得も損もない言葉たち。

日常を休まず進め。

あなたのクスッとをください。

銀行員に潜入。10マス目

 

 お久しぶりです。

 営業の上期の末のドタバタの何かにやられてしまい、

 先週末は泥のような毎日を送っていました。

 

 

 仕事から帰ってきたら、宣伝会議賞のコピーを考えて、

 書いたり、考えたりして、座椅子でそのまま寝てしまったり。

 その影響か何か知りませんが、朝に謎の頭痛がつづいたり。

 

 

 でも、こうやって机に向かっている時間は、

 なによりも、自分がやりたいことをやっているので、

 満足しているのです。

 

 

 もちろん、銀行員もつづいています。

 

 

 そんなこんなで、今月に入って、

 すこしだけ落ち着きながら自転車をこいでいる毎日です。

 

 

 

 お客様は、ほとんどが人生の先輩。

 というか、大先輩です。

 ぼくよりも70歳ほど年上の方でも、大変お元気。

 一度話し出すと、とまりません。

 

 でも、ぼくもぼくで、それが楽しいのです。

 

 なぜなら、そこで得られる話は、ぼくの24年の人生では、

 絶対に経験できない話だからです。

 

 

 たとえば、

 阪神淡路大震災のリアルな話。

 戦時中の生活の話。

 皇居に勤めていたご家族の話。

 人生でドンの底から這いあがった話。

 

 

 

 本を読むことも大好きですが、

 そうやって、たくさんの人のすべらない話を聞けるのは、

 この仕事のいいところ。

 

 

 

 ただ。

 

 ただですね。

 

 

 あまりに鉄板の話があると、

 お客様はもう来るたびに、その話をされるんですね。

 

 もはや、ぼくもその話の細部まで話せるようになるほど。

 それも、まぁ大長編なので1時間弱ぐらいはあるのです。

 

 

 

 落語のように、きれいに物語は進みます。

 さしづめ、ぼくの営業トークは枕のようなものです。

 

 

 ・ご資産の形成の話 (ぼく)

  ↓

 ・ご家族の話    (お客様)

 

 

 になるので、ごく自然に流れていきます。

 気づけば、ぼくがお客様になっているのです。

 話を聞きながら、出された団子を頬張る。

 今日も、今日とて、収穫は糖分のみでした。

 それは、それでいいのですけど。ほんと。ね。

 

 

 

 ただ、たまに、ぼくも時間に追われているときもあるのです。

 たまにじゃダメなのでしょうが。

 

 

 そんなときに、お客様に気付かれず、

 現在の時刻を確認する手段を、たくさん身に付けてきました

 

 たとえば、

 カバンを見るフリして、時計を見たりするような技術です。

 

 

 

 今回、実践した方法は、

 

 『テレビ番組の進行具合から、時刻を読み取る』 です。

 

 

 

 行程は2つ。

 ・お客様の自宅で、つけっぱなしになっているテレビを最初に見ておく

 ・入った時間だけは、確認しておく

 それだけしておけば大丈夫。

 

 

  

 

 具体的なお話をしますと、

 お客様の自宅に入った時刻が13時過ぎ。

 

 テレビがついている。

 

 よくやっているような、温泉殺人事件。

 シリーズ物なので、恐らく、1時間のドラマだろう。

 

 営業をはじめて、10分。

 温泉街で人が殺される。

 そこで、ぼくの営業トークも終わる。

 

 

 ここからは、お客様のお話。

 

 

 後ろのテレビでは、たまたま泊まりに来ていた刑事が、

 事件を解決するために奮闘している。

 

 『恐らくまだ、13時半ぐらいだ』

 

 

 

 そこから、過去のお仕事の話を聞いていると、

 興味津々になる話題が出てきたので、

 ぼくも時間を忘れて、長話をしてしまう。

 

 

 

 大丈夫、まだテレビのドラマは解決していない。

 

 

 

 

 たまに、お客様のうしろにあるテレビに目をやり、時間を確認。

 とうとう、犯人が嘆きながら、殺人の動機を語っている。

 きっと、そろそろ13時50分だな。

 

 

 

 「そろそろ失礼いたします」

 話を切り上げて、お客様の家をあとにする。

 

 

 

 腕に付けた時計を眺めた。

 

 

 ・・・

 

 

 

 

 時計の針がさしていたのは、14時45分だった。

 

 

 

  ・・・

 

 

 

 

 2時間ドラマだった。

 

 

 




 

 

 銀行員は、つづく。

 

 

 

 

とびこむ営業は、おもらしの連続だ。

 

 なにも、情報漏えいのお話ではありません。

 ぼくは銀行の営業をしていますが、

 マネーロンダリングのお話でも、

 インサイダー取引の話でもありません。

 

 例えのお話なのです。

 

 銀行員の営業は、とびこみ営業のようなものです。

 インターホンを鳴らして、自分の会社の名前で扉をあけてもらう。

 それは、すごく難しいこと。

 だけど、もっと難しいのは、実際の数字を獲得すること。

 

 

 これが、例えば、おいしい食べ物だったら、

 もっと良い顔をしてオススメできるのですが。

 ぼくが売るのは、運用商品。保険や、投資信託

 お客様のお金を減らす可能性があるものなのです。

 

 

 

 さて、漏らす話なのですが。

 

 

 最近、おなかの調子がすこぶる悪くてですね。 

 自転車で営業をまわっていたら、

 もう、限界がやってきたわけです。

 近くの商業施設のトイレに飛び込むと、

 個室の扉が1つだけオープン。

 ギリのギリで、助かったわけです。

 

 

 ただ、みなさんも知ってのとおり、腹痛には波がある。

 そして、その波を人は察知する能力を身に付けています。

 ぼくも、第二波、第三波の予感がしたので便器でステイしました。

 

 狙い通りの、第二波。

 これが、またまた、大きな波。

 

 苦しんでいるときに、その音は鳴りました。

 

 

 コンコン コンコン コンコン

 

 

 それは、外から便器への扉を叩く、SOS。

 そのテンポの速さから、外にいる彼の限界は容易に感じ取れる。

 だが、ぼくだって闘っているのだ。限界なのだ。

 

 

 こんな状態で、外で困っている人のために、

 自分が出しているものを止めてまで便座を譲る人がどこにいるだろう。

 全てを出しきって、お尻を拭いているタイミングならば、

 すこし急いでズボンをはいてあげることは、可能なのかもしれないけれども。

 

 

 洋式の便座に座りながら、苦しんでいる自分を、

 すこしだけ俯瞰で見たときに、気づいたことがあった。

 

 

 「ぼくの仕事って、トイレの扉をノックするのと同じだ!」

 

 

 お金を使わないっていう人はそうそういない。

 増やしたいけれど、減らしたい人なんていない。

 みんながほしい物を買いたい。おいしい物を食べたい。

 そんな願望を抱いている。

 

 

 そこへ、突然現れたぼくが、お金を減らすかもしれない投資を提案する。

 減らしはしないけれど、貯金をしませんかと提案してくる。

 

 

 ・・・だれが、協力してくれるのだろうか。

 

 

 トイレで言うならば、うんちを出したい時に、

 突然、コンコンとノックをされて誰が出てくれるのだろうか。

 ぼくには、そんなことは到底できない。

 たとえ、相手が限界ギリギリだったとしても、

 泣く泣く、知らないフリをするしかないのだ。

 

 

 

 

 毎月、毎月、ノルマに追われている。

 投資信託を何千万売りなさいとか、保険をいくら成約しなさいとか。

 

 

 なんだかんだで、乗り越えてきた。

 

 

 それはなぜか。

 もしかしたら、お尻を拭いているタイミングで、

 ぼくがノックをしたから協力してくれたのかもしれない。

 これは、運である。運。

 

 

 もうひとつの要因はこうだ。

 

 

 お客様の中には、自分がうんちをしたいのを我慢してまで、

 ぼくに力を貸してくれるひとがいるということだ。

 

 

 「仕方ないなぁ」

 って顔をして、ぼくの提案を聞いてくれる人がいるのだ。

 

 

 そう思うと、この仕事は人に感謝しっぱなしだなぁと改めて感じた。

 

 

 そして、うんちを出し終わっても、

 ずっとスマホをいじっている人を、

 いかにしてトイレから出すかを考えることが、

 ぼくの今後の営業成績をあげるんじゃないかと思ったのである。

 

 

 

 

 

 

 ということを考えていたら、いつのまにか第三波も通り過ぎていたのだ。

 外の彼のノックもいつのまにか止んでいた。

 

 どうやら、助かったようだ。

 よかったよかった。

 

 

 あ。

 

 

 解放感に浸りながら、そのあと、何軒もまわった営業は、

 おもらしの連続でしたとさ。

 

 

 

瞬間移動は奇妙である。

 

 今週は、2日も平日が休みだった。

 銀行で働いているので、休みはしっかりもらえる。

 もはや、それこそが最大の利点とも言えるのだが、

 今日は、そんなことを言いたいわけではない。

 

 

 火曜日だったろうか。

 台風が通過したあとの大阪駅は、人であふれていた。

 電車が遅れている。30分ぐらいの遅延だ。

 

 

 まぁよくあることなので、イヤホンを耳につけて、

 歌詞のない音楽を耳にしながら、本を読んでいた。

 読書に音楽は、集中できないようにみえて、意外にできる。

 駅の雑音を耳にしていると嫌になるのだ。

 

 

 

 イライラしている人たちの仕草に目がいく。

 持っている傘を地面にトントントントントントントントン。

 待ちきれずに、電車を待っている途中で、缶チューハイを開ける。

 上司と帰っている部下は、いつもよりたくさん人生論を聞かされる。

 自分の父親ぐらいの人が、もっと年上の人にヘラヘラしてるのは、

 本当はあまり見たくないものです。

 

 

 そんなこんなで、耳は音楽、目は活字に預けていると、

 電車が申し訳なさそうな顔をしてやってきた。

 結局、遅延はのびにのびて、45分となっていた。

 

 

 駅のホームに溢れかえった人々が、

 乗車率100%を超える車両を、つぎつぎと生み出す。

 

 もれなく、ぼくの車両も乗車率は100%オーバーである。

 なにを100%の基準にするかというと、

 まぁ、ぼくが本を開くことができるかどうかにしておく。

 

 

 なんとか掴んだつり革。

 

 

 耳は相変わらず、音楽に任せているので安心だが、問題は、目である。

 どこを見ておこうか。横の人があり得ない体制でスマホを触っている。

 ぼくも、あり得ない体制で、そのスマホを覗こうか。

 いや、それは趣味が悪い。

 

 悩んだ末に、目は機関として、前のものを認識するだけに徹することになった。

 あくまで、目の前を認識し、判断を下すためのもの。

 

 

 つまり、前に立っている学生のような男性を、ボーっと眺めていたということです。

 

 

 服の色は青色の中でも、ネイビーだなぁ。

 Tシャツの文字はあれどういう意味だろう。

 この時間に私服で電車に乗っているってことは大学生かなぁ。

 ってことは、ぼくより年下かなぁ。

 いや、3浪していたら年上だぞ。

 

 

 といった具合に、

 必死につり革を掴んでいる、おなじく満員電車と戦う彼を見ていた。

 

 揺れる。

 揺れる。

 電車は揺れる。

 

 

 乗っていた電車は、新快速でした。

 大阪駅を出ると、次は尼崎駅に止まる。

 その数分間、ぼくはネイビーの彼を認識しつづけていた。

 

 

 そして、尼崎についた。

 たくさんの人が降りる。

 

 

 「どけ!どかんかい!」

 

 こんな声をあげているのと変わらないような、タックルをかましてくるおじさん。

 あれは、もう本当、やさしくない。傷つく。

 まぁ、イライラしてるのも分かるけど、もうちょっとで外じゃないか。

 この日もタックルをくらった。

 

 

 で、ここでタイトルの話ですが。

 瞬間移動のことです。

 

 

 

 というのも、ぼくの目の前に、瞬間移動してきた人がいるんです。

 

 

 その人は、

 メガネをかけていて、

 グレーのシャツをきていて、

 リュックサックを背負っていて、

 おそらく大学生であろう風貌で立っていたんです。

 

 

 「このメガネの彼はいったい誰なんだ!」

 

 ぼくの脳がパニックを起こしました。

 

 

 

 ?って頭に浮かんだかた、いらっしゃいますか。

 電車で知らない人をみて、この人が誰だか知らないことにパニックを起こしている。

 どう考えてもおかしいですよね。

 

 

 

 だけど、ここで、ぼくの目が得た情報をもうひとつ付け足します。

 

 

 

 その人は、ぼくがこの数分間ずっと見ていた、

 ネイビーの彼と笑いながら話をしていたのです。

 

 

 ずっと一人だと思っていた人物の横に、

 突然として友達があらわれた。

 そのことに、ぼくの脳は混乱したのです。

 

 

 誰もいなかった空間に突然として、人が現れたかのような感覚。

 瞬間移動です。

 

 

 思わず、ぼくはイヤホンを外しました。

 そして、2人の会話に耳をかたむけました。

 

 気づけば、ぼくの耳も目も、もう完全にその2人にまかせっきり。

 

 

 わかったことは、彼らが友達でどこかの帰り道だったこと。

 普段はゆったりと話しながら帰るのに、

 満員電車ではぐれていしまい、駅で人がたくさん降りたことで、

 やっと合流できたこと。

 

 

 

 情報を耳に入れてようやく、頭が理解した。

 このメガネの彼も、最初からこの空間にいたんだな。

 だけど、ぼくの中で知らない人に対する情報量の差を生んでいた。

 

 

 ネイビーの彼も、メガネの彼も、

 どちらもまったく知らない人。

 ある程度の認識をしていた人と、ぜんぜん認識してなかった人

 突然、関係性を持ったとき、

 脳が、ここに瞬間移動してきたと勘違いを起こしたのだ。きっと。

 

 

 

 いるのに、いないと思わせることが瞬間移動の秘密なのではないだろうか。

 

 つまり、自分が移動していなくても、

 相手に、ここに居ないと思わせることで瞬間移動は完成する。

 

 

 その一つの手段として、

 見るがわの、認識レベルの差が使えることをぼくは満員電車で学んだのである。

 

 

 

 気づけば、最寄駅についた。

 台風はすぎさって、涼しい風が吹いていた。

 

 あっ。

 

 晩ごはんを何にするか全然考えてなかったことに気づく。

 

 

 結局いつもの、コンビニへ足を向けるのであった。

 

 

 

汚い字だが、見せたい字なので。

冷蔵庫の話を。正確には、冷蔵庫に貼ってある紙の話を。

 

何を貼ってるかって、小さい紙なのですが。書いてあることは、

 

 

 素麺だし 

 水300㎜ℓ

 みりん2

 さとう2

 醤油 5

 

以上。

 

素麺だしのレシピです。水300㎜ℓに対しての、調味料の配分が書いてあります。

 

ぼくは、おじいちゃんっ子でした。おじいちゃんっ子になる前は、おばあちゃんっ子でもありました。おじいちゃん、おばあちゃんっ子であったわけです。いまは、2人とも他界しているのですが。

 

どの家にも、忘れられない味があると思います。ぼくにとって、素麺だしこそ、忘れられない味。

 

作りかたを最初に、文字におこしたのは、おばあちゃんだったんだろうと思います。水の量に対しての、醤油や砂糖の配分を自分が忘れないように。

 

次に、文字におこしたのは、おじいちゃんだったんだろうと思います。だって、字を見た瞬間に書いた人の顔を、すぐ思い出せたから。

 

しかし、このレシピには決定的に欠けている項目があります。それは、“干しエビ”です。

 

ぼくの食べていた素麺だしの底には、干しエビが沈んでいました。甘辛い出汁がたっぷり染み込んだ、エビ。それを食べながら、素麺をすすると、もうそれは本当に絶品だったのです。

 

おばあちゃんが死んでから、おじいちゃんがぼくにいつも、素麺だしを作ってくれていました。もちろん、その底には干しエビが沈んでいました。

 

夏になり、冷蔵庫を開くと、そこにはいつも水筒のような入れ物に素麺だしがあって、それだけで、はやくお昼ご飯にしたくなるような気持ちになってしまい、秋になっても、冬になっても、素麺をすすっている生活をしていました。

 

 

大学2年生のときに、祖父は他界しました。高校を卒業してから、一緒に生活をしていたぼくにとって、祖父のいない家はすごく大きな一軒家でした。二人でも、使わない部屋があるのに、一人になると、もう広すぎる。

 

食事を作ることも、一人になるとめんどくさくなる。自分の分だけになると、コンビニでいいやって思うようになる。

 

そんな時に、冷蔵庫の側面に見つけたのが、この小さな紙でした。

 

 

 

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“素麺だし”見た瞬間に、あの味を思い出しました。そして、もう一度食べたいという気持ちになりました。

 

でも、干しエビがない。干しエビの配分が無いのです。エビから出る出汁が、あの絶妙な味を作っていることは、明確でした。このレシピのまま作っても、ぼくの思い出の味にはならないのです。

 

いまだに、ぼくはその味に辿りつけることができていません。だけど、祖父母の味を受け継ぎたい。だから、このレシピに干しエビの配分を書き足すのが、今のぼくの目標です。

 

 

レシピって、手紙なのかもしれない。

 

 

祖父の字を思い出したのは、手書きのレシピでした。一緒に食べた時間を思い出したのも、手書きのレシピでした。

きっと、レシピって手紙なんだろうって思います。

 

相手への気持ちとか、自分の近況とか、伝えたいことはいっぱいあるけど、それは料理が語ってくれる。

 

愛情とか、もはや愛とか、そういう優しいものを、温度を低い状態で伝えてくれるものなんだろうと思うのです。

だから、恥ずかしげもなく、ぼくはいまも、冷蔵庫に堂々とレシピを貼っている。

 

なにが言いたいかといいますと。

 

 

お母さんからのラブレターは、冷蔵庫に貼れないけれど、お母さんの味のつくりかたは、いつまでも冷蔵庫に貼っていたい。

 

手書きのレシピには、味を受け継ぐだけじゃなく、そっと、そっと気持ちを伝える、ちょうどいい手紙なんじゃないかということです。

 

さて、休日も、あと数時間。

 

今日は、何を作りましょう。

 

ぼくは、今日はコンビニですが。許して下さい。めんどくさいのです。

 

 

ぼくの誕生日には、白い羽の矢を。【ことわ・ざ】

 

 「今回の記事を書くのは、君だ」

 ・・・誰もが困難と諦めていた案件。

 ・・・ぼくに白羽の矢立ったようだ。

 

 なんて、ことはまず起きない。

 ぼくみたいな、こっそりひっそり得にもならないような文を書いてる人間に、

 白羽の矢が立つわけがない。

 

 

 

 

 そうです。今日のことわざは

 

 

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 です。

 

 

 

 ここでみなさんに、お聞きしたい事があります。

 白羽の矢が立ったら嬉しいですか?ということです。

 つまり、どういう意味で捉えてますか?ということです。

 

 

 ぼくなんかは、すごくマイナス思考な人間なので、

 一瞬考えると思うんです。

 まぁ、立ったことがないので、分からないですが。

 

 「あっ、貧乏くじを引かされる!」ってね。

 

 

 だけど、周りに「期待してるよ!」なんて言われたとたん、

 なんだか悪い気がしなくなって、

 よっぽど嫌なことじゃなかったら、「やったろう」になりそうです。

 



 

 例のごとく、ことわざを紐解いていくのですが、

 まずは、白羽の矢が立った状態をご覧ください。

 

  


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 画力のことは、すっとばしていただくようお願いしたいです。

 広い心で、受け入れていただきますよう。どうぞ。

 

 屋根に、白い羽の矢が刺さっています。

 ブスッと刺さっていると思ってください。

 

 どうして、この家に矢が刺さったのでしょうか。

 

 戦の最中、飛んできたものではありません。

 家主の命を狙って放たれたものでもありません。

 宝くじのような、すばらしい景品がもらえる制度でもないみたいです。

 

 耳を澄ましてみてください。

 家の中から、声が聞こえてきます。

 

 あまり喜ばしい声ではないですね。

 すこし、悲しそうな声が聞こえてきます。

 

 

 真相はこうです。

 白羽の矢は、目印なのです。つまり、矢印なのです。

 なんの矢印か。

 

 生贄→

 

 です。

 

 日本の古い古い話ですが、

 神様へ人の命が捧げられていた時代があったそうです。

 

 「あなたの家の娘が、神様への生贄に選ばれました」

 

 というメッセージが込められたもの。それが白羽の矢。

 良い意味なのか、悪い意味なのか。

 もちろん、選ばれる側からしたら答えは、悪い意味です。

 娘が、みんなのために犠牲になるのです。

 

 

 そうなると、貧乏くじを引かされるという

 ぼくの考え方があっているんじゃないかって思うじゃないですか。

 

 

 ところがどっこい、そうはいかないのです。

 

 

 現代において、「白羽の矢が立つ」は、

 多くの人の中から、特別に選ばれるという意味とされているのです。

 

 いったい、なんでだ。

 

 

 ない頭をひねって、ひねって、ちょっとゆるめて。

 出てきた答えは、

 今までは選ばれたほうの人間が使っていた言葉が、

 選ぶほうの人間が使う言葉になっていたということ。

 

 

 これは、恐ろしいことですぞ。

 自分以外の人間の中で、勝手に予定調和が生まれておる。

 と、評論家は語りそうだ。

 

 

 

 たしかにそうかもしれない。

 学級委員長や、生徒会役員とかってそうだったかもしれない。

 まぁ、黒板消し係のぼくには関係のない話だったけど。

 

 

 どこか都合よく言葉が使われていて、

 みんながやりたくない役回りを、

 「君にしかできない仕事だと思う!」なんてセリフを加えて、

 その気にさせてやってもらう。

 

 

 本当は、生贄を指す言葉なのに、

 選ばれた本人は気づかずに奮闘する。

 

 

 

 それでいいのだろうか。

 

 

 

 まぁ、もしかしたらいいのかもしれない。

 

 

 本人の気持ちが大切だ。

 

 

 だから、

 

 

 こう書いて終わります。

 

 

 

 「ぼくにも、白羽の矢を立ててください」

 

 

 

 しあわせに、書きますから。

 

 

 

 なんてね。

    

銀行員に潜入。9マス目

 

 お客様と話をする時間が、仕事の半分ぐらいを占めています。

 のこりは、数字に追われたり、書類に追われたり、週末を待ったりしています。

 

 

 

 今日は、その半分を占めているお客様との会話の中で、気づいたことを。

 

 

 資産運用を任されているのですが、これが本当に難しい。

 お金を増やすために、為替や世界情勢を見つめて、

 投資商品を勧めたり、フォローしたりしてるんです。

 いや、しないといけないんです。仕事なので。

 

 

 ただ、銀行員は3年ぐらいで転勤になる。

 

 転職すれば、もっとはやい。何か月でいなくなる担当者もいる。

 ぼくは、まだ2年目で転勤を知らないのですが。

 

 

 

 つまり、コロコロと担当者が変わる。

 

 

 担当者が変われど、お客様の人生は変わらない。

 ずっとその家に暮らし、生きている。

 

 

 新任のあいさつに行くと、よく言われることがある。

 

 「前任の○○さんには、無茶苦茶された」

 「昔は、もっとお金あったのになぁ」

 

 過去の担当者に、損をさせられたことに対する話。

 

 もちろん逆もありますよ。

 

 「○○さんには、本当によくしてもらった」

 「あの人は、親切で誠実やったねぇ」

 

 

 色々な話をされるんですが、

 ぼくは苦笑いや、本当笑いを繰り返してるんです。

 時に、がんばります!って言ったり。

 でも、やっぱり相場を読むのは難しく、申し訳ない気持ちになったりします。

 

 

 

 

 ただ、仕事には、仕事以外の会話もある。

 お金の話をするからこそ、もっと根幹の話をできる。

 家族の話、仕事の話、もっと言うと、自分が死んだあとの話。

 

 

 

 お客様は年配の人が多い。

 それぞれが、苦しい思いをたくさんして、今まで生きてきた人たちだ。

 もちろん、楽しいこともたくさんしてきているだろうけど。

 恋したり、遊んだり、キスしたり、映画観て笑ったり、旅行したり。

 

 

 

 たくさんの人生の足跡をたどりますが、

 出てくる話は、暗い話が多くなる。

 ぼくだってそうだ、同情というか理解してほしいから、

 悲しいとか寂しいとか口にする。

 

 

 

 

 

 

 嬉しい話は、過去形。

 悲しい話は、進行形。

 

 

 

 

 

 これは、ぼくが最近気づいたことだけど、

 嬉しかったことは過去形になっている。

 

 「あれは楽しかったなぁ、よかったなぁ」

 みたいにね。

 

 きっと、人は瞬間的にしあわせを感じるんじゃないかな。

 夫婦生活が、ずっと幸せって人は、そんなに多いもんじゃない。

 

 

 だけど、人生にはたくさんの瞬間が訪れる。

 

 

 子どもの誕生

 会社での成功

 小学校入学

 好きな球団が優勝

 娘の成人式

 

 

 瞬間、瞬間が人をしあわせにする。

 だけど、それはいつも薄れていってしまうものだ。

 娘は反抗期に向かうし、会社は不況の波にのまれる。

 好きな球団には暗黒時代が訪れる。

 

 

 悲しい話はどうだろう。

 ぼくがいつも人から聞く、悲しい話はいつも進行形だ。

 そして、それは聞いてあげることしかできない。

 

 

 

 ご家族を失った悲しみ

 友達に裏切られた悲しみ

 体が思うように動かなくなった悲しみ

 

 

 

 今も、その人たちは、この悲しみを進行形で抱いている。

 それを聞いているぼくは、すごく苦しい気持ちになってしまう。

 家族を失った悲しみを、過去のことになんてできないし、

 友達に裏切られた悲しみを、忘れることなんてできない。

 歩けなくなった人の足を、もう一度動かすこともできない。

 

 それが何より、つらい。

 

 

 

 だけど、つらいだけじゃ、つらすぎる。

 お客様は解決を、求めてなんかいないはず。

 もしかしたら、同情も求めていないかもしれない。

 

 

 そう思った。

 

 

 じゃあ、何が自分にできるのだろうか。

 考えて、考えた。

 やっぱり喜んでもらうことをするしかないって答えが出てきました。

 

 それは、もしかしたら瞬間的なものかもしれない。

 

 

 夏の数分、空にひろがる花火みたいな。

 冬の数分、空にひろがるオーロラみたいな。

 寝ている最中に、頭に広がるエッチな夢みたいな。

 

 

 それでもいいんじゃないだろうか。

 人は、悲しみからは逃れられない。

 だけど、その進行形の悲しみを、

 途中でいったん休憩することぐらいはできるんじゃないだろうか。

 

 

 ぼくが帰ったあとに、

 仏壇を見て、もしかしたら悲しみがまた動き出すかもしれない。 

 

 それは仕方ないことだ。

 人生はそんなに、薄いもんじゃないだろうし。

 

 

 だから毎日、ぼくは笑点好きな人には笑点の話を。

 料理好きなお客様とは、お昼ご飯を食べる。

 

 

 数字が出なくて、怒られても、気にせずそういていたい。

 

 

 

 

 銀行員は、人をしあわせにできる仕事なのだろうか。

 悲しみを生んではいないだろうか。

 

 瞬間的でもいいから、しあわせを置いて帰れる仕事をしよう。

 

 それは、もしかしたら、

 会社の大きな流れとはちがうかもしれないけど。

 

 

 だから、ぼくは“ことば”が好きなのだろうなぁ。

 

 

 

 

 

 

 ちなみにですが、

 投資で損をしたことは進行形で、

 得をしたことは過去形なので、

    お客様は都合がいいなぁって思ってます。

 

 

 

 

    現金な人ですよねぇ。

 

 

   使い方あってないかも、しれないけれど。

   オチをつけないと終わらないので。ね。

 

 

 

 

 

 

 つづく。

 

 

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追わずして、夢ばっかり語ってられない。

 

 先日の話なのですが、母のコーラス定期演奏会に行ってきました。

 定演というやつです。そこまで大きいホールではないですが。

 

 

 母は、高校時代からコーラス部に所属しており、

 カラオケに行ったらダメ出しをしてきたり、

 一緒に音楽番組を観ていたら批評をはじめたり、そんな人です。

 

 

 歌うことがとにかく好きなんですね。

 車の中で流れるのは、母の合唱団のメドレーだったりするわけで。

 ぼくの大好きな奥田民生なんて、流れることがないわけです。

 まして、星野源?だれよそれ。みたいなことまで言われたり。

 

 

 就職活動をしていた頃、母がいつも、ぼくに言ってきたことがあります。

 

 

 「好きなことを仕事にできてる人なんて、ほとんどいないよ」

 

 

 コピーライターになりたくて、死人のような顔をしている就職難民に、

 母は現実を投げつけてきました。

 

 なんで、こんなことを言ってきたのか、ぼくには分かっていました。

 分かっている気がしました。

 

 何度も聞かされていたから。

 音大へ行きなさいと、学校の先生から背中を押された母を、

 父親(ぼくのじいちゃん)が猛反対して短大へ行かせたって話を。

 

 だから、自分の経験もあって、

 ぼくにもちゃんと現実と対面させようとしてたんだろうって思ってたんです。

 

 

 就職先が決まった時から、ぼくは母親と話をすることをやめました。

 出てくる言葉が、ぜんぶ、

 「会社で一生懸命働いて出世しなさい」ってメッセージに繋がることだったらです。

 

 

 絶望を抱いている大学生に、残り3か月しかない大学生に、

 この言葉はきつかった。

 正直、まだあまり心から笑えていない自分がいます。

 どんな話につけても、仕事の話を聞いてくるから。

 

 

 

 いま、ぼくは何かを変えようとしている。

 仕事は毎日しんどいし、コピーを書くことばっかり考えてもいられない。

 会社や、両親に内緒でコピーライター養成講座に通ったし、

 家に帰ったら資格の勉強をせずに、宣伝会議を開いている。

 

 

 後ろめたさがないって言ったら嘘になる。

 

 

 寝ているときに、たまに夢に見るんです。

 堂々と「コピーライターになりたいんや!」って言ってる自分を。

 

 でも言えない。

 小さい声でしか言えない。

 だから、ここでいつも、こっそり自分を文章にしているんです。

 

 

 去年の宣伝会議賞

 ぼくは、自分の書いたコピーを母に見せた。

 

 

 ゆうちょ銀行の課題で書いたコピー

 

 

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 母をまかせる銀行です。

 

 

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 すぐに返信がきた。

 

 「すごいやん!その本どこで売ってるの?」

 

 書いた内容については、深堀はされなかったけど、

 “母”という言葉が入ったコピーを、母に贈った。

 

 夢を諦めきれず、地方銀行で働いている経験を、

 込めたコピーだった。

 

 

 あとで、母から聞いた話だったが、

 フェイスブックなんかに載せたりしてたらしい。

 ぼくは、家族とは誰ともつながっていないのだけれど。

 

 

 結果を見せることが、母を認めさせる手段だと、

 ぼくは思っていた。

 ほんとにそうなのかもしれないけれど。

 

 

 でも、なんとなく違うような気もしてきていた。

 

 その数か月後、

 公募ガイドという雑誌のコンペに、ぼくのコピーが載った。

 

 渡辺潤平さんという憧れのコピーライターのかたが、

 毎月講評をくださるコピトレという場所に、ちいさく。

 

 お題は、卒業式のキャッチコピー。

 

 

 

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 卒業式は、あなたの両親の表彰式です。

 

 

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 すぐに、ぼくは両親にその写真を送った。

 

 高校時代に、学校に行くのが嫌になった時、

 母親にビンタをされたことを思いだして書いたコピーだった。

 

 どう言われたら、ぼくは卒業式を肯定できるだろうか。

 そう考えたときに、両親への感謝が出てきたからだった。

 

 まぁ、母親はすぐに返信をくれた。

 そして、たぶん、フェイスブックに投稿しただろう。

 

 

 次に会った時に、母の口からこんな言葉が出てきた。

 

 「あんたのコピー、知り合いのコピーライターの人が良いって言ってたよ」

 

 初めて、母から夢を肯定する言葉をもらえた瞬間でした。

 ちょうど2週間ぐらい前の話。

 就職してから2年目の夏。

 

 知り合いに、そんな人おるなら早く言えよって思ったけれど、

 すごく嬉しかった。

 

 

 即座に、「でも、趣味は趣味で楽しみなさい」って言われたときは萎えたけど。

 

 

 母親の定期演奏会は、定期的に行われる。

 当たり前だけど。

 

 いつも誘われる。

 おいでよ、おいでよって。

 

 いつも断っていた。

 いそがしい、いそがしいって。

 

 

 でも、行ってみることにしたんです。

 

 なにか、感じることがあるかもしれないって、

 もっと、向き合ってみようって、そう思ったから。

 

 

 

 ホールには、お客さんがビッシリはいっていた。

 小さいホールではあるが、演者の家族がいっぱい来てるかもしれないが。

 

 

 親の大声を聴いたのはいつぶりだろうか。

 怒声じゃない、楽しそうな声。

 ソロパートまであったりした。

 やっぱり、いい声をしているなぁって思った。

 もし、母が音大に行ってたら、ぼくはいまココにいるんだろうか。

 そんなことまで考えたりしていた。

 

 

 趣味を趣味として、全力で楽しんでいる母の姿は、すごく輝いていた。

 

 さいご、母親に拍手を贈った。

 ほかの知らない、ええ声の人と、指揮者の人にも。

 

 

 演奏の終了後、出口で母に会ったとき、

 そのときだけは久しぶりに目を見て笑えた気がした。

 なんとも、うまくできた話かもしれないけれど。

 

 

 

 だけど、お母さん、話に出てこなかったお父さん。

 ごめんなさい。

 

 やっぱり、ぼくは諦めるわけにはいきません。

 

 どうしても、やりたいことをやりたいから。

 

 書くことで、誰かの人生を応援したい。

 

 その世界へ、ぼくも行きたいから。

 

 だから、今年は、

 ぜったいに結果をだそうと思うんです。

 

 

 いつか、この記事を、

 なにも知らない母親が呼んでくれることを願って、

 今日のそれっぽい話は終わりとします。

 

 

 諦めのわるい、駄作と申します。

 以後、そんな人いたなって、ちょっとだけ気にかけてくれたら、

 すごくしあわせです。

 

 

 

人には、不思議な力があるのだ。

 

   おじさんが、今年亡くなりました。

   お酒に負けてしまったおじさんでした。

   死因は、心不全

   

 

   ぼくにとって、いろんな世界を教えてくれた人でした。

 

 

   頭のいい人でした。


   親戚の集まりでも、どこかみんなとは違う。


   話すことも、ウイットに富んでいて、

   どこかひねくれてるぼくを、いつも笑わせてくれました。

 

   力の抜いた笑いは、おじさんを見て覚えました。

   

  あんな大人になれたらな。



 

   話は変わりますが、こち亀が終わります。

 


 「こちら葛飾区亀有公園前派出所

 


   みんな、もちろん知ってますよね。

   黒いつながり眉毛の警察官。  

   ぼくの大好きな、漫画の中の人でした。


   いつも、「わしに任せとけ」なんてことを言ってる気がして。

   根拠はないけど、頼ってみようって思えてしまって。

 


   両さんを、ぼくは尊敬しています。

 


   本田巡査(バイクに乗ると性格が変わる)が、

   叶わない恋をしてしまい落ち込む話があります。


   ぼくは、その話がすごい好きなんです。


   

   だいたい、こんな感じのことを言うんです。


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   月は遠くから見るのが美しい。

   わしなんか、何度アポロになったことか。

   


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   そっと、本田を元気づける両さんが大好きになった話です。

   たしか、20巻ぐらいのとこですねぇ。



   ぼくも、こんな大人になりたいと本当に思います。


   「社会なんて大したことないぞ!」って、いつも言い切ってくれるのが、こち亀でした。


   だからこそ、今もぼくは、次は何して遊ぼうかって考え続けることができます。


   流石に、あんなに怒られて毎日働けませんが。





   こち亀に、出会ったきっかけを。

   

   ある人に、漫画を借りたことがきっかけなんですが。

   それが最初に書いた、おじさんなのです。



   たまに、家に遊びに行くたびに、本棚にズラリと並んだ単行本を借りて帰る。



   蓄えられる、ぼくのサブカルチャー

   そして、すこしのエロ。

   のめり込みました。こち亀に。





   おじさんと、最後の別れの時間。 


   棺桶の足の辺りに、そっと漫画を忍ばせました。


   手元には、息子や娘からの手紙や、本。

   だから、ぼくは足元に。




   借りっぱなしのこち亀を返しました。


   一話完結だし、天国に持っていくにはちょうど良かったと思います。


   飽きても、しばらくしたらまた読んでしまう。


   そんな魅力がある作品だから。




   ぼくのトイレのお供は、いつもこち亀




   

   運命って、あるのかなぁ。




   おじさんが亡くなった年に、こち亀は連載を終了します。


   これだけ、国民に愛された作品です。


   こんなケース、たくさんあるんだと思います。


   だけど、気づいた瞬間に身震いがおきました。

   

  これは、何かの運命なんじゃないかなって。 


   何なのかは、分かりませんが。

   でも、一生忘れない一年になりそうです。



   おじさんが、すこしうらやましい。

   こち亀の終わりを見なくてすむから。

   だから、悔しいから、お供えしようと思ってます。




   もうひとつ、ありまして。



   おじさんは、熱烈な広島カープのファンでした 。

   そのカープは、今年25年ぶりの優勝が目前にまで来ています。

   亡くなるちょっと前も、試合を観に行ったりしてたそうです。

   ちなみに、ぼくもカープファンです。だから、全力で応援します。


   


   おじさんは、お酒に負けてしまう、

   すこし心の弱い人だったのかもしれません。




   だけど、きっと




   

   好きなものに愛される人だったんだと思います。


  

   そんな生き方も、あるんだと学びました。

   

   

   


   

宣伝会議賞

 

というキャッチコピーのコンテストに出会って、

かれこれ四年が経とうとしている。

 

思えば、最初に応募した時のぼくは、

ひどかった。

 

大喜利を頑張って考えて、

考えて考えて、

何百本かコピーを書いて、

一次審査を通過したのは、

たったの二本。

 

それも、書いたかも分からないようなコピー。

確か、進学塾のコピーと、ECCのコピーだったなぁ。

 

通ったはいいけど、

なぜ通ったのかも全く分からなくて、

呆然と、じぶんの書いたコピーを眺めてました。

 

そして、最終ノミネートまで残っていたコピーに

心底嫉妬をしていた。

 

次の年は、4本通過した。

 

2倍だ。

 

2本が4本になった。


それでも、箸にも棒にもかからない。

すごく遠くに見える授賞式。

グランプリ。

憧れのコピーライターの世界を、

より遠くに感じる日々でした。


その頃、就職活動をしてましたね。うん。

見事に惨敗で、広告業界には入れず。


今は、銀行の営業をしています。



が。


宣伝会議賞は終わらない。

ぼくの夢も終わらない。終わらせたくない。


まだまだ、諦めきれないのです。



去年の通過本数は、10本でした。

2本→4本→10本という、

うなぎ登りならぬ、しらす登りぐらいですが、

成長できてると思うんです。



また、ずっと一次審査で宣伝会議賞は他人事だったのですが、

去年は、三次審査まで進むことができたのです。



通ったコピーは、

ゆうちょ銀行の課題でした。



つまり、銀行で働いてて感じたことが、

すこしだけ力を貸してくれたわけです。



だから、すこしだけ、

憧れの舞台を近くに感じることも、

去年はできました。


その分、すごく悔しさもありましたが。




今年は、ちがう。

今年こそ。

四年目だ。



すこしだけ応援してくれたら嬉しいです。


いつか、しっかり、

言葉で社会を、人を応援します。


それが、ぼくの、

いまの、というかずっと、

夢なんです。

 

 

 

 

待ちに待って、会いたい。


街には、たくさんの顔がある。


別に、朝の静かな風景や、夜のネオン街のことを例えているわけではない。

人の顔のことである。ごはんを食べるところが口ならば、色を認識するところが目。感情を表現するところが顔なのではないかと。

 


駅を歩いていた。土曜日なのに会社に行って、休みが半分になった日の帰り道。街には、たくさんの顔があるといったが、駅にも、たくさんの顔がある。そして、土曜日の改札には、待ち合わせの顔があった。予定もなく、今日の晩ごはんに何を食べるか考えているだけのぼくには、とうていできない顔だ。



改札から出てくる人を、眺めている彼らの目は鋭い。とは言うものの、刺さるようなものではない。そりゃそうだ、かの人が来たときに、睨みつけてしまっては具合が悪い。たくさんの人の中から、待っているひとりを見つけだそうとしている。先に見つけたい気持ちなのだろう。そして、ぼくではない誰かを探し出すのである。

 


真顔という言葉があるが、それはきっと、何かの感情が生まれる前の顔だ。待ち合わせで言うところの、ひとりを探している顔。そして、真顔からしあわせが押し出されてくる。なんというか、小学生の時にあそんだ、竹でできた水鉄砲のようにギュッとその表情は、まるで魔法がかかったようにスローモーション。ぼくは、それを見るのがすごく好きだ。あぁ、この人はいま、しあわせなのだって思えるだけで、嬉しくなるから。



 

 待ちに待つ。会いたい人を待つ。会ったら、一緒に時間を過ごす。家族でも、友達でも、恋人でも。これから、恋人になりたい人でも。いつか、家族になる人でも。その人と会う時間は何よりもしあわせな時間なのではないだろうか。予定をつくることから始まり、何をしようか、どこへ行こうか考える。考えなくていい人と会うこともある。それもいい。


 

待ちに待って、会いたい

 


 しあわせが溢れ出る、その瞬間のためにぼくたちは毎日を生きている。会いたい人と、会おう。しっかり、待とう。そして、会ったらたくさん笑おう。しあわせになる人生論は、ぼくには語れない。ごめんなさい。だけど、しあわせそうな人を見ていると、すこしずつ分かってくることでもあるのかなぁと思っています。そのひとつに、この日たくさん出会いました。


休日出勤に、すこしだけ感謝しようと思いながら、まだ決まらない晩ごはんに再び悩む帰り道なのでした。