅らせるには会話がたいせつだと教わった。

 

 

ぼくはすごくショックを受けたけど、でも、本人の感じているショックを思うと、何一つ変わらないで接することがいちばんだと思った。だから、週に1度は祖父母の家へ行き、そこから出社する生活をするようになった。

 

 

いざ、いつも通りに接しようと思っても、そう簡単にはいかない。なんとなく、会話の内容がとんでいる気がするし、それがただの物忘れなのか、認知症の症状なのか分からない。最初は、なんとなくぎこちない会話をしていた気がする。

 

 

だけど、テレビをボーッと眺めて、なにか小言を祖母と話しているとまるでお正月のお昼に、寝転がって過ごしているかのように軽快な冗談がポロポロ出てくるようになった。映画を観ていても、「ここの矛盾が気にならへん?」と語りかけると「う~んそうかなぁ」と祖母は返した。会話が成り立っているのか分からないけど、でも笑いながらお菓子を食べて一緒に時間を過ごす。

 

 

デイサービスに通うようになって、祖母は病気を感じさせることがないぐらい元気になった。友だちができ、レクリエーションが楽しく、食事もおいしい。最初の頃に比べて、たくさんの話をぼくにしてくれるようになった。

 

 

 

「これねぇ、わたしも出たことあるんよ」

 

 

NHKのど自慢大会を観ていたときに、祖母がいった。祖父も知らない話だった。証拠はひとつもなく、記念品のようなものも1つも無かったけど、ぼくはその話を信じた。

どんな歌をうたったのか、リハーサルの様子はどうだったか、質問をしても答えはぜんぶ「覚えていない」だった。

 

でも、「鐘は鳴った?」という質問には即答で、「鳴った、3つ鳴った」と答えた。

 

「悔しかった?」と聞くと、「いや、出れただけで嬉しかったよ」と笑っていった。

 

 

まだテレビが普及する前、ラジオ放送の時代の話だったが、祖母の思い出に触れることができて、しかも鐘が3つでも出れたことが嬉しいという感情を知ることができて、ぼくはすごく嬉しかった。

 

 

でも、ふと思った。

 

 

祖母が認知症になっていなかったら、ぼくはこの話に巡り合えていたのだろうか。もっと元気な頃に、いろんな話を聞いていたら、鮮明に教えてくれたことだったのじゃないだろうか。

 

時間を巻き戻せない辛さも同時に感じた。認知症という病気に、「時間がなんとかしてくれる」という言葉は通用しない。今も、ゆっくりゆっくりだけど、病気は進行していく。

 

 

だったら、ぼくにできることは何だろう。

 

 

手をつなぐように、肩をそえるように、祖母と時間を過ごしていくことだけなのじゃないだろうか。毎日はいっしょにいられないけど、映画の矛盾がどうかとか、吉本新喜劇に笑ったりしながら、祖母の思い出に触れ、ぼくの思い出を聞いてもらうことが今のぼくにできることだ。

 

 

 

 

母のカニ鍋の準備が整った。

お出しが沸き立ち、カニと野菜が並び、ポン酢を皿に注いだ。

 

 

「ばあちゃん、下の歯をどこやったん?」

 

 

妹が言った。よく見ると、祖母の下入れ歯がない。これじゃあ、カニ鍋が食えない。

 

 

 

「う~ん、どこやったやろ、分からへんなぁ」

 

 

久しぶりに、感じた祖母が認知症だったという事実に、お正月のお昼がすこし暗くなりかけた。それがすごく嫌だった。でも、ぼくたち家族は、みんな、祖母の病気を受け入れて進む決意のようなものがあったと思う。

 

 

「入れ歯さがしゲームしよか」

 

 

ぼくのくだらない冗談に、みんなが賛同した。

 

いい大人がみんな、正月の2日から、入れ歯を探している。ゴミ箱の中、お菓子の箱、トイレ、ふろ場。みんな、歯があるのに、入れ歯を探している。その光景は、とても面白く、なんとなくみんなで笑った。ぼくはというと、言い出しっぺのくせに、そんなに参加せず『逃げるは恥だが役に立つ』を観ていた。でも、口元のにやけは、ガッキーの力だけでは無かったと思う。

 

 

結局、入れ歯は見つからなかった。ばあちゃんは、のこった上の歯で、父がほぐしたカニをうまそうにほおばっていた。ぼくは、それを遠めに必死で自分のカニを確保していた。

 

 

ボードゲームをしていたお正月とは、ずいぶん変わってしまったと、ぼくは何となく思っていたけど、でも何も変わっていなかったと思う。

 

「入れ歯さがし」というゲームを家族みんなで遊び、正月のお昼をすごした時間は、あの頃のまんまだったのだ。

 

 

しいて言うなら、今まで祖母がやっていた皿洗いを、妹がふてくされながらやっていたことぐらいだろう。

 

 

1月2日のひと。

 

今年の1月2日は、家族とすごした。

とても久しぶりのことだ。

 

 

昨年度まで、ぼくにはお決まりのコースがあった。

 

大学で属した部活の先輩と、同期のともだちとみんなで集い、神戸の生田神社へ初詣に行き、そのあと、しゃぶしゃぶの食べ放題に行くという黄金の方程式だった。そのコースに、毎年ちがったアレンジが加わる。クレーンゲームでひとりの女性の先輩に贈り物を全力で獲得したり、船に乗ってたそがれてみたり、ぼくの家へきてテレビを眺めたりしていた。

 

 

ぼくにとって、1月2日は毎年の楽しみで、そして、その会の中心には、いつも、ひとりの先輩がいた。

 

 

 

ぼくが大学生の頃にやっていた精肉店のアルバイトは、その先輩の紹介だった。部活でも、バイトでも、先輩はとてもやさしく、いっしょに遊びながら大学生活をすごしていた。誰かの誕生日になれば、ムービーを作成したり。バイトになると、どっちがニアピンで豚ミンチを量れるかや、ゴミ捨ておさぼりタイムを奪い合ったりした。

 

 

先輩はぼくよりも、ずっと人柄がよくて、みんなに愛されている。いまも、大学生活の話をするときは、その話題になる。

みんなにあだ名で呼ばれて、困ったときは頼りにされて、どんな場にも順応して、後輩からも先輩からも必要とされている人だった。

 

 


 

 

ある冬の夜、バイト終わりに先輩に誘われた。

 

 

ルミナリエ観に行かへん?」

 

 

先に言っておきますが、先輩は男性であり、ぼくも男性で、どっちもそういう感情は存在していません。ただ、神戸の百貨店でバイトをしていたぼくたちにとって、散歩をするのには丁度いい場所だったのです。

 

 

バイトで疲れた体に、冬の風がしみました。でも、ぼくはとても温かい気持ちになっていました。先輩に、散歩に誘われたことがすごく嬉しかったのです。

散歩に誘ってもらえるということは、空腹だからとかではなく、ちょっと一緒に話をしたいということです。ぼくと、一緒に歩きたいと言ってくれたあの日の夜を忘れません。

 

 

ルミナリエは、ぼくたちが行った頃には終わっていました。

 

ついさっきまで、冬の神戸を照らしていた美しい光は消え、その余韻だけが公園にある。カップルや家族連れは、みんな家へ帰るため駅へ向かっており、それを逆行するように先輩と進みました。

 

 

たしか、和牛のホルモン炒めだったと思います。さっきまで肉屋で働いていたのに、ぼくたちは半額になったそのグルメを食べました。お酒なんかも買っていたと思います。二人で、公園のはじっこに座って爪楊枝をにぎっていました。

 

 

先輩は、しばらく固くなったホルモンをかみ砕いたあと話をしてくれました。それは、いま思うとくだらないことだったかもしれないのですが、恋愛相談のようなもの。まだ彼女もいたことがなかったぼくに、恋人の浮気がらみの悩みでした。

 

 

何を答えたかは覚えていません。話を聞いていただけかもしれない。でも、先輩には悪いけど、ぼくはその時間を楽しんでいました。恋愛相談なんて初めてされたし、ぼくを信頼して話をしてくれたことが、ただただ嬉しかったからです。

 

 

その日以降、ぼくは先輩にいろんなことを話せるようになりました。先輩も、いろんなことを話してくれました。二人で行った、真っ暗のルミナリエは忘れられません。

 

 

先輩の真似かもしれませんが、ぼくも、誰かに心をひらくときは、いつも散歩をしているときにしようと決めています。川辺を歩いたり、公園のベンチで語ったり、そこで本音で話すのが大好きです。

 

 

 


 

 

 

2018年1月2日、今年はしゃぶしゃぶを囲めませんでした。

 

いつも中心になって、みんなを集めてくれる先輩が帰ってきていなかったからです。

 

 

一昨年ぐらいから、先輩は、仕事かプライベートか理由は分からないけど精神的に弱ってしまって、人と会えなくなってしまっています。電話では、いつも元気な声を聞かせてくれて、軽快な冗談をまじえてくれるのですが、家族でさえもあまり会いたくない状況だそうです。

 

 

事情も分からず、無理やり会うこともできない。でもぼくたちは繋がっていたい。そんなことを、いつも思いながら、部活のみんなは先輩の話をして電話をしたりしています。

 

 

何かぼくたちにできることはないだろうか。でも、変に焦らせてしまったら、先輩を追い詰めてしまうことになるかもしれない。もしかしたら、こうやって書いてることも先輩を傷つけてしまうかもしれない。でも、何かをしたくて、思いを伝えたくて、思い出をすこしだけ引き出しています。

 

 

どうすれば、また前みたいにみんなでしゃぶしゃぶを囲めたり、真っ暗のルミナリエでくだらない恋愛話をしてた頃に戻れるのか、ぼくは病院の先生じゃないので分からないです。

 

でも、これからも、1月2日はスケジュールを開け続けます。母親から、「1日だけじゃなくて、2日も実家におったらいいやん!」と小言をこぼされても、2日は絶対にしゃぶしゃぶです。しゃぶしゃぶしたり、散歩したりしないと、一年がはじまらないのです。

 

 

 

写真フォルダや、SNSで日付をたどると、いつもそこには1月2日の思い出があります。ほかにもたくさんあるんですけどね。

 

 

人はいつも近くにいる友達や恋人、家族と、「ほんなら、また!」もしくは、標準語で「では、また!」と言って分かれます。

1月2日にお決まりで会えていたぼくは、絶対にまた会えるという関係性をとても嬉しく思い、そうやって分かれてきました。

 

 

でも、人と人のこれからに、絶対なんてない。1分先の未来もわからない私たちに、絶対なんてものは存在しないのです。

先輩とこのような理由で会えなくなるなんて、あの日のぼくは思いもしなかった。

 

 

 

だからこそ、お決まりに頼ることなく、ぼくたちはみんな、いまの時間を大切にして向き合っていかないといけない。

こんなことを言うと、とても重いかもしれないが、ぼくはそう思って、人と全力で楽しんでいこうと思います。

 

 

 

そして、ひっくり返すかもしれないですが、ぼくたちは絶対にまた会える。

理由なんてないけど、会えるに決まっている。

 

 

出会ってもう7年ぐらいになっている。きっと超えられる壁だと信じている。

もし、なにか背中を押せることがあるなら、ぼくは喜んで全力を出したい。

 

 

1月2日のひと、その生還は、もうすぐそこだと思っています。

 

カミングスーンってやつですね。

自転車を大切にすること。

 

今日が仕事納めだったので、さいごに自転車を拭きました。

 

 

ふだんは自転車に乗って営業をしています。お家を一軒ずつ周るので、自転車は適しています。インターホンを押して留守だったら、即座にまたがり動き出せます。ぼくにとっては、おそらく一番大切な仕事道具です。電卓ではありません。

 

 

その自転車なのですが、いまは2代目に乗っています。新入社員のぼくに与えられた、初代の相棒はとんでもないやつでした。

 

 

まず、バッテリーが2分で切れる。前輪と後輪のタイヤが仕様がちがうので、空気入れがとても面倒。謎の海外メーカーの商品ゆえに、修理するにもパーツがない。車体がゆがんでおり、ブレーキは常時かかり続ける。

 

電動アシストは何も支持していないのに、忘れた頃に突然やってくる。表現するならば、『ど根性ガエル』で、ピョン吉に引っ張られる主人公のひろしのような感じです。自分の意思とは反して、願ってもいないのにアシストしてくれるので、なんども事故にあいかけました。

 

 

いいかげん困り果て、職場の近くの自転車屋さんへ行くことに。

 

 

「いい自転車のさせてもらってるやん(笑)」

 

 

この道50年の自転車屋さんのご主人が、苦笑いしながらぼくの相棒に触れました。そして、この自転車のどこを直すべきか、修理する必要がある場所はどこかを言いながらメンテナンスを始めました。

 

 

「こりゃあかんなぁ~」とご主人は嘆いていました。話を聞いていると、ぼくの自転車はいろんなメーカーのパーツを寄せ集めて作られたもので、フランケンシュタインのような怪物。手を施すところがありすぎるみたいでした。

 

 

(やばい、新しい自転車を勧めてきそう・・・・)

 

 

新しい自転車を買う予算がないのは分かっているし、ご主人に勧められたら困るなぁとぼくは思っていました。でも、商売人なら、ここは当然営業してくるよなぁとか考えながら。

 

 

「でもまぁ、ちゃんと走れるようにはしといたよ」

 

 

返された自転車は、常時かけられるブレーキは治り、車体のゆがみも修正されていました。またがってこいでみると、めちゃくちゃ快適でした。

 

 

「あのぉ、お代は?」とぼくが聞くと、「いやぁ、パーツも何も使ってないからいらんよ、でも事故せんようにたまに持っておいでや」とご主人はすこし汚れた手を振りました。

 

 

それからは、もう通いつめです。なにせ、フランケンシュタイン。次から次へと異常が発生するのです。そのたびに、ご主人はぼくの自転車を修理し、「さぁ、がんばってらっしゃい」と送り出してくれました。

 

自転車屋さんがある場所は、ぼくの営業エリアではありません。ほかの人が周っている地域だから、営業もしませんでした。だけど、自転車が悲鳴をあげるたびに行くので、どんどん親しくなっていき、お取引もちょっとだけしてくれるようになりました。

 

 

 

人と、人のつながりは、ジグソーパズルのようなものだと思います。人それぞれにある長所と短所がかみ合うようにして、繋がりあう。

 

 

なにか自分に足りないものがあるから、人は人に魅かれていく。それはおなじ友人という関係性でも、それぞれに違うと思います。似た者同士であつまっているつながりでも、やっぱりそこには、自分にはないものを持っている友人がいる。

 

 

その微妙な凸と凹に気づけたときに、ぼくたちは出会えたことをとても幸福に感じることができるし、運命と言うものをかみしめられる気がします。

 

「俺たちって本当に似てるよなぁ」といって肩を寄せ合うより、「似てるけど、でもお前のそういうところが好きだし、長所だと思えるよ」と言えるほうがきっと長く一緒にいられる。そのきっかけは、相手と自分のちょっとした違いを理解し、そんなぼくたちが出会った理由に感謝することだと思います。

 

おおげさな話になりましたが、今回の出会いを通じて、そんなことを感じていました。

 

 

ぼくは、自転車がフランケンシュタインじゃなかったら、このご主人と仲良くなることはありませんでした。自転車修理のこだわりや、パーツの名称を知ることもなかったし、お取引をすることもなかった。仕事道具という外身の話ではありますが、この出会いを大切にしたいと思いました。

 

 

 

 

それから数か月後、ぼくは新しい自転車に乗っていました。

 

自転車屋さんで買ったものではありません。フランケンシュタインが、走行不可能になってしまった結果、ようやく本部がぼくに新しい自転車を送ってくれたのです。しかも、国産の電動自転車。ぼくがずっと求めていたものでした。

 

 

届いてびっくり。スペックは前評判通り、国産の電動自転車ですが、車体がショッキングなピンク色だったのです。

 

 

「どこの銀行員がピンクのママチャリで仕事すんねん」

 

 

ぼくは、心の中でツッコミぱなしでした。でも、実際に走るとその快適さにびっくり。色なんてもうどうでもいいぐらいに、最高な自転車だったのです。

 

 

営業初日、ぼくはまず、自転車屋さんに行きました。

 

 

すると、ご主人が飛び出してきて、

「おぉ~~~、ええ自転車買うてもろたやん!国産やし、色は派手やけど(笑)」

すぐにぼくの自転車を触ってくれました。

 

 

「でもさ、いい自転車だからってメンテナンスしなくていいわけじゃない、空気入れるだけでも持っておいで、大切に乗りなさいよ~」

 

 

今日の仕事納め、ぼくは年末のあいさつに、ご主人のもとへ行きました。周辺住民のお助け場になっている自転車屋はとうぜんのように営業をしていて、お客さんが並んでメンテナンスをうけていました。

 

 

「今年は本当にお世話になりました!」

 

「また来年も、持っておいでよ~」

 

 

簡単なあいさつをかわして、ぼくは支店にもどり、毎日乗せてくれた自転車を拭きました。大切に乗っていくために、拭きました。

 

フランケンシュタインがいなかったら、なかった出会い。物を大切に、人との出会いを大切に、一年を終わることができたことに感謝して、仕事を終わりました。

 

 

走り回った一年、つかれたなぁ。

カレンダー配りについて。

 

年末になると、今年も一年お世話になりましたという言葉と、来年度のカレンダーを渡す。やっぱり、優先していつも助けてくださった人のところへ行きます。お正月はどんなことをして過ごすのかや、この一年はしんどかったねぇと話をしたりします。

 

去年の今頃、カレンダーを配るという行為を、ぼくはどこか作業的に、ノルマのように、せっせと来年の365日が書かれた月めくりの紙を届けていました。悪い気はしません。だって、「カレンダーを届けに参りました」と言うと、誰もが「寒い中ありがとう!」と言ってくれる。インターホンを押すのに勇気がいらない仕事を、気楽に走り回ることができました。

 

 

今年も、支店にカレンダーが届く季節になったのです。寒いなぁ。


 

重い鞄と、重い暦をもって、また歓迎してもらおうと打算的にチラシも一緒に同封して、お客様まわりをはじめます。

 

 

「癌が再発して、年明けに手術やねん」

 

 

この二年、大変お世話になったお客様のところへ言ったときに、小さい声でその人は言いました。ぼくは、驚いてしまって、何も言うことができなかったです。カレンダーを渡して、労ってもらって、定期預金もしてもらおうなんて思っていた頭の中に、お客様の突然の告白に返す言葉はありませんでした。

 

 

「でもね、なかむらくん、君のカレンダーをなんで私が受け取ると思う?

 それはねぇ、元気に生きて、ここに予定を書いてめくっていくためやで」

 

 

笑いながら、ぼくの手にあったカレンダーはお客様のキッチンに置かれました。ぼくがちょっと得意げに、気楽に配り歩いていたものは、毎日を一生懸命生きるために必要なものでした。暦を渡すということは、この一年間の生活を渡すということ。

 

ぼくが手渡したカレンダーを、力強くめくってくれると言ってくれた時に、ようやく返す言葉がちょっとだけ見つかり、反射的にこぼれる「よいお年を」とはちょっと違うと自分の中で強く思って言いました。

 

 

「めくりまくりましょう、で、とりあえずよいお年にしましょう

 来年も渡しに来れたら来ますから(笑)」

 

 

お客さんは、ぼくにいつも、仕事はひとつじゃない。好きなことを目指したほうがいいよと声をかけてくれる人で、だからこそ、来年も必ず来ますとは言いませんでした。その意図もくみ取って、ニヤリと笑ってくれてぼくはとても嬉しかったです。

 

 

 

 

カレンダーや手帳って、未来だ。それもすごく近い未来だ。でも、そのすごく近い未来でさえ、僕たちはそこにたどり着けるのかどうか分からない。

 

先日、手帳売り場を歩いていると、そこにはたくさんの人がいた。みんな楽しそうに、来年の自分を書き込むものを探している。1日1日を大切に、強く生きるためにカレンダーや手帳はあるとぼくは今日教えてもらった。

 

 

明日、明後日とまだ2日ある。

ぼくはもっと、大切にカレンダーを配ろうと思い。

そして心から「来年もいい一年にしましょう!」と言いたい。

 

 

言葉を返すことに苦しさを感じられたこと、

それは、ぼくにとって営業の外で向き合えたことです。

 

どうしても今日書きたかったのですが、日付が変わってしまいました。

28日がはじまっています。大切に生きようと思います。

有馬記念は、いや、競馬はたのしい。

 

2017年12月24日、午前の6時半。

 

目覚ましをセットしていないのにも関わらず、ぼくは目を覚ました。いまスーツを着て、ネクタイを締めたら、ギリギリで会社に間に合う時間だ。一瞬あせったが、なぁに、今日は日曜日である。

 

もう一度、ふふふと笑いながら眠りにつこうと思ったが、あることに気づいてバッチリと目が覚めてしまった。

 

 

あっ、今日は有馬記念がある。

 

 

有馬記念とは、競馬のレースの名前です。一年を通して、日本中で行われるたくさんのレースの中でも注目度が高い。それは、きっとこのレースの出場馬が、人気投票で決まっていることだと思います。

 

今年、たくさんの競馬ファンを魅了した馬が、その脚を競う。千葉県の中山競馬場で開催される、そのオールスターのレースに、人はみんな夢や欲望や、ときに人生をのせたりするのです。

 

 

そんなこんなで、ぼくも行ってきました。有馬記念

 

行くと言っても、千葉県まで行くわけではありません。家から電車をちょっと乗り継いで、兵庫県阪神競馬場へ。すでに車両の中は、スポーツ新聞を入念に読み込む人たちであふれています。大学の先輩に教えてもらったのですが、車両の前から2両目ぐらいが、ちょうど競馬場に行きやすい位置に停まるそうで、もしかしたら、そのせいで人がいっぱいだったのかもしれません。

 

 

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さて、キョロキョロします。

 

クリスマスイブに、競馬場へやってくるのはどんな人だろうか。家族連れに、カップルに、友達同士に、あとは・・・・勝負師に。たくさんの人間関係を形成した人々が、馬を応援しています。その片手には、定期券ぐらいのサイズの馬券があります。彼らは、自分たちで選んだ馬に賭けたその1枚の紙に、楽しみをのせているのです。

 

 

1分ちょっとのレースが終わると、みんなの感情はどちらかに分かれます。

 

ガッツポーズをみせるおじさん。何も言わずに馬券をゴミ箱に捨てるお父さん。

ともだちとキャッキャと騒ぐ女の子。何も言わずに馬券をゴミ箱に捨てるお母さん。

 

 

予想を外した人々は、何かに吸い寄せられるように、次のレースの予想へ向かい、的中した人は笑顔で配当金がいくらになったかを待つのです。その何とも言えない、明暗の分かれ方がすばらしく面白い。

 

 

 

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次のレースの予想は、パドックという場所で行われます。

 

パドックとはランウェイのようなもので、そこを馬たちが歩いています。人々、いや勝負師たちは、そこに集い、馬の姿を眺めるのです。歩き方や、体の艶、息の荒さなど、その判断基準はそれぞれで色んな声が聞こえてきます。

 

 

「あいつは、汗かいてるからあかんで」

「あの歩き方はちょっと気になるなぁ」

「ちょっと太すぎひん?」

 

 

馬たちは言葉を話せません。だからこそ、目に見えるヒントを必死に探すわけです。

 

「今日はちょっと彼女にふられたから調子悪いわ」なんてことは教えてくれないのです。

 

 

ちなみにぼくは、パドックに迷い込んだ鳩に対して、やさしく避けるように歩く馬は応援します。

 

知人にそれを言ったら、「鳩にビビってるような馬はあかん」と言われましたが。

 

 

発想の時間がきて、馬たちが走り出し、明暗が分かれ、そしてまたパドックに集う。この繰り返しが、競馬場では行われています。

 

 

 

そうこうしていると、お腹がすきます。競馬場にはたくさんの食べ物が売っていて、日によっては出店なんかもあります。カツカレーのようなゲン担ぎをする人もいれば、そんなに酔っぱらって大丈夫かってぐらいビールを飲んでる人もいる。

 

あと、𠮷野家があるんですが、なぜか大盛しか置いてなかったりします。たぶん、それでも売れちゃうのでしょう。

 

 

勝負事をしている、その緊張が解けるのと同時に腹は空き、財布のひもは緩むのです。バンバン食べ物が売れています。ご飯を食べているときも、もちろんみんな勝負師です。赤ペンを片手に、馬を眺めながら牛丼を食べます。

 

馬刺しがないのが唯一の救いです。

 

 

 

さて、大人が馬を眺め、勝負事に燃えているあいだ、子どもは何をしているのでしょう。競馬場には、けっこう家族連れがいます。幼稚園や小学生ぐらいのお子様が、走り回っているのです。彼らは、じぶんで馬券を買うお金を持っていません。たぶん、お金を賭けるというギャンブルを楽しめる年齢でもありません。

 

 

じつは、競馬場には公園があるのです。

 

ひろびろとした芝生があって、競走馬としては活躍できなかったけど性格が温厚な馬が、やさしい眼差しでエサを食べていたりするので、子どもたちはそこで遊んでいます。遊具なんかもあったりして、もはや動物公園みたいなものですね。

 

 

 

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中には、ちびっこ勝負師もいます。

 

ぼくが初めて競馬場へ行ったときに驚いたのは、小学生ぐらいの姉妹がスポーツ新聞を広げて、赤いペンを持ち、必死に予想をしている姿を見たときでした。きっと、お父さんに連れられて来たんだと思います。

 

 

「あのさぁ、お馬さんがいる公園に行こっか?」なんてお声かけをして、奥さんに言い訳をして出かけたんだろうなぁと思う家族もいます。まるで「カラオケのある休めるところ行こっか?」とラブホテルに誘う手口のように、じぶんの子どもを競馬場に連れてきた結果、予想外にハマってしまって困っている顔が目に浮かびます。

 

まぁそれはそれで、家族団らんで楽しそうです。

 

 

 

15時を過ぎた頃から、競馬場は緊張感を増していきます。

 

有馬記念が近づくのです。

 

みんなが馬券売り場に並び、今日いちばんの願いをこめてお金を投入します。どの馬にするのか、どの騎手に運命を託すのか。ぼくも、それなり予想をして、ちょっと背伸びをした金額を投入しました。

 

 

大きなビジョンに、中継が映し出されます。ファンファーレが鳴り響き、みんなが新聞紙を叩きます。手拍子のようなものですね。

その音はどんどん大きくなり、なんとなく鼓動もはやくなる。たかが、1分ちょっとの時間に、どんどん期待が生まれるのです。

 

そして、そこにいる全員がそれぞれの祈りのようなものを、不確定な未来へと届けるのです。その一体感は、とてつもないエネルギー。

 

 

 

パーン!

 

 

一斉のスタートで、揺れるような歓声が響き渡ります。言葉遣いは、人それぞれなのですが、丁寧な口調はちょっと少ない。

 

 

「福永~~~~」

「武~~~~~」

「いかんかい!」

 

 

それぞれの買った馬を応援するのですが、出てくる声援は、みんな騎手の名前を叫びます。これがすこし、興味深いこと。

 

馬の名前で馬券を買うのに、さいごに叫ぶのは乗っている人の名前なのです。結局、人は人に言葉をかけるしかないのです。負けても、あまり馬を責めている人はいません。

 

馬を信じ、人に頼る。

 

これが競馬をしている人の本音なのだと思います。馬と話せたら、これはまた別の話なのですが。

 

 

「いけぇぇぇ!武!!!おれたちの夢をのせてはしれぇぇえ!」

 

 

絶叫しているおじさんがいます。やめてくれ、勝手におれたちの夢にしないでくれ。おれの夢を勝手に馬にのせないでくれ。

 

 

「た~~~~~け~~~~~~~~~~」

 

 

 

おじさんは絶叫を続けます。まだ第一コーナーを曲がったところなのに、彼の喉は大丈夫なのだろうか。そんな心配も吹き飛ばすような、叫び。

 

周りの人たちも、声の大きさは別として、それぞれの声援をおくります。ぼくも、恥ずかしながら応援している騎手の名前を声にしました。

 

 

レースは、一瞬。

 

今日一日のクライマックスは、一番人気の馬が予想通りの優勝をとげました。あのおじさんが叫んでいた、武豊騎手の馬です。

 

 

おじさんが、倒れこんでいます。倒れこんだまま、叫び続けます。

 

 

「たけ~~~~~ありがとう~~~~~~」

 

 

笑わずにはいれませんでした。周りの人たちも笑っていました。人生を賭けた勝負をしていたのでしょうか。

その隣で、女子大生と思われる人が、小さくガッツポーズしていて、そのテンションの違いは最高でした。

 

ちょっと歩くと、ひざから崩れ落ちているおじさんがいたり、なんとも微妙な機嫌になったお父さんもいました。

 

そして、また明暗がわかれ、人々は動き始めるのです。

 

 

キタサンブラックという優勝した馬は、演歌歌手の北島三郎が馬主です。優勝すると、サブちゃんは『まつり』を歌います。その曲が、栄光のBGMになった人と、蛍の光のような帰りのBGMになるのか、それは人それぞれなのです。

 

 

 

 

競馬場には色んな人がいます。人生をかけている人と、遊び感覚でやっている人、イチャイチャしている人。そのいろんな人たちが作り出す、スポーツを観るのは、なんかジャングルを歩いているような感覚で、歩けば歩くほど楽しい場所です。

 

 

 

ちなみに、ぼくの成果はどうだったのかと言うと、こうやって楽しんだので、まぁそれはどうでもいいじゃないですか。

 

 

 

はぁ・・・・蛯名・・・・。

 

ネギを隠した日。

 

ありがたいような、別に求めていないような、会社の努力賞のようなものをもらった。もうこれで最後かもしれないボーナスには、ちょっとだけ上積みがされていて、それはそれでよかったなぁと思っている。

 

 

表彰をされると、職場の風習というか、お決まりのようなもので、「みなさんのおかげで賞をいただくことができました」というプレゼントのようなものを贈る必要がある。まぁ、周りの人にも明確に分かるように、ぼくがいくら余分にお金をもらったかがバレているわけなので、致し方がないのです。

 

 

さて、どうしたものか。先輩に話を聞くと、ケーキがいちばん無難に喜んでもらえるということで、その案を採用することにした。ばかにならない出費になりそうだけど、何度もいうが、ちょっとした収入があったからこうなるのである。

 

 

いちばん手軽に買えるのは、職場の裏にあるお菓子屋さんだ。いつも、裏口で出会ったらおばさんは挨拶をしてくれるし、ご近所づきあいもある。おいしそうな匂いもするし、お値段も手ごろ。

 

・・・・と頭で考えていたけれど。

 

「あそこのケーキは微妙やで」

 

先輩の付け足すようなお言葉が飛んできました。そんなことを言われて、それを買ってくるわけにはいかないじゃないか。もうほんと、目と鼻の先にあるお菓子屋さんをすっとばして、ちょっと遠くにあるケーキ屋さんまでお買い物に行かないといけないなんて、もう本当に表彰状を返却したい気分でした。

 

 

吹き抜ける風に凍えながら、なんでこんなに寒いのにケーキを買いにぼくは歩いているんだろうと悲しくなりつつ、自転車をとばしました。たくさん並んでいる中で、好き嫌いの無さそうなケーキを選んで、そろそろと帰ります。崩したりしたら大変だ。

 

「やべぇ」

 

支店の裏口に入る直前に、ぼくはとつぜんドキッとした。お菓子屋さんのおばさんがいる。路地で、ゴミか何かを袋につめている。ぼくの両手には、ちょっと遠いケーキ屋で買った、それなりにお金のかかった差し入れがある。

 

バレたらどうしよう。気分を悪くさせたくない。隠すにしては難しい。ケーキを20個もどこかに潜ませて、ここを突破するのは絶対に無理だ。もしぼくが、一休さんならここにあるケーキをぜんぶ胃袋に入れて支店まで到達し、お殿様に得意げな顔をするけど、そういうわけにもいかない。

 

 

 

 

そういえば、小さい頃にもおなじようなことがあった。

 

 

母親は、いつもぼくにおつかいを頼んだ。スーパーで買いそびれた野菜を、家の近所の八百屋さんへ小銭をもたせて、ぼくを送り出した。その店は、おじさんとおばさんが2人でやっていて、いつも笑顔で出迎えてくれる温かい八百屋さんだった。

 

 

野菜は、頼めば切って渡してもらえて、おじさんがいちばん良いものを選んで入れてくれました。帰りには飴玉をもらったし、登下校であいさつをしたら、いつも手を振ってくれ、お釣りはみかんのカゴに入っていて、お客さんとおばさんはいつも談笑をしていた。

 

 

「今日は、あそこのフレッシュでネギを買ってきて~」

 

 

ある日、母はぼくに店の指定をしました。フレッシュは、最近できた野菜専門のスーパーで、新鮮でかつお安い商品がならぶお店でした。八百屋さんよりも、お安くそして、種類も豊富で、サイズも幅広い。登下校の時にうすうす感じていたけど、近所の人たちの足は、確実にフレッシュへと向かっていました。

 

 

ぼくは、すごく嫌でした。フレッシュへ行くためには、八百屋さんの前を通らないといけない。家に帰るためには、八百屋さんの前を通らないといけない。いつも優しくしてくれた2人を裏切るような行為が、ものすごく嫌でした。外は真っ暗だったと思います。豚汁か何かに入れるネギが足りないという母に、「ネギなんていいよ」とそれとなく拒否を示したことを覚えています。

 

 

そんなうす~いストライキも母には通用せず、気づいたらフレッシュでネギを片手にレジに並んでいる自分がいました。遅い時間にも関わらず、たくさんの大人が野菜を買いに来ていて、八百屋さんには誰もお客さんはいませんでした。

 

 

帰り道です。ぼくは、大きなネギを持っています。誰がどこから見ても、ネギです。フレッシュは八百屋さんのように、ネギを切ってはくれません。太くて、でっかいネギは、孫悟空の如意棒のように小学生のぼくには長く見えたと思います。

 

 

「隠して進もう」

 

 

ぼくは、シャツの中にネギをつっこみました。それでもはみ出るから、ズボンの中にまで青い匂いをしまいました。緑の部分がシャツ、白い部分がズボンといったところです。そして、ロボットダンスのようにぎこちない動きで、八百屋さんの前を通過しました。

 

 

すごく怖かったです。おじさんとおばさんに挨拶はできませんでした。顔は、ずっと下がったまま。ネギは少しづつ、ずり落ちてきます。たった30秒ほどの歩行は、とても長かった。そして、通り過ぎてから家までの道のりは、すごく一瞬に感じました。

 

 

それから、1年ぐらいして八百屋さんは店を閉めました。その時の、胸のチクっとした感覚、いまでもあの日のことを思い出すのは、まだ心に棘がささったまんまなのかもしれません。

 

 

今日、ケーキをたくさん抱えて、路地でお菓子屋さんのおばさんと出会ったときに、その棘の存在に気づいて、触ってしまったのだと思います。だけど、ケーキは隠せない。ズボンの中にも、シャツの中にもしまえない。あの頃のぼくに比べたら、洋服のサイズも大きくなったけど、崩すわけにもいかないし、汚いぼくの体にケーキが触れたら食えたもんじゃない。

 

 

意を決した。ひとつ折り合いをつけた。

 

おばさんの店よりも、こっちのケーキ屋さんのほうが美味しいから仕方ないじゃないか。それが社会ってもんだろ。商売ってもんでしょう。

 

そんなことを、無言で思いながら路地を通った。おばさんは、偶然にもぼくの存在に気づくことなくお店へ戻っていく。その後ろ姿を確認して、すこしだけ足を速くさせる。職場の入館キーを押して、ようやく息をつく。

 

 

いつからだろうか。折り合いをつけることが、ちょっとうまくなった。それが社会ってもんだろうと、言い聞かせることが増えた。

 

でも、やっぱり心苦しい。

 

 

買ってきたケーキは職場の人たちにすごく喜ばれた。ぼくも食べたけど、なんとなく、あの息苦しさを感じる価値があるようには思えなかった。

 

 

八百屋のおじさんとおばさんは、元気にしているのだろうか。

ネギを隠して歩いた日のことを、ぼくは忘れたくないと思った。

河童は、流れたいんじゃないかな。【ことわ・ざ】

 

カッパは本当にいるのだろうか。そのことについて、小学生の頃からずっと考えている。

 

『じっぽ』というカッパと少年のお話を、小学生の時に国語の教科書で読んだ。

覚えているのは、少年がカッパのじっぽを水槽に入れてあげてキュウリをあげているシーンだ。


なんでまた、そこを覚えているかって、実家にぼくが書いたその絵が置いてあるからなのですが。

目撃論や、カッパの伝説について何も調べていないけど、ばくぜんとカッパの存在をぼくは信じています。

 

 

今日は、このことわざについて考えてみたいなぁと思います。

 

 

 

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小学生の時に出会った気がする。

あと、同じような意味でつかわれる、「猿も木から落ちる」「弘法も筆の誤り」も教わった。

 

 

そういえば、サルスベリという木が近所に生えていたけど、あれは表面がツルツルしてるから猿も登れないということから付いた名前らしい。

 

だから、サルスベリを巧みに登っている子どもがいたら、それはもう、お猿さんよりも木登りがうまいってことなので誇るべきことだと思いますよ。

 

 

・・・・話がそれましたが、これらのことわざの意味はこうです。

 

・その道の名人でも失敗をすることがある。

 

 

木登りの名手であるサルも木から落ちるし、

字がとても上手な弘法大使でさえも失敗をすることがあるということなんですね。

カッパの場合は、泳ぐのがとても上手なのに流されてしまう。

まぁ、流されるってことは、溺れるみたいなものですねぇ。

 

オリンピックとかを観ていると、世界中のトップ選手たちが競い合うなかで、たまにとんでもない失敗があったりします。

 

そんな時に、これらのことわざは使われるんでしょうね。

なんか寛容な態度で、人の失敗を許してしまうのがいいなぁって思います。

 

 

だけど、ぼくには、もうひとつの「河童の川流れ」があります。 

 

 

猿は落ちる、筆を誤るという表現がされるけど、カッパは流れる。

失敗のイメージがあんまりないんですよね。

 

流れるっていうのは、なんか、自分の意思で動いている気がします。

だって、夏になればみんな浮輪や、イルカのでっかいやつを持ってプールに行くじゃないですか。

 

何があるわけでもないので、プ~カプ~カしながら夏の日差しを浴びている。

日々のストレスを何かしらの動きで解消するんじゃなくて、水の流れに身をまかせる。

 

たまに、市民プールで本気で泳いでいる人とかもいたけど、あれはなんだったのだろう。

「おれは泳げるぜぇ」みたいなことを、アピールしたかったのでしょうか。

 

 

 

ことわざの中のカッパも、きっと流されたくて、流れている。

で、なんか「もっとさ、気楽にいこうぜぇ」って話しかけてるはずなんです。

 

 

みなさんは、疲れたら川や海を眺めたりしませんか。

あと、お風呂につかってボーッとしてみたり。

そんなときに、「河童の川流れ」を思い出してほしいんです。

おぼれている姿を想像して、笑ってくださいってことじゃないですよ、

気楽にいこうぜと話しかけてる様子を想像してほしいんです。

 

 

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ハワイの海や川で流れている姿もいいですねぇ。

常夏をたんのうしながら目の前を通り過ぎていく。

あっ、カッパって、海外にはいないらしいです。

日本固有の妖怪で、世界には水の精と呼ばれるもっとかわいい生き物がいるようで。

 

 

だからたぶん、カッパもハワイ旅行に行ったんでしょうね。

海外のキュウリってすごくでっかくて、味もなんかちょっと違うけど、お気に召してくださるのだろうか。

 パスポートは、ちゃんと発行したのだろうか。

海外の水は、肌に合うのだろうか。

すごくすごく気になってしまいます。

 

 

頭の中に、流れてくれるカッパがいたら、ちょっとだけ肩の力が抜けますよ。

 

 

 

年末になってまいりました、寒い日がつづきますね。

しんどいことばっかりですが、気楽にいきましょう。

ほら、だって河童の川流れって言うじゃないですか。

失敗したって大丈夫ですよ、

ほら、だって河童の川流れって言いますもんね。

 

 

絵の技術は小学生から上がらないなぁ。

尼崎の話がしたい。

ぼくは、尼崎の話がしたい。
生まれ育った町について話をしたい。

そう言うと、いつも何かしらの期待をさせてしまう。それは、この町がもつ、なんともいえない未開の地のようなイメージがそうさせてる気がする。「あそこはガラが悪いから」という印象が、ぼくの育った町にはあるようだ。 

たしかに、世の中に尼崎という町が出たときの話題はそんなに良くない。セアカゴケグモ大発生や、アスベスト問題が近年では話題になっていた。 

地域の色というものが、人が暮らす以上、その町にはついてくる。大好きなダウンタウンや、中島らもさんが育った町で、ぼくもおなじ空気を吸って大人になった。工場地帯から流れてくる光化学スモッグに目がチカチカして、20分休みは外で遊べず、図書室でぼーっとしてるような昼をよく過ごした。
下校時には、不審者がよく出たから、集団下校が多かった。「春は多いからねぇ」という先生の一言は、いまもぼくがニュースを見てつぶやく常套句になっている。


町そのもののイメージが先行してかどうかは分からないけど、中学校はかなりハードモードだった。どこかの漫画の4部の人の言葉を借りると、静かに暮らしたかった。 

でも、そんなうまくもいかず、仲の良かった友達はみんな眉毛がイカつくなり、話しづらい関係性になった。友達だったから、殴られるとかそういうことは無かったけれど、毎日どこかで拳を握ってる人がいるような学校だった。 


学校の窓から、紙飛行機をとばすような青春時代をイメージしていたけど、ぼくの学校の窓から飛んでいたのは吐き出された避妊薬だった。まだ学ぶ必要のない物の存在を、その頃よく知った気がする。

卒業式の日に、不登校になった生徒が、会場に乗り込んできて「3年間を返せ!」と叫んでいた。そんな金八先生がいたら腕まくりをしそうな学校だった。

じゃあ、なぜぼくは、尼崎の話がしたいんだろうか。いま、ぼくがした話の中には、尼崎のイメージを向上させる要素が1つもない。ほとんど、世間一般が感じているイメージとおなじ方向を向いている。「そのエピソードを待ってたんだよ!」のちょっと上を行くような話が、山ほど眠っている。 

聞いている人たちの、期待に応えたいわけじゃない。たぶん、自分が生きてきたその25年間を、もっと誇りに思いたいんだ。嘘をつかず、ありのままの話を振り返って、色んなことがあったことを面白がりたいんだ。 


不良が、昔は悪だったがいまは生まれ変わった。という美談がぼくは嫌いだ。その悪のせいで、どれだけ不憫な思いをしたり、迷惑を被ってきたか、彼らにはそれが分かっていない。イジメ問題もそうだ、ニュースでイジメについて語っている人たちは、本当に全うに生きてきたのかと問いたくなるほど、あの下劣な行為は許せない。 


「イジメられたことを許す」という描写を映画や漫画で見たときに、これを考えた人はそういう経験があったのか気になる。あったのなら、ぼくはその人には一生敵わないと思う。「死ね」を挨拶がわりに言われた人の気持ちが、そんな時間なんかで解決するわけがない。ぼくには、それができなかったから。

そんな見せかけの握手を見て、人は気持ちいいんだろうかと悩んでしまうことがよくある。

戦争の話をお客さんに聞いていたら、いつも頭が下がる。尊敬しかない。
家族を失って、とてつもなく辛い思いをしてきた人たちが、戦争の話を笑って語る。きわめて明るいわけじゃなく、自分の心のなかにしまってある本を読んでくれてるかのように話す。


その後ろには、アメリカの大統領の発言について言及したニュースが流れているのに、「この人もほんまよく喋るねぇ」なんてことで笑いとばす。憎み続けるなんてことは決してせず、むしろ、もっと達観したところで戦争の話をする。

食事はこんなものがご馳走だったとか、アメリカ兵に遊んでもらった話や、防空壕のなかでの会話を聞いたりする。終戦後に、どうやってもう一度前を向いたかについて、教えてくれたりする。どれだけ大変だったかを、そのまんま語っているのに口がニヤけるほど面白い。 

彼らにとって、戦争というものは忘れられない存在だ。憎もうと思えば、一生憎み続けられる。本当は、腹の底ではずっと許せない話なのかもしれない。でも、それを出さずに、何気ない日常や、会話を笑いながら話してくれる。『この世界の片隅に』という映画が、なぜあれだけ評価されるかは、ここにあると思う。 

憎んでも、憎みきれない存在である戦争を、もっと憎い存在として表現するのではなく、観てくれた人たち、伝えたい人たちの人生として描く。映画館でたくさん泣いている人をみたけど、彼らは同時にずっと笑っていた。何気ない生活の笑いをみて、大きな声で笑い、終戦のシーンで鼻水をすすり泣いていた。 

…あぁ、何が言いたかったんだろ。


尼崎の話をぼくがしたい気持ちと、戦争の話を笑いとばしている人生の先輩たちの気持ちは少し似ていると思うんです。 

じぶんの生きてきた人生を、肯定したいから。乗り越えて進むためには、そこにはちょっとしたユーモアが必要だと思うんです。

ユーモアという言葉には、こんな意味があります。 



なにかを受け入れて進んでいくには、ユーモアが必要で、笑いとばしてしまう強さが必要なんです。 

ぼくはイジメ問題のニュースを見ていて、いつもこのことを考えます。悩みます。泣きそうになります。


今日も仕事なんてほったらかして、Yahoo!ニュースでそんな話を見たので、落ち込みました。はやく、こっちに来い!といまはこの世にいない子たちに言いたくなりました。

熱くなりました、ちょっと冷めますね。


あっ、今月のノルマえぐいなぁ。
無理だなぁ。仕事変えたいなぁしんどいなぁ。
書く仕事したいなぁ。トイレ行きたいなぁ。
腹減ったなぁ、でも、やせたいなぁ。

よし、冷めました。 


尼崎の市外局番は、06-からはじまります。大阪を基盤とした地銀に就職して、06-大阪の市外局番だったことを初めて知りました。
それは、工業地帯として発展したこの町が、大阪の会社とやり取りをするときに、少しでも便利にするために市外局番を統一させたという背景があるのですが、ちょっとショックを受けました。


なんか、それだけぼくは、尼崎で育ったことを誇りにしているんだと思います。


これからも、「なかむらくんの出身はどこですか?」と聞かれたときに、ぼくは『一筋縄じゃいかないぜ!』という気持ちを抱きながら「尼崎です」と真顔で答えると思います。

そして、「あぁ、あの尼崎かぁ」っていう反応に対して、色んな話をしてユーモアでもって、進んでいこうと思います。


いま、仕事がすごくしんどくて、もう毎日病んでるんですが、ぼくにはユーモアがある。日常を笑いとばして進む強さを持ちたい。苦しんだり、悩んだ人にだけ、ユーモアは与えられる武器なんだ。